1814 北海道に生きた農民画家 神田日勝作品集から

 絶筆の馬が嘶く(いななく)夏の空 農民画家といわれた神田日勝さんが32歳でこの世を去ったのは、1970年8月25日のことである。絶筆となった絵は、この句(妻の神田美砂呼=本名ミサ子さん作)にあるように馬をモチーフにした作品(未完成)だった。私がこの画家を知ったのは初めて北海道に暮らした時で、30年近く前だった。その後、この画家のことは忘れていたのだが、最近になって美術館の図書室でたまたま1冊の本に出会い、中央画壇では知られていない農民画家のことを思い出した。  その本は『神田日勝 作品集成』(神田日勝記念美術館=鹿追町教育委員会)という題が付いた神田さんの作品集で、今年3月に発行された。神田さんが亡くなって49年が過ぎたが、その力強い作品は生きる力を見る者に与えてくれるのである。作品集に寄せた手記で美砂呼さんは、夫との絵に関するやり取りを書いている。このやりとりから、神田さんにとって絵を描くことは、生きる上で欠かすことができないものであることが理解できる。 「絵を描きたいって、どんな気持ち?」 「他人のことは解らないが、僕にとっては生理現象かな」  神田さんは1937年12月に東京・練馬で4人きょうだい(2人の姉と兄が1人)の次男として生まれ、太平洋戦争で東京大空襲に遭った。終戦の前日である1945年8月14日、一家は十勝平野の鹿追町に移住する。中学時代から、のちに東京芸大に進んだ兄一明さん(元北海道教育大学名誉教授)の影響で油絵を描き始め、農業をしながら通信制の野幌高等酪農…

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1806 ハチドリの助けを呼ぶ声 アマゾンの森林火災広がる

 南米ブラジルでアマゾンの熱帯雨林が燃え続けているという。森林火災により今年だけでも鹿児島、宮崎を除く九州と同じ面積(1万8629平方キロ)が焼けてしまい、熱帯雨林が危機になっている。アマゾン地域には「ハチドリのひとしずく」という言い伝えがあるが、ハチドリたちは今、孤軍奮闘しているに違いない。  ハチドリは南北アメリカ大陸と西インド諸島に分布し、一番小さな鳥として知られている。金属光沢のある美しい鳥で、飛ぶ時の羽音がハチに似ているためこのような名前が付けられたのだという。アマゾンにも珍しくないから、言い伝えの中にも登場するのだろう。  日本の絵本にもなった言い伝えは以下のようなものだ。(拙ブログ2014年3月17日=1212回、3月28日=1221回から) 《森が燃えていました。森の生きものたちはわれ先にと逃げていきました。でも、クリキンディという名のハチドリだけは行ったり来たり。口ばしで水のしずくを一滴ずつ運んでは火の上に落としていきます。動物たちがそれを見て、そんなことをしていったい何になるんだ、といって笑います。クリキンディはこう答えました。私は、私にできることをしているだけ。(辻信一監修・ハチドリのひとしずく~いま、私にできること・光文社刊より)》  小さなハチドリだけでは森の火事は消せないかもしれない。だが、そのハチドリに続いて人間を含めた多くの生き物が力を合わせれば、森の火は消せるかもしれない……。この言い伝えは、自分ができることを自分なりにやるという、ボランテ…

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1805 幻想の城蘇る 生き残ったノイシュバンシュタイン城

「私が死んだらこの城を破壊せよ」狂王といわれ、なぞの死を遂げた第4代バイエルン国王ルートヴィヒ2世(1845~1886)の遺言が守られていたなら、ドイツ・ロマンチック街道の名城、ノイシュバンシュタイン城は消えていた。この城を描いたラジオ体操仲間の絵を見ながら、激動の渦に巻き込まれた城の歴史を思った。  城が好きだったという作家の司馬遼太郎は日本やヨーロッパの多くの城について「戦闘よりも平和の象徴のような印象があった」と『街道をゆく』シリーズ「南蛮の道Ⅰ」(朝日文庫)で書いている。では、ノイシュバンシュタイン城はどうだったのだろう。この城はルートヴィヒ2世の命によって1869年から建設が始まり、1886年にほぼ完成した。外観は中世風であり、城内には中世の騎士伝説からの場面を描いた絢爛豪華な部屋があるなど、王の道楽のために造られたと見ることができる。どう見ても戦のための城ではない。同じころの日本は明治維新から明治前半に当たり、鎖国から近代化へと舵を切っていた。城を造ることなど到底考えられない時代、遠いドイツにはこんな王が存在したのだ。  城が完成したこの年、おかしな言動を取るルートヴィヒ2世に対し危機を抱いた家臣たちは、王を逮捕、廃帝としバイエルン州のベルク城に送った。王は翌日、近くのシュタルンベルク湖で医師とともに水死体で発見された。死因は不明とされている。全盛期には作曲家、ワーグナーを支援し、豪華な城の建設にのめり込んだ王の末路は哀れだった。  城を自分だけのものと考えていたため…

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1788 屈原と気骨の言論人 ある上海旅行記から

「私はどうしても屈原(くつげん)でなければならぬ。日本の屈原かもしれない」という言葉を残したのは、明治から昭和にかけての言論人、菊竹淳(すなお、筆名・六皷=ろっこ・1880~1937)である。屈原は、このほど上海周辺を旅した知人の旅行記にも出てくる、中国戦国時代の悲劇の詩人だ。一方、昨今の新聞、テレビの実態は屈原とは対照的に、権力に迎合するトップが目立つのが現状といえるだろう。  屈原は、楚(紀元前3世紀)の貴族として懐王に信任され、国の再興に尽力した。しかし、その後讒言(ざんげん)によって失脚、中国湖南省北東部を流れる湘江の支流、汨羅(べきら)で投身自殺した人物だ。後世、屈原の死んだ日である5月5日に粽(ちまき)を食べる風習が端午の節句になったという言い伝えがある。彼の詩は古代中国の代表的詩集「楚辞」の中に収められ、特に「離騒」はその格調の高さから「史記」で知られる漢の歴史家、司馬遷に評価され、中国最初の詩人として歴史に名を残した。  冒頭の言葉のように、自身を屈原に譬えた菊竹は西日本新聞の前身「福岡日日新聞」の編集局長として犬養毅首相が暗殺された1932年の5・15事件で、全国のほとんど(例外は桐生悠々の信濃毎日新聞)の新聞が沈黙する中で、痛烈な軍部批判のコラムを繰り返し執筆、掲載した気骨ある言論人だった。その生涯は木村栄文著『記者ありき』(朝日新聞社)に詳しく紹介されている。「世を挙げて皆濁りて我独り清めり」という屈原の漢詩を、菊竹は自身の姿に重ね合わせたのだ。首相と夜の懇談を重…

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1785 都市の風景の変化を描く 街を歩く詩人

「記者は足で稼ぐ」あるいは「足で書け」といわれます。現場に行き、当事者に話を聞き、自分の目で見たことを記事にするという、報道機関の基本です。高橋郁男さんが詩誌「コールサック」に『風信』という小詩集を連載していることは、以前このブログでも紹介しました。6月号に掲載された14回目も街を歩き、観察した事象を小詩集にまとめています。元新聞記者(朝日の天声人語筆者)の高橋さんらしい、足で稼いだ作品を読んで、私も東京の街を歩きたくなりました。  日記風に書かれた今号に出てくる街は芭蕉ゆかりの深川と隅田川。場内市場が豊洲に移転した築地場外市場、六本木の東京ミッドタウンと国立競技場近くの青山通り、そして霞ヶ関の国会議事堂です。小詩集には芭蕉と井原西鶴、関孝和(江戸時代の数学者)、ニュートン、デカルトという歴史上の著名人の考察が加えられています。この人々を考えるキーワードは「自由な探求と鋭い透視」です。  芭蕉と西鶴の特徴を高橋さんは以下のように記しています。  動の西鶴に 静の芭蕉  派手な西鶴に寂びの芭蕉  表向きは対照的な両人だが  それぞれの営為には 相通ずるところが透けて見える  それは「自由な探求と鋭い透視」  芭蕉は 人の生について 深く自由な探求と透視を続け   俳諧を 時代を超える芸術にまで至らしめた  西鶴は 建前や柵(しがらみ)から自由な生の探求と透視を続け  浮世草子を 時代を超える芸術にまで至らしめた     街を歩けば出会いがあります…

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1784 いつくしみある地の夏 里山の風景を見る

 室生犀星の詩集『抒情小曲集』のなかの「小景異情」の「ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの」(その2より)はよく知られている。同じ詩集の「合掌」にも実は心に染みるものがある。福島の里山を訪ねて、その思いを深くした。   みやこに住めど   心に繁る深き田舎の夏ぞ   日を追ひては深む   いつくしみある地の夏ぞ      (ハルキ文庫『室生犀星詩集』「合掌」その2より)    福島県矢祭町は茨城県境の南端の町だ。人口は約5600人。清流久慈川に沿って田畑が広がる。ユズやコンニャクが名産で、町名にもなった矢祭山(標高382.7メートル)は4月に桜、5月にツツジが咲き、秋には紅葉が美しい景勝地だ。すぐ下を流れる久慈川のアユ漁は6月2日に解禁になった。里山は同町金沢地区にあり、人の手が入ることがなくなり、雑木や杉が生い茂り荒れ始めていた。その里山の再生が数年前から始まっていた。「来る里の杜」(くるりのもり、全体面積約6ヘクタール)と名付けられた3つの里山の再生活動は、寄付や助成金を基に生い茂った木々を伐採し、その中に遊歩道や東屋を造成、桜をはじめとする様々な花木を植樹するもので、町内や地元のボランティアによって進められた。  2017年3月から始まった植樹は▼ソメイヨシノ▼コブシ▼ロウバイ▼エドヒガンザクラ▼カワズザクラ▼カンヒザクラ▼神代アケボノザクラ▼オモイノママ▼ヒトツバタゴ▼サルスベリ▼オオヤマレンゲ▼ヤマツツジ▼ミツバツツジ▼ヒノデキリシマツツジ▼カツ…

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1783 岡倉天心が愛した五浦 六角堂を訪ねる

「人は己を美しくして初めて、美に近づく権利が生まれる」 日本近代美術の先駆者、岡倉天心(本名、覚三、1863~1913)が、『茶の本』(岩波文庫)の中で、芸術表現について明かした一節の中にこんな言葉がある。天心は晩年、太平洋を臨む福島県境の茨城県大津町五浦(いづら、現在の北茨城市大津町五浦)に居を構え、美術史家、美術評論家として日本の美術運動をけん引した。初めて五浦に行き、天心ゆかりの風景を見ながら、冒頭の言葉の意味を考えた。  五浦は大小の入り江や断崖が続く景勝地で、現在天心の旧宅(当時の半分規模)と観瀾亭(かんらんてい、大波を見る東屋の意味)と呼ばれる六角堂が茨城大学五浦美術文化研究所によって運営されている。少し離れた場所に茨城県天心記念五浦美術館がある。このうち六角堂は天心の設計で1903(明治36)年に建てられ、茶室を兼ね備えた朱塗りの外壁と屋根が宝珠を装った六角形である。太平洋を見下ろす崖すれすれの場所にある小さな建物だ。  六角形の東屋は、中国文人庭園では岩(太湖石)を見るためのものだが、天心は大波を見るイメージで建てたといわれる。室内は茶室となっていて、日本と中国が融合したユニークな建物といえる。すぐ下が海になっていて、2011年3月11日の東日本大震災によりこの建物は津波によって流失してしまったが、翌年に茨城大や北茨城市によって復元されている。天心自身、後年に津波がここまで押し寄せるとは考えもしなかっただろう。  天心は東京開成学校(東大の前身)時代、アメリカ人教…

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1773 憎しみの連鎖 スリランカ大統領と鎌倉大仏

 スリランカ(かつてのセイロン)最大の都市、コロンボで同時多発テロがあり、22午後7時現在日本人を含む290人が死亡し、450人以上が負傷した。スリランカといえば、日本の戦後史に残る政治家がいた。鎌倉大仏殿高徳院境内に「人はただ愛によってのみ憎しみを越えられる。人は憎しみによっては憎しみを越えられない」(英語: Hatred ceases not by hatred, But by love)という顕彰碑がある、ジュニウス・リチャード・ジャヤワルダナ(1906年9月17日~1996年11月1日)である。多くの犠牲者を出した同時多発テロ。憎しみの連鎖は、依然この世界を覆っている。  当時セイロンの蔵相だったジャヤワルダナはセイロン代表として1951年9月6日のサンフランシスコ講和会議に出席、前述の演説をして、日本に対する戦時賠償請求を放棄することを表明した。その後首相を務め、セイロンはスリランカとして国名を替え、再出発した。初代大統領は女性のシリマボ・バンダラナイケで、ジャヤワルダナが第2代大統領になった。親日家として知られ、何度も来日し、1996年に90歳で死去した際、「右目はスリランカ人に、左目は日本人に」という遺言通り、片方の目は群馬県の女性に移植された。  鎌倉大仏境内の顕彰碑の裏には、建立の由来が概略以下のように記されている。  この石碑は対日講和会議で日本と日本国民に対する深い理解と慈悲心に基づく愛情を示されたスリランカ民主社会主義共和国のジュニアス・リチャード・ジャヤ…

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1763 世界はどこへ行くのか NZクライストチャーチの凶行

 ニュージーランド(NZ)南島最大の都市で「ガーデンシティ」と呼ばれるほど美しいクライストチャーチで、信じられない事件が起きた。2つのイスラム教モスク(礼拝所)でオーストラリア人の男が銃を乱射し、50人が死亡した。世界でも有数の安全な国といわれるNZでさえ、こうしたテロが起きる時代。世界はおかしな方向へと突き進んでいると思わざるを得ない。  クライストチャーチといえば、東日本大震災(2011年3月11日)の直前の2月22日、この街はM6・1の地震に見舞われた。この地震によって街の象徴、大聖堂の尖塔が倒壊するなどして多くの人が崩壊した建物の下敷きになり、死者185人が出たことは記憶に新しい。死者のうち28人は日本からの留学生だった。  テレビニュースで、事件の発生場所近くの公園が映し出され、どこかで見たことがあると思った。そうだ、この街の中心部にあるハグレイ公園ではないか。面積は165ヘクタールで東京日比谷公園の10倍もある広大な公園だ。難を逃れ、この公園に避難した人もいたようだ。10数年前、この街を訪れ、公園を歩いたことを思い出した。緑が多く、水が澄んだ川には遊覧用の小舟が浮かび、この街に住む人たちをうらやましく思った。  事件は白人至上主義に陥った28歳の若者の犯行だった。時代が進んでも人種差別は永遠に消えない。米国の白人による黒人差別の歴史は生々しいし、ヒトラー率いるナチスドイツはおびただしいユダヤ人を虐殺した。日本人もまた、アジアの他の国の人たちを見下した時代があった。21…

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1759 桜の季節そこまで 四季の美しさ見つめて

 シンガポールから東京にやってきた19歳の留学生が「初めて四季の美しさに目覚めた」ということを書いた新聞の投書を読んだ。「日本は四季がはっきりしていて、自然が美しい」といわれる。しかし、そうした環境に身を置くと、ついそれが普通と思ってしまいがちだ。この留学生のような瑞々しい感覚を取り戻す機会が間もなくやってくる。桜の季節である。  投書によると、この留学生は東京に住んで人生初の秋の季節を体験したのだそうだ。シンガポールは赤道直下で365日が真夏なのである。イチョウ並木のある街では木々が風に吹かれる音を聞き、落ち葉が道路を黄色く染めているのを見て「こんな絶景が日常にあるなんて」と感動し、道路の真ん中に立ち止まってしまったという。投書の後段がいい。「いつも前向きで一生懸命な日本の方々に少し立ち止まって自然のプロセスを味わってほしい」「効率性のためゆとりを犠牲にしている方が多いと思う。仕事や勉強に追われるあなた、たまには周りの景色を鑑賞してみませんか?」  私たちの日常に、この留学生が見たような風景は珍しくない。だが、がむしゃらに先を急ぐあまりにそれを見過ごしてしまい、無感動の日々を送ってしまうのだ。気象庁の発表によると、ことしの桜の開花は例年より早くなる予想で、無感動な人でもつい立ち止まって花を見上げてしまう日が近づいている。初めての桜をこの留学生も楽しみにしているに違いない。桜は昔からその美しさとともに無常観も漂っているとされていて、さまざまな和歌にも謳われている。西行の「願はくは 花の…

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1758 ほろ苦い青春の一コマ 肘折こけしで蘇る

 先日、友人たちとの会合で懐かしい地名を聞いた。「肘折」(ひじおり)という知る人ぞ知る地域だ。山形県最上郡大蔵村にあり、温泉とこけしで知られている。日本でも有数の豪雪地帯で多いときは4メートルを超すというが、今日現在の積雪量は約2・3メートルだから、この冬は雪が少ないようだ。私の家には数本のこけしがあり、その中に「肘折 庫治」と書かれた1本も含まれている。肘折系こけし工人で著名な奥山庫治の初期の作品なのだが、このこけしを見る度にほろ苦い経験を思い出す。  今から45年前に遡る。1974(昭和49)年4月のことである。大蔵村赤松地区の松山(標高170メートル)が崩れ、土砂は住宅20棟を飲み込み、下敷きになった住民17人が死亡、13人が重軽傷を負う惨事になった。当時、共同通信社の駆け出し記者として仙台支社に勤務していた私は、他の記者やカメラマンとともにこの事故現場に急行し、数日間不眠不休で取材に当たった。  現場の山形県は山形支局のカバー内にあるのだが、支局は記者の数が少なく大きな事件事故が発生すると、仙台支社から応援に行くシステムになっていた。それは今も変わらないはずだ。私はこの年の3月、福島支局がカバーする福島県三島町で発生した国道の土砂崩れ事故現場にも駆け付けた。建設中だった国道の防護壁が雪解けのため崩れ落ち、通行中のマイクロバスと乗用車2台を直撃、8人が死亡、2人が重軽傷を負ったのだ。三島町は福島県会津地方にある豪雪地帯で、車で取材に向かう道路の両脇にはうず高く雪が積もっていた。 …

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1756 消えゆく校歌 ラオスとベトナムで歌い継がれる2つのメロディー

 いま、日本の各地から懐かしいメロディーが消えつつある。校歌である。少子高齢化に伴う人口減少、東京をはじめとする大都市圏への人口の一極集中などによって公立学校の廃校が相次いでいるからだ。当然、校歌を歌う子どもたちの姿は少なくなり、校歌は卒業生の思い出の中に残るだけになってしまう実情が続いている。こんな中、福島県で間もなく廃校になる小学校と統合で消えた小学校の2つの校歌が東南アジアの山岳辺境地帯で歌われているという。嬉しい話題である。どんな経緯があったのだろうか。  文科省の発表によると、原発事故に見舞われた福島県では2002年から2015年度までに全国で10番目に多い158の小学校が廃校になった。福島市に拠点があるNPO特定非営利活動法人シーエスアールスクエア(CSR2)の宍戸仙助理事長は元教員だ。宍戸さんが40年前初めて教諭として勤務した石川郡浅川町立里白石小学校もことし3月末で廃校になる。浅川町に隣接する石川町には高校野球で知られる学法石川高校がある。甲子園に何回も出場したから、高校野球ファンに知られた高校だ。当然、里白石の小、中学校で学んだあと学法石川に学んだ人は珍しくないはずだ。  CSR2は主として福島県や東京都の小中学校の児童生徒や保護者を対象に出前授業と講演会を行い、東南アジアの山岳少数民族の村々でたくましく生きる子供たちの様子を伝え、募金や文房具、スポーツ用具を現地(ベトナムやラオス)の子どもたちに贈る活動をしている。宍戸さんは小学校の教師を長く務め、校長で定年退職した…

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1748「崎山公園」雑感 続・坂の街首里にて(7)完

 坂の街首里から約3週間ぶりに平坦な千葉に戻ってきた。首里の街は急な上り下りが多く、しかも雨の日は石畳が滑りやすく、歩くことにかなり気を使った。体も疲れやすかった。そんな日々を過ごし、わが家周辺を歩くと、妙に足が軽い。スポーツジムで鍛える必要がないほど、首里での生活は筋力トレーニングになったようだ。  日本には美しい坂が各地にある。首里以外では、北から並べると函館の八幡坂、平泉・中尊寺の月見坂、鎌倉の化粧坂切通し、熱海海光町の石畳の坂、京都の三年坂、神戸の北野坂、尾道の千光寺新道、長崎のオランダ坂、平戸の寺院と教会の見える坂道、――などである。これらの坂道と比べも首里(金城町の石畳)は引けをとらない。そこに住む人たちの暮らしは楽ではない。その一方で、高台ゆえの眺望には魅力がある。滞在していたマンションのベランダに出ると、首里の街が一望できた。白いビルの美しい風景広がり、後方に青い海も見える。かすかに慶良間諸島の島影もある。  首里城にも那覇の全景を見ることができる場所(西のアザナ)があり、そこは多くの外国人でにぎわっていた。首里城から徒歩6、7分の所にある「崎山公園」は人影も少なく、私の憩いの場所でもあった。私は那覇滞在中、ほぼ毎日この公園の展望台から那覇の街を眺めた。朝、公園に足を向けると、近所のおばさんがごみを集めていて、公園はきれいになっている。おばさんとは昨年4、5月に那覇に滞在した際に知り合いになっていたから、朝の挨拶を交わす。すると、彼女は「ラジオ体操をやりませんか」と私を…

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1746「魅力に満ちた伝統建築と風景のものがたり」続・坂の街首里にて(6)

 沖縄在住20年になる友人が、沖縄の建築物と風景を紹介するコラムを書き続けている。過日、その友人に会い懇談した。沖縄の魅力に惹かれて夫とともに本島中部の本部町に移住した友人はすっかり沖縄の人になっていた。  友人は馬渕和香さんといい、翻訳家の夫とともに23年前、埼玉県浦和市(現在のさいたま市)から奄美大島に移り住んだ。3年後、奄美大島から本部町のちゅら海水族館近くにある古民家に移り、20年になる。和香さんは沖縄の伝統建築に興味を持ち、既に朝日新聞デジタルに「沖縄建築パラダイス」という30回の連載コラムを書いている。  現在は「タイムス住宅新聞(沖縄タイムスの副読紙)ウェブマガジン」に「オキナワワンダーランド」というコラムを2016年4月から月1回のペースで連載、この1月で33回を数えた。コラムの説明には「沖縄の豊かな創造性の土壌から生まれた魔法のような魅力に満ちた建築と風景のものがたりを、馬渕和香さんが紹介します。」とあり、連載されたコラムの取材地は沖縄本島各地に及んでいる。「世界一小さくてやさしい美術館」(糸満市・6回目)や「石の家に息づく70年前の美術村」(那覇市・17回目)、「生まれ変わった戦前の泡盛屋」(名護市・32回目)等、沖縄に住んでいる人でも気が付かない魅力的な建物や風景、空間を分かりやすい記事と美しい写真で紹介している。  もちろん、自宅周辺の本部も登場する。13回目には陶芸家和田伸政さんの工房を紹介した「陶芸の楽しさ 沖縄でふたたび」を、24回目にはベネズエラ生…

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1745「美しく花開くためには」 続・坂の街首里にて(5)

「むせび哭く み魂の散りしか この丘に かすかにひびく 遠き海鳴り」――悲しみを歌ったこの短歌があるのは、沖縄県糸満市摩文仁の平和祈念公園だ。この公園にはこれまで何度か足を運んだ。しかし、高台にある各都道府県の碑には初めて行った。そこは私たち以外には人影はなかった。遥か遠くに神が宿る島といわれる久高島が見えた。  平和祈念公園には、シニアボランティアが担当する1人100円の電動カートがある。説明を聞きながら、園内を回った後、再び高台まで歩いた。そこで「福島の塔」にある冒頭の歌を見た。私の父はフィリピンで戦死し、遺骨は戻っていない。「福島の塔」には「われわれ福島県民は 第2次世界大戦後21年にあたり 祖国の繁栄と平和を祈って 大戦時海外において祖国に殉じた本県出身者6万6千余柱の英霊につつしんでこの塔を捧げます」と記されていた。私はこの塔に合掌しながら、フィリピンに眠る父を思った。  さらに歩を進める。「島根の塔」と「ひろしまの塔」の碑には短い言葉が記されていた。 「島根」  美しく花開くためには  そのかくれた根のたえまない  営みがあるように  私達の  平和で心静かな日々には  この地に散ったあなた達  の深い悲しみと苦しみが  そのいしずえになっている  ことを思い、ここに深い  祈りを捧げます 「広島」  海を渡り また 海を渡り  郷土はるかに 戦って還らず  沖縄に散り 南方に散る  護国の英霊3万4千6百余柱  ここに とこしえに 鎮…

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1744 辺戸岬の「復帰闘争碑」 続・坂の街首里にて(4)

 沖縄本島最北端の辺戸岬に行った。首里から車で約2時間半。断崖の下に広がる冬の海は白波を立て、以前見たような既視感を抱いた。そうだ。ユーラシア大陸最西端のポルトガルのロカ岬と印象が似ているのだ。ロカ岬にはポルトガルの国民詩人といわれるルイス・デ・カモンイスの詩の一節「「ここに地終わり海始まる」が刻まれた十字架の石碑が建っていた。一方、辺戸岬には「祖国復帰闘争碑」と社会派の俳人、沢木欣一の句碑の2つが建っていた。「全国の そして世界の友人へ贈る」という書き出しの前者の碑を読みながら、沖縄の現状はこの碑が建った1976年当時と変わっていないことを実感した。  辺戸岬は2016年9月15日 に国立公園に指定された「やんばる国立公園」内にあり、沖縄本島の最北端の地だ。はるか遠くに鹿児島県最南端の与論島が浮かんでいる。2つの碑を読んだ。「祖国復帰闘争碑」は長い文章だが、以下に全文を紹介する。  全国の そして世界の友人へ贈る  吹き渡る風の音に 耳を傾けよ  権力に抗し 復帰をなしとげた 大衆の乾杯の声だ  打ち寄せる 波濤の響きを聞け  戦争を拒み 平和と人間解放を闘う大衆の雄叫びだ  鉄の暴風やみ 平和の訪れを信じた沖縄県民は  米軍占領に引き続き1952年4月28日  サンフランシスコ「平和」条約第3条により  屈辱的な米国支配の鉄鎖に繋がれた  米国支配は傲慢で 県民の自由と人権を蹂躙した  祖国日本は海の彼方に遠く 沖縄県民の声はむなしく消えた  われわれの闘いは…

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1743 琉球王朝の初春儀式を見る 続・坂の街首里にて(3)

 新年を首里で迎えた。すぐ近くの首里城では約450年続いた琉球王朝時代に行われていた正月の儀式が公開された。初もうでは首里城周辺の3つの寺を回った。私の干支・酉年にちなむ寺で引いたおみくじは大吉だった。さて、今年の世相はどうなるのだろう。沖縄の2つの新聞の社説は「[辺野古 重大局面に]国会で説明責任果たせ」(沖縄タイムス)、「新年を迎えて 日本の民主主義は本物か」(琉球新報)――という見出しで、米軍普天間飛行場の辺野古移設に伴う新基地建設を政府が強行している問題に触れていた。    琉球・沖縄の歴史をみると、12世紀ごろから各地に出現した按司(あじ)と呼ばれる豪族が抗争と和解を繰り返していたが、1429年に尚巴志(しょうはし)がこれら主要な按司を統合、琉球王国が成立し、独自の海洋国家として発展した。首里城はその政治、経済、文化の中心だった。だが、1609年、薩摩藩によって侵略され、以降琉球は薩摩藩の従属国になった。さらに明治維新後、武力を背景にした明治政府によって「琉球国の廃止と琉球藩(1872年)の設置」、「琉球藩の廃止と沖縄県設置(1879年)」という琉球処分政策が実施され、琉球王朝は完全に滅び、沖縄は日本の一県になった。  琉球新報は「ことしは1879年の琉球併合(琉球処分)から140年になる。沖縄を従属の対象として扱う政府の姿勢は今も変わっていない」と日本政府を批判。さらに「辺野古での新基地建設の強行は、日本から切り離された1952年のサンフランシスコ講和条約発効、県民の意に反し…

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1742 沖縄の正史と 稗史 続・首里の坂道にて(2)

 歴史には正史と 稗史(はいし)・外史がある。正史は権力を持った側が自分の都合のいいように書いたといっていい。権力側=正義、反権力側=悪――という構図である。その構図が真実かどうかは分からない。普天間基地移転と名護市辺野古への新基地建設問題は、後世の人にはどのように受け止められるのだろう。  世界遺産に指定されている座喜味城(ざきみぐすく・沖縄県中頭郡読谷村)跡に行き、琉球正史の「護佐丸・阿麻和利の乱」を考えた。この城は、沖縄の歴史上、築城の名人といわれた護佐丸 盛春(生年不詳 - 1458年)によって造られた城で、東シナ海を望む標高120メートルの、国頭マージといわれる赤土の軟弱地盤に建っていた。  1458年、尚泰久王治世下の琉球王国で内乱が発生した。王位に就こうという野心を持った勝連城(現在のうるま市)の按司(あじ=首長)阿麻和利が、尚王の忠臣といわれた中城城の按司・護佐丸を「戦の準備をしている、これは尚王への謀反だ」と讒言(ざんげん・他人を陥れようと、事実を曲げた告げ口をすること)、これを信じた尚王は阿麻和利に護佐丸追討を指示、阿麻和利の軍勢は護佐丸の拠点、中城城に押し寄せる。護佐丸は琉球の制覇の野望を持つ阿麻和利を監視し、いつでも対抗できるよう訓練を続けていたといわれる。  敵の阿麻和利軍に「王府の旗」を見た護佐丸は、王府に矢を向けることはできないと長男、次男とともに自害した。忠臣たるゆえんの悲劇だった。乳飲み子だった3男だけは乳母の手で脱出し、国吉比屋(くによしぬひや…

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1741 歳末雑感 続・坂の街首里にて(1)

 那覇の首里にいる。最高気温16度と寒く、風も強い年末だ。そんな中、居酒屋のオープンテラスで、夕食のひと時を送った。沖縄の人たちも寒そうにしながら道を歩いている。テレビでは、北海道や日本海側の地方の雪の景色を映し出している。  年末年始を自宅から離れて過ごすのは、かなり久しぶりだ。年中無休のメディアに勤務していたから、いつでも呼び出しに応じることができる態勢をとっていた。それだけ、頭の中では緊張状態を保っていたのだろうか。羽田空港で、元同僚と偶然に会った。奥さんの実家の福岡に行くところだった。腰の骨を折る大けがを克服した元同僚は杖に頼って歩いていた。彼の完全治癒を願って別れた。  首里城周辺を散歩していると、外国人が目立つ。欧米系の人よりも中国や台湾の人と思われる人たちが圧倒的である。日本列島の中で、沖縄は四季を通じて温暖という印象があるから、このところの寒さに観光客も驚いているかもしれない。いずれにしろ、まぶしい陽光が待ち遠しい。  首里の街を歩きながら、ことし1年を振り返った。昨年に続き政治の動きに憤りを感じた1年だった。政治家というよりも政治屋という人種が多い国会に半ば絶望しながら、ニュースを見続けた。働き方改革法案、統合型リゾート実施法(いわゆるカジノ法案)、外国人人材の大幅受け入れを認める出入国管理法改正案など重要法案は、いずれも強行採決で成立した。年末の国際捕鯨委員会(IWC)脱退という時代錯誤の政策にも驚いた。政治にもはや希望を持つことはできないのだろうか。それでも…

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1701 朝鮮出兵に巻き込まれた男の数奇な運命 飯嶋和一の『星夜航行』

 14世紀後半、豊臣秀吉は明(現在の中国)征服を唱えて2回にわたって朝鮮出兵を行い、、明の従属国だった李氏朝鮮を攻撃した。「文禄・慶長の役」(1592~93、97~98)といわれる朝鮮侵略だった。飯嶋和一の『星夜航行』(新潮社)を読んだ。この侵略戦争に巻き込まれた海商の数奇な運命を描いた1100頁(上下巻)を超える壮大なスケールの物語であり、人の運命はその時代から逃れられないこと、為政者の誤った考えがいかに危険であるかを示した作品だ。  この長編小説の主人公は、徳川家康の長男、信康の小姓だった沢瀬甚五郎という男だ。甚五郎の父は家康に叛いたため家は没落するが、祖父によって武術を鍛えられた甚五郎は、その才能が認められ信康の小姓になる。しかし家康とそりが合わなかった信康が自刃すると絶望した甚五郎は出奔、その後海商として働きながら豊臣秀吉の朝鮮出兵に巻き込まれていく。大きなスケールの物語と書いた通り、当時の岡崎(愛知)、堺(大阪)、山川(鹿児島)、博多(福岡)、名護屋(佐賀)といった国内だけでなく、琉球(沖縄)、呂宋(フィリピン)、そして、朝鮮半島各地(文禄・慶長の役)も主要舞台として描かれる。  出版まで9年を要したという。それだけに内容は多岐にわたり、秀吉によって捕らえられ、長崎で処刑されたスペイン宣教師6人と日本人信者ら「日本26聖人」の殉教についても詳しく触れている。中でも精細なのは「文禄・慶長の役」の描写だ。この戦いの中心的役割を担う小西行長の動き、加藤清正の蔚山城(うるさんじょう)…

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1700 初秋の風物詩 マロニエの実落下が続く遊歩道

 私の家の前は遊歩道になっていて、街路樹としてのけやきの大木がある。そのけやき通りを東に歩いていくと、街路樹は数本のクスノキとなり、さらにその次にはマロニエ(セイヨウトチノキ)が植えられている。9月になった。マロニエの実が次々に落ちてきて、気を付けないと頭に当たる。遊歩道はマロニエの実と剥がれた皮が転々としていて、初秋の風物詩を演出している。  マロニエは私が参加しているラジオ体操広場にもある。この広場は遊歩道とつながっていて、毎日40人前後が集まってラジオ体操をする。学校の夏休み中は数人の子どもが参加していた。だが、途中でその数が減り、最後まで残ったのは小学校1年生の小さな女の子1人だった。マロニエの実は8月下旬から少しずつ落ち始めていて、女の子はある日小さな手いっぱいに実を集めて家に持ち帰った。栗の実と思ったようだった。だが、母親から「栗とは違うよ。庭に埋めなさい」と言われたそうで、次の日から集めるのはやめた。夏休みが終わって女の子は姿を見せなくなった。そして遊歩道と体操広場には落ちた実がかなり目立つようになった。  以前、スロバキアの首都、ブラスチラバでちょうどマロニエの実が落ちている公園を歩き、風情を感じた。だが、遊歩道もそうだが、トチノキやマロニエが街路樹となっている場合、実が落ちる時期、歩行者はけっこう歩きにくいのではないかと思われる。マロニエの通りで知られるパリのシャンゼリゼ通りにはマロニエが街路樹として植えられ、秋にはかなりの実が落下し、歩行者の頭を直撃することがあるそ…

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1695 シベリアで死んだ友人の父のこと してるふりの遺骨収集

 正午、甲子園球場の高校野球が中断し黙とうの放送が流れた15日、友人がフェースブックでシベリアに抑留されて命を落とした父親のことを書いている。父親がシベリアで亡くなったことは聞いていたが、旧満州時代のことは初めて知った。友人にとってもこの日は辛く悲しい1日なのだ。 《きょう8月15日は終戦記念日。この日を考えると毎年辛い。戦時中、東京の金属会社に勤めていた父親は召集され、中国東北部、今の黒竜江省平房(ピンファン)にあった日本軍の731部隊に従事し、戦後侵攻してきたソ連軍に拉致されシベリアの収容所で強制労働をさせられて病気になった末、餓死した。森村誠一氏の『悪魔の飽食』で知られる731部隊。生体実験に供された中国の人は何の罪もない農民が多かったと聞く。  731部隊とは別の日本軍の秘密組織が武器を持たない中国の農民を~コーリャン畑などで働いていた農民を~拉致して平房に送っていたらしい。無茶苦茶な話だ。その拉致には日本の一般家庭から供出させた犬も軍用犬として使われ、重要な役割をした。戦争の加担は思わぬ所にも及んでいた。中・大型犬を見ると、つい生体実験を連想してしまう。特にこの時期は。》  私は1984年6月、3週間にわたって初めて中国を訪れた。回ったのは北京、上海のほかは旧満州(東北部)地区が中心で大連、鞍山、瀋陽、長春、チャムス、ハルビンなどで取材を続けた。この旅の途中、ハルビン近郊の平房にまで足を伸ばし、731部隊跡を見る機会があった。当時のメモには部隊跡の具体的説明とは別に、以下の…

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1690 台風一過の午後のひととき プレーヤーに入れたCDはあの曲

 台風一過、暑さが戻ってきた。こんな時にはCDを聴いて少しでも暑さを忘れたいと思う。プレーヤーに入れたのは、チャイコフスキーの「弦楽セレナード」(ネヴィル・マリナー指揮、アカデミー室内管弦楽団)だった。実は昨日、友人が演奏者として参加したコンサートでこの曲を聴く予定だった。しかし台風が接近したのに加え急用ができてしまい、出かけることを断念した。そのため、この曲をかけようと思ったのだ。  友人は首都圏のある都市の市民オーケストラでバイオリン奏者として活動している。昨日はその定期公演会で、この曲やモーツァルトの交響曲41番「ジュピター」を演奏した。「弦楽セレナード」は1881年にチャイコフスキーがモーツァルトを意識してつくったといわれるが、いずれにしても明るくて幸福感に満ちた曲である。これから12年後の1893年に完成した交響曲6番「悲愴」は極めて憂愁に満ちた曲であり、私はこのCDをプレーヤーに入れるのをためらうことがある。友人は別の活動のために、しばらくオーケストラを休団するという。だから、今回のコンサートは特別の意味があったに違いない。そして、この曲とモーツァルトの41番は思い出に残る演奏になったのではないか。  作家でクラッシック音楽を愛好する佐伯一麦(さえきかずみ)は『読むクラッシック』(集英社新書)の中で、デンマークで出会ったタクシー運転手のことを書いている。佐伯がペンネームに「麦」を使っているのは、麦畑を多く描いたゴッホから取ったのだそうだ。「麦畑のように、誰にとってもありふれ…

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1687 孤軍奮闘の御嶽海 甘えの横綱たち

 3人の横綱だけでなく、新大関の栃ノ心までけがで休場した大相撲名古屋場所。14日目で関脇御嶽海が初優勝を決めた。それに対し残った大関2人は元気がなく、ようやくカド番を脱した。それでも人気があるから、相撲協会は危機感を持っていないのかもしれないが、大相撲史上に残る寂しい場所といっていい。背景には横綱の甘えがあるように思えてならない。  大相撲の横綱は、休場しても横綱から陥落・降格することはない。昔からの慣例だ。これに関するきちんとした制度はなく、1958(昭和33)年に横綱審議会が公表した横綱昇進基準(内規)4が運用されているようだ。それは以下のような内容だ。 《横綱が次の各項に該当する場合は、よく調査したうえ、全委員の3分2以上の決議により、激励、注意、引退勧告などをする。横綱の格下げ、およびこれに準ずる制度は取りあげない。  • 休場の多い場合。ただし、休場が連続するときでも、ケガや病気の内容によつて再帰の可能性があると認めた場合には治療に専念させることがある。  • 横綱としての体面を汚した場合。  • 横綱として非常に不成績であり、その位に耐えないと認めた場合。》  横綱になって皆勤した場所が1場所しかない稀勢の里をはじめ、今場所途中休場した白鵬、鶴竜とも最初の項目が適用されるから、降格はない。それだけ横綱は特別な存在なのだ。それにしても最近の横綱は安易に休み過ぎる。スポーツにけがは付き物だ。特に相手と戦う相撲を含め、格闘技は特にけ…

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1678 絶望的状況の中でも タイの少年たちへ

 タイ北部チェンライ郊外のタムルアンという洞窟でサッカーチームの少年12人とコーチ1人の計13人が不明になって2日で9日となる。昼夜を徹しても救助活動が続いているが、大量にたまった濁水で作業は難航しているという。このニュースを見て、2010年にチリで起きた鉱山の落盤事故を思い浮かべた。それは絶望的状況に置かれても、人間の強い生命力を示すものだった。  チリ北部のコピアポ近郊のサンホセ鉱山事故は、次のような経過をたどった。2010年8月5日、地下634メートルの坑道が、坑道入り口から5キロの地点で崩落、33人の男性鉱山作業員が閉じ込められた。救助作業の結果、18日目に作業員らの生存が確認され、69日後の10月13日に全員が救出された。それは奇跡のような救出劇だった。  この間、地下現場では現場監督をリーダーとして統制のとれた生活を続けた。限られた食料は配給制にして、落盤事故の再発に備えて交代で見張りを立て、約50平米を寝る場所、食事をする場所など3つの生活空間に仕切っていたという。9月7日に行われたサッカーの国際親善試合チリ対ウクライナ戦を、ファイバースコープを使った映像システムで33人に見せるという心のケアもあった。  タイの少年たちがどのような経緯で洞窟に入ったのかは分からない。新聞報道によると、少年たちは6月23日午後、洞窟に入ったが、大雨で水があふれてしまい、外に出ることができなくなったようだ。洞窟入り口から約5キロの空洞付近に避難している可能性があるという。タイの軍、…

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1677 恩讐のかなたに 明治維新と会津

 ことしは明治維新から150年になるという。明治維新については様々なとらえ方があるが、日本社会が武家中心の封建国家から近代国家へと大きく転回したことは間違ない。その裏で薩摩、長州藩を中心にした新政府軍(官軍)と戦った旧幕府軍は賊軍といわれ、奥羽越列藩同盟各藩の人々は大きな辛酸をなめた。特に会津がそうだった。  年貢の相次ぐ増額に苦しんだ農民たちは会津戦争が終わると一揆を起こし、新政府軍に降伏した前藩主松平容保が江戸へ送られるとき、民衆は知らぬふりをしてかつての殿様を無視したという。それから20年後、容保と民衆の再会の機会が訪れる。それは恩讐を超えたものだった。  会津藩が新政府軍に降伏したのは、1868(明治元)年9月22日(旧暦。新暦では11月6日)のことで、容保は養子で12歳の藩主喜徳(水戸藩主徳川斉昭の19男、15代将軍徳川慶喜の弟、後に容保との養子縁組を解消)とともに、市内の妙国寺で謹慎したあと10月17日(同11月20日)江戸に送られた。容保一行を新政府のお雇い外国人でイギリス人医師のウィリアム・ウィリスが目撃し、イギリス公使パークス宛に報告書として提出している。ウィリスは戊辰戦争が起きると傷ついた新政府軍兵士治療の目的で激戦地に入り、越後では敵味方関係なく治療することを進言し、実践した人物だ。  報告書によると、容保と喜徳は大きな駕籠に乗り、家老や供の者は徒歩で帯刀なしの丸腰姿で悄然とした姿だった。警護の兵たちを除けば、容保一行を見送ったのはわずか十数人しかいなかった…

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1676 思い出の花を求めて 乃南アサ『六月の雪』

「欖李」(ランリー)という花の存在を初めて知った。乃南アサの小説『六月の雪』(文藝春秋)は、32歳の杉山未來という女性がけがをして入院中の祖母を励ますため、祖母が生まれ育った台湾の台南を訪ねる物語だ。祖母は台南で「6月の雪を見た」と記憶し、その真相を探る未來の旅の中でこの花が作品の題名に通ずる、重要な役割を演じているのだ。   台湾で「欖李」といわれるこの花は、和名で「ヒルギモドキ」(蛭木擬)といい、アジア、アフリカ、太平洋の熱帯から亜熱帯地域(沖縄本島が北限)に生育するシクンシ科の常緑樹でマングローブの樹種に属する。幹が直立し樹高は10メートルにもなるが、沖縄のものは4~5メートル程度という。葉は卵状か広楕円形、多肉質で光沢がある。3~7月ごろに白い花(5弁花)が咲く。環境省の絶滅危惧IA類 (CR)(環境省レッドリスト)に指定されており、日本ではかなり少なくなっているようだ。 『六月の雪』で、台南を訪れた未來は祖母のルーツを求めて旅をし、さまざまな人と出会い、苦難の人生を歩んだ女性の話も聞かされたりする。そんな中で未來は祖母が「6月に海に行く途中、雪を見た」と言ったことが頭から離れない。そして、旅の終わりにこの花に出会うのだ。そのシーンを乃南は以下のように書いている。 《「これ。六月の雪」  劉慧雯が日本語で言った。未來は「これが」と呟いたきり、その場に立ち尽くした。  確かに、雪と言われれば雪のように見えなくもなかった。だが未來の中では、もっと辺り一面を真…

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1675 なちかさや沖縄 今を「生きる」

 23日は沖縄慰霊の日だった。糸満市摩文仁の平和祈念公園で開かれた沖縄全戦没者追悼式。ことしも中学生による平和の詩の朗読があった。沖縄県浦添市立港川中3年の相良倫子(14)さんが読み上げる「生きる」という詩を聞いていて、胸が熱くなった。それは戦後沖縄でうたわれた「屋嘉節」という民謡を彷彿させるものだった。 「屋嘉節」(金城守賢作詞、山内盛彬作曲)はこんな民謡だ。  なちかさや沖縄(うちなー) 戦場(いくさば)になやい 世間御万人(うまんちゅ)ぬ流す涙  あわり屋嘉村の闇夜の鴉 親うらん我が見 泣かんうちゅみ (なつかしい沖縄は戦場となり、あまたの人たちが涙を流したのです/哀れなのは屋嘉村の闇夜のカラスです、親をなくした私が泣かないでいられましょうか・与那原恵『首里城への坂道』・中公文庫より)  約20万人が亡くなった沖縄戦。生き残った32万人の住民は米軍が各地につくった捕虜収容所に収容された。また投降した旧日本兵7千人は国頭郡金武町屋嘉の収容所で生活し、ここで「屋嘉節」が生まれたといわれている。沖縄戦の悲惨さを歌ったこの民謡は、複数存在する歌詞ととともに今も歌い継がれている。  沖縄で民謡を奏でる際には三線という弦楽器を使う。しかし戦争はこの民族楽器に対しても容赦はしなかった。三線は沖縄から消えたのだ。後掲の相良さんの詩にもそれが書かれている。「サンシンをうしなった人びとは、米兵が捨てたおおぶりの空き缶を使って『カンカラ(缶)サンシン』をつくり、この悲哀にみちた民謡をう…

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1667 「ここに地終わり海始まる」 心揺さぶられる言葉

「ここに地終わり海始まる」ポルトガルの国民詩人ルイス・デ・カモンイス(1525?-1580)の詩の一節だ。リスボンの西シントラ地方のロカ岬はユーラシア大陸の西の果てといわれ、140メートルの断崖の上に十字架がある石碑が建っている。そこにはこの言葉が刻まれている。混沌とした時代。なぜかこの言葉が心を打つ。  作家の宮本輝は、同名の小説を新聞で連載し、1991年10月、単行本(講談社)として出版した。その本のあとがきでこの言葉に触れている。「ポルトガルのロカ岬はヨーロッパ最西端の地なのですが、そこに〈ここに地終わり 海始まる〉という碑文が刻まれていて、私はこの文章になぜか烈しく心を揺すられました。どうしてなのか、私にはよくわかりません。ですが、私はこの言葉をそのまま小説の題にさせていただき、地方新聞十数社で210回にわたって連載しました」  宮本輝が「烈しく心を揺すられた」という言葉。たった一行とはいえ、私は雄大な自然のスケールと人間の歴史を思い描く。ユーラシア大陸はアジアとヨーロッパを合わせた大陸であり、地球の陸地面積の40・4%に及ぶ巨大な地域である。その「最西端」がロカ岬(「最北端」はロシア・チェリュスキン岬、「最東端」は同・デジニョフ岬、「最南端」はマレーシア・ピアイ岬)である。  カモンイスはポルトガルの発展のために尽くした人々の業績を描いた叙事詩「ウズ・ルジアダス ルーススの民のうた」(池上岑夫訳・白水社)を書いた。この言葉はその中の一節だ。ポルトガルとスペインは15世紀…

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1664 品格ある麦秋風景 日暮れを忘れるころ

 間もなく麦の穂が実り、収穫するころをいう「麦秋」を迎える。七十二候では小満「麦秋至」(新暦で5月31日~6月4日ごろ)だ。私の家の周辺で麦畑を見るのは困難だが、同じ千葉市内の知人の自宅近くには農家があって麦を栽培しているという。収穫期を迎え、黄色く色づいた麦畑は、私の子どものころに親しんだ風景でもあった。  先日、正岡子規を愛好する人たちが集まった句会があった。兼題の一つとして「麦秋、麦の秋」が出された。私は「麦秋や美瑛の丘にゴッホ来る」という句を提出した。この句について、主宰者は「大胆な惜辞(そじ・詩歌や文章などの言葉の使い方や句の配置の仕方)が買われた(評価された)とみます」と評した。私は麦秋といえば、この句のようにゴッホの絵と北海道美瑛の風景を頭に浮かべる。  麦畑をテーマにしたゴッホの絵はよく知られている。「カラスのいる麦畑」「嵐の空の下の麦畑」「黄色い麦畑と糸杉」「緑の麦畑と糸杉」そして「ラ・クローの収穫」などだ。このうち「ラ・クローの収穫」は郷愁を感じさせる作品で、私の好きな絵の1枚に入る。パリからアルル(南フランス)に移り住んだゴッホは、遠くに青い山々を望み、見渡す限りに続く黄金色の麦秋の田園風景をくっきりと鮮やかに描いた。生涯、精神の不安定さに悩まされたといわれるゴッホだが、この絵からは作者自身の心が安定していたことを思わせる静謐さが漂っている。  一方「美瑛」は、私が初めて北海道に住んだ1990年当時、全国的にはそう知られていなかった。富良野とともに美瑛の美し…

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