1929 文芸作品に見る少年たち 振り返る自分のあの時代

 最近、少年をテーマにした本を続けて読んだ。フィクションとノンフィクションに近いフィクション、ノンフィクションの3冊だ。読んだ順は馳星周『少年と犬』(文藝春秋)、高杉良『めぐみ園の夏』(新潮文庫)、佐藤優『十五の夏』(幻冬舎文庫)になる。それぞれの作品に出てくる少年の姿を想像しながら、遠くなった私自身の少年時代を振り返った。それにしても、佐藤優が15歳の高校1年生の夏に体験した東欧諸国一人旅は、私の想像を超えていた。

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1910 奇跡を願うこのごろ 梅雨長し部屋に響くはモーツァルト

「奇跡」を辞書(広辞苑)で引くと、「(miracle)常識では考えられない神秘的な出来事。超自然的な現象で、宗教的真理の徴(しるし)と見なされるもの」とある。2020年の今年こそ、奇跡が起きてほしいと願う人が多いのではないだろうか。ある日突然、この地球から、新型コロナウイルスによる感染症が消えてなくなるという奇跡である。だが、どう見ても、この奇跡は起きそうにない。  かつて、私は奇跡に近い出来事に遭遇したことがある。太平洋戦争の激戦地だったガダルカナル島(現在のソロモン諸島国)に平和慰霊の公園が完成、この取材に行った際、高台の公園から町に下りるバスに乗った。そのバスがブレーキ故障のために曲がりくねった坂道を暴走し、そのままでは右側の谷に転落する可能性が強かった。谷は深いジャングルになっていて、バスが転落したら乗っていた35人全員の命はなかっただろう。しかし、危機が迫った時、運転手はバスを谷と反対の左側の切り立った崖にぶつけて止めようとした。バスは横転して止まり、30人が重軽傷を負ったが、死者はいなかった。    実は、助手席に乗っていたガダルカナル戦で生き残った人が大きな声で「レフトサイド!」と叫び、それを聞いた運転手が左にハンドルを切り、ジャングルへの転落は免れたのだった。運転手は右腕をなくす重傷だった。助手席の人は修羅場を経験していたから、危機的状況にあっても冷静で、あのような機転を利かせたのだろう。その後、この事故で死者が出なかったのは奇跡に近いと、記者仲間から言われた。あれからか…

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1908 魔手から子どもたちを守れ コロナ禍の少数山岳民族地帯の現状

「人里離れた地域や経済的に困難な家庭環境にいる子どもたちが、様々な危機に直面しています」。山岳少数民族地域など、アジアの辺境で学校建設を進めているNPOアジア教育友好協会(AEFA)の会報30号に、新型コロナウイルスがこの地域の子供たちに深刻な影響を及ぼしている実情が掲載されていた。そんな子どもたちに「一条の光」が差し始めているという。 「『新型コロナ』その先を考える」と題した会報には、ベトナム、タイ、ラオス、スリランカの状況が現地NGOからの報告として掲載されている。いずれも外出禁止や休校といった社会隔離政策がとられたが、タイの非常事態宣言が今月31日まで延長されたものの、既に経済活動を再開している。4カ国のAEFAが支援活動をしている地域では、コロナによる感染者は出ていない。しかし、社会的に隔離された状況下、子どもたちに魔手が伸びているというのだ。以下の記述を読んで、コロナの影響の深刻さを感じるのは私だけではないだろう。 「村の封鎖等、地理的な移動が制限されたことにより、日雇い労働に従事していた村人たちが収入を失い、食料不足や経済的困窮が迫っています。精神的なストレスが女性や子どもへの家庭内暴力や、少数民族へのいじめにつながるケースもあるようです。また、学校が休校になったことで、子どもたちは思わぬ危険にさらされることになりました。親が畑仕事に出ている間に怪我をしたり、勉強する手段がないため無為の生活(ただ、ぶらぶらしている)に陥ってしまったり、人身売買のリスクも高まっているようです…

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1906 気になることを調べる楽しみ「紫陽花、曲師、風呂」について

 新聞を広げると、このところ毎日暗いニュースが紙面を埋め尽くしている。世の中の動きを正確に伝えるのが使命だから、紙面が豪雨被害、コロナ禍を中心になるのは当然なことだ。そして、豪雨の被害者やコロナで亡くなった人たちを思うと、気持ちが落ち込んでしまう。少しでも気持ちを落ち着かせようと、本棚からたまたま並んでいた3冊の本を手に取った。「本を読む楽しみ」を味わおうと思ったからである。  まず初めに頁を開いた本は、中村幸弘『難読語の由来』(角川文庫ソフィア)だった。この中で、梅雨の季節を象徴する花「紫陽花」について中村の解説を読んだ。以下はその概略。 「この熟語訓(熟語に訓読みを当てたもの)は古くから見られる。『和名抄』(和名類聚抄、平安時代に作られた辞書)には、「紫陽花 白氏文集律詩に紫陽花と云う 阿豆佐為(あづさゐ)」とある。現代訳にすると、中国唐時代の白楽天の詩文集である『白氏文集』、の律詩の中に『紫陽花』とあり、その「紫陽花」に相当する日本語があづさゐだ、という意味だ。     「あじさい」(という平仮名)はもっと古く、上代の文献の中にもある。「あじさゐの八重咲くごとく彌(や)つ世をいまわが背子(せこ)見つつ偲(しの)はむ」(万葉集。紫陽花が八重に咲くように、幾重にも栄えておいでください、わが君よ、私はその立派さを仰いで讃嘆いたしましょう)である。  その本文には万葉仮名で「阿豆佐為」と書かれているが、解説には「味狭藍(あじさゐ)とある。「味」は褒める言葉で、「狭藍」は青い花の色を言…

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1899 あの閃光が忘れえようか  広島を覆う暗雲

  あの閃光が忘れえようか   瞬時に街頭の三万は消え   圧しつぶされた暗闇の底で   五万の悲鳴は絶え    峠三吉の「八月六日」という詩は、こんな書き出しで、以下原爆投下後の広島の惨状を綴っています。あと1カ月余で、広島に原爆が投下されて75年になります。その広島は今、原爆とは異なる黒い雲に覆われているのです。前法務大臣河井克行、案里夫妻による公選法違反(買収)容疑事件であることは言うまでもありません。  案里氏が昨年夏(7月21日投開票)の参院選に立候補した際、広島県内の首長や議員ら94人に2570万円をばらまいた疑いが濃厚になっているのです。渡した疑いが持たれる夫妻は東京地検特捜部に逮捕され、もらった方も次々にその事実を認め、市長をやめるという人や、頭を丸刈りにして市長続投を主張する人など、さまざまな関連ニュースが続いています。「金権選挙」という言葉を思い出しました。  試みに「故事ことわざ辞典」(東京堂出版)で「金」にまつわる故事を引いてみました。たくさんあります。このうち、負の側面が強いと思われることわざを記してみましょう。  金があれば馬鹿も旦那 金があるおかげで、ばかがだんなといわれて世間をとおること  金が敵 金銭がわざわいのもと。金銭のために身を滅ぼす。金銭のために不和や反目を生じやすい  金が物言う 金銭の力で世間のことは解決できるのをいう  金で面(つら)を張る 金銭の力でむりやりに反対者をおさえつけること  金の切れ目が縁の切れ目…

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1898 住みにくい世こそ芸術を 沖縄戦終結から75年の日に

 世界のコロナ禍は収まらず、1000万人感染(日本時間23日午前9時現在、感染者905万7555人、死者47万665人=米ジョンズ・ホプキンス大集計)という恐ろしい現実が近づいている。日本は梅雨、そして劣化という言葉を通り越したひどい政治状況の中で鬱陶しい日々が続いている。本当に「住みにくき世」になっている。そんな時、夏目漱石が『草枕』の冒頭部分で書いた芸術の効用を思い出した。そうだ、私たちの周りには本があり、絵があり、音楽があるではないか……と。  明治の世も文豪から見て、住みにくい世だったのだろう。そこで文豪は、芸術に目を向けることを提示したのだ。(以下、『草枕』から。私見では、現代の日本は「人でなしの国」に近い) 「人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣りにちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国に行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう」 「越すことがならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容(くつろげ)て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職ができて、ここに画家という使命が降(くだ)る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするがゆえに尊い」 「住みにくき世から、住みにくき煩(わずら)いを引き抜いて、ありがたい世界をまのあたりに写すのが詩である、画である。あるいは音楽と彫刻である」  漱石が『草…

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1897 五輪がもたらす栄光と挫折 アベベの太く短い人生

 東京五輪がコロナ禍により2021年に延期された。さらに大会の簡素化、再延期、中止といった五輪をめぐる議論が続いている。五輪は出場する選手にも大きな影響を与える。ティム・ジューダ著、秋山勝訳『アベベ・ビキラ』(草思社文庫)を読んだ。ローマと東京の2大会連続してマラソンで金メダルを獲得したアベベ。五輪によって人生が変わり、短い生涯となってしまったアベベを描いた本を読み終えて、五輪の功罪をあらためて考えさせられた。  前回の東京五輪は1964(昭和39)年の開催で、日本は経済の高度成長期にあった。この大会でアベベが優勝し、日本の円谷幸吉(円谷について書いた本はいろいろあるが、私はよく知られている沢木耕太郎の「長距離ランナーの遺書」よりも増山実の『空の走者たち』の方が取材が優れていると思う。後段の関連ブログ1754参照)は銅メダルに輝いた。円谷は次のメキシコ大会を目指すも体の故障で思うように走れず、自死してしまう悲劇の人になった。一方、エチオピア最後の皇帝の親衛隊兵士だったアベベは、スウェーデン人、オンニ・ニスカネン(この本はアベベとともに、エチオピアのために幅広く活動したニスカネンの波乱の生涯についても詳しく触れているが、このブログでは割愛)に見いだされ、1960(昭和35)年のローマ大会で無名ながらいきなり優勝する。しかも裸足で42・195キロを走り抜けるという、思いもよらないスタイルで世界の人々が度肝を抜かれるのだ。  この本には裸足で走った真相として、アベベの娘、ツァガエの本から次の…

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1896 地図の旅、札幌へ そこはアカシアの季節

 地図を見ながら想像の旅を続けている。山形を出発した旅は九州へと移り、さらに沖縄を経てヨーロッパまで行った。今回はヨーロッパから帰国し、北海道へと歩を進める。想像の旅だから、強行軍でも疲れることはない。札幌の知人のフェースブックを見ていたら、「アカシアの季節」という文字が飛び込んできた。そうか、あの白い花が札幌の街を包んでいるのかと想像した。新型コロナの感染者は東京と北海道で連日発生している。遠い空の下で、知人たちはどのような生活を送っているのだろう。  私はこれまでの人生で2回、合わせて3年半札幌で暮らしたことがある。地名を聞くと、ある程度はどのあたりかを想像することができる。「陽気で人なつっこく進歩的」が北海道人の気質だそうで、そうした人たちと知り合いになり、北海道は第二の故郷と自称している。人だけでなく、自然にも魅了された。アカシア(アカシヤとも表記)の花もその一つだった。  知人はフェースブックに「アカシアの季節」と題しこの花の2枚の写真とともに以下のような文を載せている。「一気にアカシアの花が咲いた。初夏の訪れ。風薫り、リラ冷えはもうない。何故か花房が小さい。かつては手に取ると肘にかかるほど豊かだったが、今、手のひらに載ってしまう。これも温暖化のせい?……の花が咲いてた「この道」、……の花の下で「赤いハンカチ」、……の雨に打たれて「アカシアの雨がやむ時」……記憶に刻まれた歌、歌……その季節に浸る」。詩的で素敵な文章だ。  私もアザミの花の写真を提供した『メロディに咲い…

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1895 地図の旅海外へ 今年はベートーヴェン生誕250年

 コロナ禍により世界各国で様々な分野の芸術活動が休止せざるを得ない状況に追い込まれた。クラシックの演奏会もキャンセルとなった。6月になった。経済活動の再開とともに3カ月ぶりにウィーン(オーストリア)でウィーンフィルによる公演が再開され、ダニエル・バレンボイムの指揮でベートーヴェン(1770~1827)の交響曲第5番「運命」とモーツァルト(1756~1791)のピアノ協奏曲27番が演奏されたというニュースを読んだ。ことしはベートーヴェンの生誕250年。コロナ禍という歴史的災厄の中で、音楽を取り戻したいという人々の願いは、クラシック界の双璧に届いているのかもしれない。  私の地図を見ながらの旅は沖縄からヨーロッパへと続き、ドイツやオーストリアなどの地名をたどっている。ベートーヴェンが生まれたのは神聖ローマ帝国ケルン大司教領(現在のドイツ)のボン(1949~1990まで西ドイツの首都)で、亡くなったのはウィーンだ。誕生した正確な日時は不明だが、1770年12月16日ではないかといわれている。当時この地方では誕生後、24時間以内にカトリックの洗礼を受けさせる習慣があり、ベートーヴェンはボンのレミギウス教会で17日に洗礼を受けたことから、前日の16日に生まれたのではないかと推定されている。  ベートーヴェンやモーツァルトが生きた当時の日本は、江戸幕府による鎖国政策真っただ中にあり、老中田沼意次による賄賂政治や次の老中松平定信による寛政の改革、伊能忠敬の日本地図作成、浮世絵の葛飾北斎の活躍などが歴…

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1894 涙の沖縄への地図の旅 ひめゆり部隊の逃避行

 私の地図を見ながらの想像の旅は、今回で4回目になります。前回の九州から海を隔て、沖縄へと旅は続いています。6月。それは沖縄の人々にとって、忘れることができない鎮魂の月といえます。太平洋戦争末期の1945(昭和20)年3月26日、座間味島など慶良間諸島に上陸した米軍は4月1日に沖縄本島に侵攻、6月23日に日本軍の組織的抵抗が終わったのです。住民十数万人が犠牲になった沖縄戦。ひめゆり学徒隊の悲劇を読む度に、平和を希求する思いを深くするのは私だけではないでしょう。  私の机の上には2冊の本があります。石野径一郎『ひめゆりの塔』(講談社文庫)、小林照幸『ひめゆり 沖縄からのメッセージ』(角川文庫)です。2冊の本を読み返しながら、私の沖縄行は「涙の旅」になりました。  沖縄県糸満市にあるひめゆりの塔には何度も足を運びました。いつも厳粛な気持ちになるのですが、首都圏から沖縄に移り住んだ私の知り合いは、初めてここを訪れた際、語り部の説明を聞いて号泣したというのです。ひめゆりの塔に関しては、多くの本があります。たまたま私の手元にあった本を見ただけでも、沖縄の人々が戦争によって過酷な運命をたどったか知ることができると思うのです。  ひめゆりの塔は、糸満市伊原(いばる)に建立された慰霊の塔です。この塔について、ここで書くまでもないほど、多くの人が現地を訪れ、映画を見て、本を読んで由来を知っているはずです。太平洋戦争末期、那覇にあった沖縄県立女子師範学校と第一高等女学校の生徒によって編成された「ひめ…

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1893 東北から九州への想像の旅 潜伏キリシタンを描いた『守教』を読みながら

 私の地図を見ながらの想像の旅は続いている。今回は、東北から九州へと移る。潜伏キリシタンあるいは隠れキリシタンという言葉がある。江戸幕府が禁教令を布告し、キリスト教徒を弾圧した後も、ひそかに信仰を続けた信者のことで、2018年6月、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が世界文化遺産に認定された。この言葉を聞くと、潜伏キリシタンといえば長崎や天草(熊本県)を連想する。しかし、この地方以外の福岡県筑後平野北部にもキリスト教の信仰を守り続けた人々がいたのである。  箒木蓬生の小説『守教』(新潮文庫)は、この地区をモデルにしている。福岡県三井郡大刀洗町。小郡市や久留米市に隣接し、かつて高橋という村だったこの町に、国の重要文化財、今村天主堂がある。この小説は戦国キリシタン大名、大友宗麟の命を受け、筑後・高橋組(高橋村=現大刀洗町)の大庄屋になる一万田右馬助の代から始まり、その後のキリシタンへの弾圧時代のひとりの前庄屋の殉教を経て、明治初期に禁教が解かれ、さらに今村カトリック教会(天主堂)が建てられるまでの「今村信徒」の300年の歴史を克明に追った大河小説だ。  小説はフィクションだから、史実と異なる設定もある。伊達騒動を描いた山本周五郎の『樅の木は残った』は、その典型といえる。史実では評定の場で反対派を殺害、悪人といわれる原田甲斐だが、周五郎は独自の解釈で自らを犠牲にして伊達藩を救った人物として描いた。この小説を原作にしたNHKの大河ドラマが放映されたこともあり、原田甲斐=悪人というこれま…

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1892 青春の地は金峰の麓村 地図を見ながらの想像の旅(2)

  閑古啼くこゝは金峰の麓村 山形県鶴岡市生まれの作家、藤沢周平(1927~1997)の句(『藤沢周平句集』文春文庫)である。藤沢の死後、主に鶴岡で集められた色紙や短冊などに見られた7句のうちの1句で、藤沢は鶴岡師範学校を出た後、当時の湯田川村立湯田川中学校(現在は鶴岡市立鶴岡第四中学校へ統合)の教師(国語と社会)をしていたことがある。後に、この村の風景を思い出しながら、こんな句をつくった。若い教師時代、藤沢はどのような思いで故郷の山を見ていたのだろう。地図を見ながらの私の想像の旅は続いている。  30歳代、庄内地方を放浪した森敦は、芥川賞を受賞した『月山』の中で次のように庄内にある山について記している。「月山は、遥かな庄内平野の北限に、富士に似た山裾を海に曳く鳥海山と対峙して、右に朝日連峰を覗かせながら金峰山を侍らせ、左に鳥海山へと延びる山々を連亙させて、臥した牛の背のように悠揚として空に曳くながい稜線から、雪崩れるごとくその山腹を平野へと落としている」。ここに登場する3つの山のうち金峰山(きんぼうさん、471メートル)が、若い時代の藤沢が見慣れた山だった。  金峰山は鶴岡市の南部にある信仰の山として知られ、山頂に金峯神社がある。山頂や登山道から庄内平野が広がるのが見え、鶴岡市民にとっては憩いの山だそうだ。「閑古鳥」は郭公(かっこう)の別名で「閑古鳥が鳴く」は「物寂しいさま」の意味だから、藤沢は湯田川温泉で知られる村の風景を、こんな風に思い出し、自作の句にしたのだろう。同じ「金峰山」…

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1891 アルメイダの共助の精神 「大分の育児院と牛乳の記念碑」再掲

 帚木蓬生の『守教』(新潮文庫)は福岡県大刀洗町の国の重要文化財、今村天主堂が建つまでの長い背景(戦国時代から明治まで約300年間)を記した大河小説だ。この上巻に、九州で布教活動をした一人のポルトガル人が登場する。ルイス・デ・アルメイダである。私は2009年大分を訪れた際、県庁近くの公園で「育児院と牛乳の記念碑」というアルメイダを顕彰した碑を見つけた。アルメイダは共助の精神でキリスト教の布教活動と医師としての奉仕活動に生涯を送った人物だ。新型コロナウイルスをめぐって、米中の対立が深まっている。こんな時だからこそ、アルメイダの「共助の精神」が求められるのだ。以下は第448回のブログ再掲。     大分市内の県庁近くの遊歩公園に「育児院と牛乳の記念碑」という変わった碑がある。その碑には以下のような文章が記されている。  ここ府内(大分市)に日本最初の洋式病院を建てたポルトガルの青年医師アルメイダは、わが国に初めてキリスト教を伝えたザビエルが去って3年後の1555年には既に府内に来ていた。当時日本は戦乱が続き、国民の中には貧窮のあまり嬰児を殺す習慣があった。これを知ったアルメイダは自費で育児院を建て、これらの嬰児を収容し、乳母と牝牛を置いて牛乳で育てた。これは近世に於ける福祉事業の先駆である。(『守教』上巻に、アルメイダの業績が詳しく紹介されている)  アルメイダはルイス・デ・アルメイダという医師免許を持ったポルトガルの商人だ。地元大分や福祉・医療関係者には知られた存在かもしれないが、一…

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1890 空いっぱいに広がる山の輝き・さやけき鳥海へ 想像の旅(1)

 ここにして浪の上なるみちのくの鳥海山はさやけき山ぞ 山形出身の歌人、斎藤茂吉の歌集「白き山」(1949=昭和24年)に収められている山形、秋田県境にある鳥海山(標高2236メートル)を称えた歌である。名作『日本百名山』(新潮社)で、深田久弥は「名山と呼ばれるにはいろいろの見地があるが、山容秀麗という資格では、鳥海山は他に落ちない。眼路限りなく拡がった庄内平野の北の果てに、毅然とそびえ立ったこの山を眺めると、昔から東北第一の名峰とあがめられてきたことも納得できる」と記している。山形の県北地域に住む友人から、美しい鳥海の写真が届いた。茂吉の歌を味わいつつ、地図を見ながらつかの間、鳥海への想像の旅をした。  鳥海は標高が東北で1、2位を争う高峰(トップは福島県の燧ヶ岳=ひうちがたけ=で2356メートル。鳥海は2番目)とはいえ、茂吉が生れたのは山形県南東部の南村山郡金瓶村(現在の上山市金瓶)だったから、家から鳥海を見ることはできなかっただろう。ただ、茂吉の心の中には、故郷の山としての鳥海が大きな位置を占めていたに違いない。深田久弥は「東北地方の山の多くは、東北人の気質のようにガッシリと重厚、時には鈍重という感じさえ受けるが、鳥海にはその重さがない。颯爽としている。酒田あたりから望むと、むしろスマートと言いたいほどである」と、この山の特徴を書いている。  友人が送ってきた写真は「赤鳥海」と「白鳥海」というキャプションが付いている。前者は夕日に赤く染まる風景で、後者は真っ青な空の下、残雪が白く輝…

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1873 地図で旅する コロナ禍自粛の日々に

 新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐため「他県への移動自粛を」や「越境しての来県を自粛を」と、自治体が呼び掛けている。他県ナンバーの車をチエックしている自治体、営業自粛の呼び掛けに応じず、営業を続けるパチンコ店の名前を知事が公表したというニュースも流れ、海外への旅行もできない。「コロナ自粛」の日々が続く中で、地図を見る楽しみがあったことを思い出した。地図を見て、頭の中で空想の旅をするのである。  これを教えてくれたのは、詩人の長田弘さん(1939~2015)だ。長田さんの『人生の特別な一瞬』(晶文社)という詩集に「地図を旅する」という詩が載っている。  《どこへもゆかない旅。動かない旅。   ただ、ここにいるだけの旅。しかし、どこへもゆかないで、どこ  へでも自在にゆける旅。   動かないで、知らないところへ自由にゆける旅。ただ、ここにい  るだけで、いつでもどんなところにもいることができる旅。   ふっと、そういう旅をしたくなると、大きな地図帳をひらく。大  きくて、ぶあつくて、詳しくて、しかも印刷のとても鮮やかな地図  帳を二冊、日本地図帳と世界地図帳を一冊ずつ。   インターネットの地図の時代のいまも、好きなのはその二冊の重  たい地図帳だ。   机の上ではなく、地図帳は、床にひろげる。  最初に偶然目にとめたところから、道をえらび、まず全体を俯瞰  するように眺める。地形がまるで立体のように見えてきたら、大き  な拡大鏡を手に、道をたどってゆく。地図を…

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1834 それぞれに思い描く心の風景 シルクロードと月の沙漠

 歌詞がロマンチックな「月の沙漠」は、昭和、平成を経て令和になった現代まで長く歌い継がれている童謡である。この秋、中国・シルクロードを旅した知人が、月の沙漠を連想する場所に立ち、旅行記の中で書いている。日本には千葉県のリゾート地、御宿町の御宿海岸に「月の沙漠記念館」があるが、この童謡の舞台は人それぞれに思い描くことができるのだろう。  シルクロードの旅で知人がこの童謡を思い浮かべたのは、莫高窟で知られる敦煌の「鳴沙山」でのことだという。ここは高さ100メートル以上の巨大な砂山で、知人は同行の友人とともに赤いゴム長靴を履いて天辺まで登った。下山すると観光客を乗せた約20頭の駱駝が一列になって山裾を進んで行くのが見えた。陽は陰り始め、黄昏の少し曇った空に三日月が出掛かっている。「この景は童謡『月の沙漠』を思い起こさせる。♪金と銀との鞍置いて、二つ並んで行きました♪――のあれである」と書いた知人は「月あれば“月の沙漠”ぞ鳴沙山」という句をつくった。  シルクロード=駱駝といえば日本画家、平山郁夫の「パルミラ遺跡を行く」が知られる。ラクダに乗った隊商を描いた「朝」「夜」の絵は、内戦が続きISによって破壊され、世界に衝撃を与えたシリアの世界遺産、パルミラ遺跡を描いた。平山の絵はパルミラの遺跡を背景に、隊商がゆっくり進んで行く(「朝」は右から左へ。「夜」は左から右へ向かっている)光景が描かれ、平和だった時代を思い起こさせる。特に月が遺跡の後方に輝く「夜」(平山郁夫シルクロード美術館)の絵は、月の沙…

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1830 思い出の首里城への坂道 沖縄のシンボルの焼失に衝撃

 那覇市の首里城が火災になり、中心的存在の正殿、南殿、北殿など計7棟(4800平米)が焼失した。「首里の城は私たちの心の支え」と沖縄の人々が語るほど、この城は沖縄の象徴でもある。私は昨年末から今年の正月を首里で過ごし、毎日、城の周辺を散歩していた。正月には伝統の儀式を見る機会があった。それだけに火災を伝えるテレビの映像を見て、受けた衝撃は大きかった。同じような思いの人は少なくないだろう。  さー 首里天加那志(しゅりてんがなし・王様の意味)の よいしーよいしー  さー 御材木だやびる さーはい ゆえーはーらーら  さー はりがよいしー さーい そそそそーそ  いーいひひひひ あーあははははー  太平洋戦争の沖縄戦で首里城は焼失した。一角の防空壕の中に旧日本軍の司令部(32軍)が置かれたことから米軍の攻撃は激しく、国宝は灰塵に帰した。その後、首里城跡には琉球大学キャンパスが置かれたが、沖縄の本土復帰後、沖縄県によって首里城の復元が計画され、大学のキャンパスも移転し、1988年には正殿の設計が完了、翌89年11月に「小曵式」(こびきしき)が行われた。これは琉球王朝時代、首里城の工事の際に各地から集めた木材を城内に入れるときの「チャイ」といわれる木遣りの儀式である。木材の出発地の国頭で歌われたのが上掲の「国頭(くにじゃん)サバクイ」という木遣り唄だった。  首里城の復元工事が竣工したのは1992年のことで、2000年(平成12年)12月には「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として…

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1827 郷愁と失意と 秋の名曲『旅愁』を聴きながら

 東日本に上陸し大きな被害を出した台風15号と19号。新聞、テレビの報道を見ていると、復旧は容易ではないことが分かる。原発事故の福島が今回の災害でも一番被害が大きかったことに心が痛むのだ。私は台風の夜、アメリカの曲に犬童球渓(1879~1943)が日本語詞をつけた『旅愁』の2番の詞を思いながら時間を送った。若き教師時代の犬童が、郷愁と失意の思いを描いた詞だった。 『旅愁』はジョン・P・オードウェイ(1824~1880)というアメリカの音楽家が作詞作曲した『『家と母を夢見て』という歌で、それを犬童が以下のような日本語の詞にしたことはよく知られている。原曲は本家のアメリカでほとんど歌われることがないそうだが、『旅愁』はいまや日本の名曲として受け継がれているといっていい。  1 更け行く秋の夜 旅の空の    わびしき思いに ひとりなやむ    恋しやふるさと なつかし父母    夢路にたどるは 故郷(さと)の家路    更け行く秋の夜 旅の空の    わびしき思いに ひとりなやむ  2 窓うつ嵐に 夢もやぶれ    遥けき彼方に こころ迷う    恋しやふるさと 懐かし父母(ちちはは)    思いに浮かぶは 杜(もり)のこずえ    窓うつ嵐に 夢もやぶれ    遥けき彼方に 心まよう  犬童は熊本県人吉市(プロ野球の川上哲治も同郷)出身で、東京音楽学校(現東京芸大)を出たあと、兵庫県の旧制柏原中学(現丹波市柏原町)に音楽教師として赴任した。しかし前年の19…

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1814 北海道に生きた農民画家 神田日勝作品集から

 絶筆の馬が嘶く(いななく)夏の空 農民画家といわれた神田日勝さんが32歳でこの世を去ったのは、1970年8月25日のことである。絶筆となった絵は、この句(妻の神田美砂呼=本名ミサ子さん作)にあるように馬をモチーフにした作品(未完成)だった。私がこの画家を知ったのは初めて北海道に暮らした時で、30年近く前だった。その後、この画家のことは忘れていたのだが、最近になって美術館の図書室でたまたま1冊の本に出会い、中央画壇では知られていない農民画家のことを思い出した。  その本は『神田日勝 作品集成』(神田日勝記念美術館=鹿追町教育委員会)という題が付いた神田さんの作品集で、今年3月に発行された。神田さんが亡くなって49年が過ぎたが、その力強い作品は見る者に生きる力を与えてくれるのである。作品集に寄せた手記でミサ子さんは、夫との絵に関するやり取りを書いている。このやりとりから、神田さんにとって絵を描くことは、生きる上で欠かすことができないものであることが理解できる。 「絵を描きたいって、どんな気持ち?」 「他人のことは解らないが、僕にとっては生理現象かな」(ミサ子さんは、テレビのインタビューで排泄のようなものと話していた)  神田さんは1937年12月に東京・練馬で4人きょうだい(2人の姉と兄が1人)の次男として生まれ、太平洋戦争で東京大空襲に遭った。終戦の前日である1945年8月14日、一家は十勝平野の鹿追町に移住する。中学時代から、のちに東京芸大に進んだ兄一明さん(元北海道教育大学…

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1806 ハチドリの助けを呼ぶ声 アマゾンの森林火災広がる

 南米ブラジルでアマゾンの熱帯雨林が燃え続けているという。森林火災により今年だけでも鹿児島、宮崎を除く九州と同じ面積(1万8629平方キロ)が焼けてしまい、熱帯雨林が危機になっている。アマゾン地域には「ハチドリのひとしずく」という言い伝えがあるが、ハチドリたちは今、孤軍奮闘しているに違いない。  ハチドリは南北アメリカ大陸と西インド諸島に分布し、一番小さな鳥として知られている。金属光沢のある美しい鳥で、飛ぶ時の羽音がハチに似ているためこのような名前が付けられたのだという。アマゾンにも珍しくないから、言い伝えの中にも登場するのだろう。  日本の絵本にもなった言い伝えは以下のようなものだ。(拙ブログ2014年3月17日=1212回、3月28日=1221回から) 《森が燃えていました。森の生きものたちはわれ先にと逃げていきました。でも、クリキンディという名のハチドリだけは行ったり来たり。口ばしで水のしずくを一滴ずつ運んでは火の上に落としていきます。動物たちがそれを見て、そんなことをしていったい何になるんだ、といって笑います。クリキンディはこう答えました。私は、私にできることをしているだけ。(辻信一監修・ハチドリのひとしずく~いま、私にできること・光文社刊より)》  小さなハチドリだけでは森の火事は消せないかもしれない。だが、そのハチドリに続いて人間を含めた多くの生き物が力を合わせれば、森の火は消せるかもしれない……。この言い伝えは、自分ができることを自分なりにやるという、ボランテ…

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1805 幻想の城蘇る 生き残ったノイシュバンシュタイン城

「私が死んだらこの城を破壊せよ」狂王といわれ、なぞの死を遂げた第4代バイエルン国王ルートヴィヒ2世(1845~1886)の遺言が守られていたなら、ドイツ・ロマンチック街道の名城、ノイシュバンシュタイン城は消えていた。この城を描いたラジオ体操仲間の絵を見ながら、激動の渦に巻き込まれた城の歴史を思った。  城が好きだったという作家の司馬遼太郎は日本やヨーロッパの多くの城について「戦闘よりも平和の象徴のような印象があった」と『街道をゆく』シリーズ「南蛮の道Ⅰ」(朝日文庫)で書いている。では、ノイシュバンシュタイン城はどうだったのだろう。この城はルートヴィヒ2世の命によって1869年から建設が始まり、1886年にほぼ完成した。外観は中世風であり、城内には中世の騎士伝説からの場面を描いた絢爛豪華な部屋があるなど、王の道楽のために造られたと見ることができる。どう見ても戦のための城ではない。同じころの日本は明治維新から明治前半に当たり、鎖国から近代化へと舵を切っていた。城を造ることなど到底考えられない時代、遠いドイツにはこんな王が存在したのだ。  城が完成したこの年、おかしな言動を取るルートヴィヒ2世に対し危機を抱いた家臣たちは、王を逮捕、廃帝としバイエルン州のベルク城に送った。王は翌日、近くのシュタルンベルク湖で医師とともに水死体で発見された。死因は不明とされている。全盛期には作曲家、ワーグナーを支援し、豪華な城の建設にのめり込んだ王の末路は哀れだった。  城を自分だけのものと考えていたため…

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1788 屈原と気骨の言論人 ある上海旅行記から

「私はどうしても屈原(くつげん)でなければならぬ。日本の屈原かもしれない」という言葉を残したのは、明治から昭和にかけての言論人、菊竹淳(すなお、筆名・六皷=ろっこ・1880~1937)である。屈原は、このほど上海周辺を旅した知人の旅行記にも出てくる、中国戦国時代の悲劇の詩人だ。一方、昨今の新聞、テレビの実態は屈原とは対照的に、権力に迎合するトップが目立つのが現状といえるだろう。  屈原は、楚(紀元前3世紀)の貴族として懐王に信任され、国の再興に尽力した。しかし、その後讒言(ざんげん)によって失脚、中国湖南省北東部を流れる湘江の支流、汨羅(べきら)で投身自殺した人物だ。後世、屈原の死んだ日である5月5日に粽(ちまき)を食べる風習が端午の節句になったという言い伝えがある。彼の詩は古代中国の代表的詩集「楚辞」の中に収められ、特に「離騒」はその格調の高さから「史記」で知られる漢の歴史家、司馬遷に評価され、中国最初の詩人として歴史に名を残した。  冒頭の言葉のように、自身を屈原に譬えた菊竹は西日本新聞の前身「福岡日日新聞」の編集局長として犬養毅首相が暗殺された1932年の5・15事件で、全国のほとんど(例外は桐生悠々の信濃毎日新聞)の新聞が沈黙する中で、痛烈な軍部批判のコラムを繰り返し執筆、掲載した気骨ある言論人だった。その生涯は木村栄文著『記者ありき』(朝日新聞社)に詳しく紹介されている。「世を挙げて皆濁りて我独り清めり」という屈原の漢詩を、菊竹は自身の姿に重ね合わせたのだ。首相と夜の懇談を重…

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1785 都市の風景の変化を描く 街を歩く詩人

「記者は足で稼ぐ」あるいは「足で書け」といわれます。現場に行き、当事者に話を聞き、自分の目で見たことを記事にするという、報道機関の基本です。高橋郁男さんが詩誌「コールサック」に『風信』という小詩集を連載していることは、以前このブログでも紹介しました。6月号に掲載された14回目も街を歩き、観察した事象を小詩集にまとめています。元新聞記者(朝日の天声人語筆者)の高橋さんらしい、足で稼いだ作品を読んで、私も東京の街を歩きたくなりました。  日記風に書かれた今号に出てくる街は芭蕉ゆかりの深川と隅田川。場内市場が豊洲に移転した築地場外市場、六本木の東京ミッドタウンと国立競技場近くの青山通り、そして霞ヶ関の国会議事堂です。小詩集には芭蕉と井原西鶴、関孝和(江戸時代の数学者)、ニュートン、デカルトという歴史上の著名人の考察が加えられています。この人々を考えるキーワードは「自由な探求と鋭い透視」です。  芭蕉と西鶴の特徴を高橋さんは以下のように記しています。  動の西鶴に 静の芭蕉  派手な西鶴に寂びの芭蕉  表向きは対照的な両人だが  それぞれの営為には 相通ずるところが透けて見える  それは「自由な探求と鋭い透視」  芭蕉は 人の生について 深く自由な探求と透視を続け   俳諧を 時代を超える芸術にまで至らしめた  西鶴は 建前や柵(しがらみ)から自由な生の探求と透視を続け  浮世草子を 時代を超える芸術にまで至らしめた     街を歩けば出会いがあります…

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1784 いつくしみある地の夏 里山の風景を見る

 室生犀星の詩集『抒情小曲集』のなかの「小景異情」の「ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの」(その2より)はよく知られている。同じ詩集の「合掌」にも実は心に染みるものがある。福島の里山を訪ねて、その思いを深くした。   みやこに住めど   心に繁る深き田舎の夏ぞ   日を追ひては深む   いつくしみある地の夏ぞ      (ハルキ文庫『室生犀星詩集』「合掌」その2より)    福島県矢祭町は茨城県境の南端の町だ。人口は約5600人。清流久慈川に沿って田畑が広がる。ユズやコンニャクが名産で、町名にもなった矢祭山(標高382.7メートル)は4月に桜、5月にツツジが咲き、秋には紅葉が美しい景勝地だ。すぐ下を流れる久慈川のアユ漁は6月2日に解禁になった。里山は同町金沢地区にあり、人の手が入ることがなくなり、雑木や杉が生い茂り荒れ始めていた。その里山の再生が数年前から始まっていた。「来る里の杜」(くるりのもり、全体面積約6ヘクタール)と名付けられた3つの里山の再生活動は、寄付や助成金を基に生い茂った木々を伐採し、その中に遊歩道や東屋を造成、桜をはじめとする様々な花木を植樹するもので、町内や地元のボランティアによって進められた。  2017年3月から始まった植樹は▼ソメイヨシノ▼コブシ▼ロウバイ▼エドヒガンザクラ▼カワズザクラ▼カンヒザクラ▼神代アケボノザクラ▼オモイノママ▼ヒトツバタゴ▼サルスベリ▼オオヤマレンゲ▼ヤマツツジ▼ミツバツツジ▼ヒノデキリシマツツジ▼カツ…

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1783 岡倉天心が愛した五浦 六角堂を訪ねる

「人は己を美しくして初めて、美に近づく権利が生まれる」 日本近代美術の先駆者、岡倉天心(本名、覚三、1863~1913)が、『茶の本』(岩波文庫)の中で、芸術表現について明かした一節の中にこんな言葉がある。天心は晩年、太平洋を臨む福島県境の茨城県大津町五浦(いづら、現在の北茨城市大津町五浦)に居を構え、美術史家、美術評論家として日本の美術運動をけん引した。初めて五浦に行き、天心ゆかりの風景を見ながら、冒頭の言葉の意味を考えた。  五浦は大小の入り江や断崖が続く景勝地で、現在天心の旧宅(当時の半分規模)と観瀾亭(かんらんてい、大波を見る東屋の意味)と呼ばれる六角堂が茨城大学五浦美術文化研究所によって運営されている。少し離れた場所に茨城県天心記念五浦美術館がある。このうち六角堂は天心の設計で1903(明治36)年に建てられ、茶室を兼ね備えた朱塗りの外壁と屋根が宝珠を装った六角形である。太平洋を見下ろす崖すれすれの場所にある小さな建物だ。  六角形の東屋は、中国文人庭園では岩(太湖石)を見るためのものだが、天心は大波を見るイメージで建てたといわれる。室内は茶室となっていて、日本と中国が融合したユニークな建物といえる。すぐ下が海になっていて、2011年3月11日の東日本大震災によりこの建物は津波によって流失してしまったが、翌年に茨城大や北茨城市によって復元されている。天心自身、後年に津波がここまで押し寄せるとは考えもしなかっただろう。  天心は東京開成学校(東大の前身)時代、アメリカ人教…

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1773 憎しみの連鎖 スリランカ大統領と鎌倉大仏

 スリランカ(かつてのセイロン)最大の都市、コロンボで同時多発テロがあり、22日午後7時現在日本人を含む290人が死亡し、450人以上が負傷した。スリランカといえば、日本の戦後史に残る政治家がいた。鎌倉大仏殿高徳院境内に「人はただ愛によってのみ憎しみを越えられる。人は憎しみによっては憎しみを越えられない」(英語: Hatred ceases not by hatred, But by love)という顕彰碑がある、ジュニウス・リチャード・ジャヤワルダナ(1906年9月17日~1996年11月1日)である。多くの犠牲者を出した同時多発テロ。憎しみの連鎖は、依然この世界を覆っている。  当時セイロンの蔵相だったジャヤワルダナはセイロン代表として1951年9月6日のサンフランシスコ講和会議に出席、前述の演説をして、日本に対する戦時賠償請求を放棄することを表明した。その後首相を務め、セイロンはスリランカとして国名を替え、再出発した。初代大統領は女性のシリマボ・バンダラナイケで、ジャヤワルダナが第2代大統領になった。親日家として知られ、何度も来日し、1996年に90歳で死去した際、「右目はスリランカ人に、左目は日本人に」という遺言通り、片方の目は群馬県の女性に移植された。  鎌倉大仏境内の顕彰碑の裏には、建立の由来が概略以下のように記されている。  この石碑は対日講和会議で日本と日本国民に対する深い理解と慈悲心に基づく愛情を示されたスリランカ民主社会主義共和国のジュニアス・リチャード・ジャ…

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1763 世界はどこへ行くのか NZクライストチャーチの凶行

 ニュージーランド(NZ)南島最大の都市で「ガーデンシティ」と呼ばれるほど美しいクライストチャーチで、信じられない事件が起きた。2つのイスラム教モスク(礼拝所)でオーストラリア人の男が銃を乱射し、50人が死亡した。世界でも有数の安全な国といわれるNZでさえ、こうしたテロが起きる時代。世界はおかしな方向へと突き進んでいると思わざるを得ない。  クライストチャーチといえば、東日本大震災(2011年3月11日)の直前の2月22日、この街はM6・1の地震に見舞われた。この地震によって街の象徴、大聖堂の尖塔が倒壊するなどして多くの人が崩壊した建物の下敷きになり、死者185人が出たことは記憶に新しい。死者のうち28人は日本からの留学生だった。  テレビニュースで、事件の発生場所近くの公園が映し出され、どこかで見たことがあると思った。そうだ、この街の中心部にあるハグレイ公園ではないか。面積は165ヘクタールで東京日比谷公園の10倍もある広大な公園だ。難を逃れ、この公園に避難した人もいたようだ。10数年前、この街を訪れ、公園を歩いたことを思い出した。緑が多く、水が澄んだ川には遊覧用の小舟が浮かび、この街に住む人たちをうらやましく思った。  事件は白人至上主義に陥った28歳の若者の犯行だった。時代が進んでも人種差別は永遠に消えない。米国の白人による黒人差別の歴史は生々しいし、ヒトラー率いるナチスドイツはおびただしいユダヤ人を虐殺した。日本人もまた、アジアの他の国の人たちを見下した時代があった。21…

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1759 桜の季節そこまで 四季の美しさ見つめて

 シンガポールから東京にやってきた19歳の留学生が「初めて四季の美しさに目覚めた」ということを書いた新聞の投書を読んだ。「日本は四季がはっきりしていて、自然が美しい」といわれる。しかし、そうした環境に身を置くと、ついそれが普通と思ってしまいがちだ。この留学生のような瑞々しい感覚を取り戻す機会が間もなくやってくる。桜の季節である。  投書によると、この留学生は東京に住んで人生初の秋の季節を体験したのだそうだ。シンガポールは赤道直下で365日が真夏なのである。イチョウ並木のある街では木々が風に吹かれる音を聞き、落ち葉が道路を黄色く染めているのを見て「こんな絶景が日常にあるなんて」と感動し、道路の真ん中に立ち止まってしまったという。投書の後段がいい。「いつも前向きで一生懸命な日本の方々に少し立ち止まって自然のプロセスを味わってほしい」「効率性のためゆとりを犠牲にしている方が多いと思う。仕事や勉強に追われるあなた、たまには周りの景色を鑑賞してみませんか?」  私たちの日常に、この留学生が見たような風景は珍しくない。だが、がむしゃらに先を急ぐあまりにそれを見過ごしてしまい、無感動の日々を送ってしまうのだ。気象庁の発表によると、ことしの桜の開花は例年より早くなる予想で、無感動な人でもつい立ち止まって花を見上げてしまう日が近づいている。初めての桜をこの留学生も楽しみにしているに違いない。桜は昔からその美しさとともに無常観も漂っているとされていて、さまざまな和歌にも謳われている。西行の「願はくは 花の…

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1758 ほろ苦い青春の一コマ 肘折こけしで蘇る

 先日、友人たちとの会合で懐かしい地名を聞いた。「肘折」(ひじおり)という知る人ぞ知る地域だ。山形県最上郡大蔵村にあり、温泉とこけしで知られている。日本でも有数の豪雪地帯で多いときは4メートルを超すというが、今日現在の積雪量は約2・3メートルだから、この冬は雪が少ないようだ。私の家には数本のこけしがあり、その中に「肘折 庫治」と書かれた1本も含まれている。肘折系こけし工人で著名な奥山庫治の初期の作品なのだが、このこけしを見る度にほろ苦い経験を思い出す。  今から45年前に遡る。1974(昭和49)年4月のことである。大蔵村赤松地区の松山(標高170メートル)が崩れ、土砂は住宅20棟を飲み込み、下敷きになった住民17人が死亡、13人が重軽傷を負う惨事になった。当時、共同通信社の駆け出し記者として仙台支社に勤務していた私は、他の記者やカメラマンとともにこの事故現場に急行し、数日間不眠不休で取材に当たった。  現場の山形県は山形支局のカバー内にあるのだが、支局は記者の数が少なく大きな事件事故が発生すると、仙台支社から応援に行くシステムになっていた。それは今も変わらないはずだ。私はこの年の3月、福島支局がカバーする福島県三島町で発生した国道の土砂崩れ事故現場にも駆け付けた。建設中だった国道の防護壁が雪解けのため崩れ落ち、通行中のマイクロバスと乗用車2台を直撃、8人が死亡、2人が重軽傷を負ったのだ。三島町は福島県会津地方にある豪雪地帯で、車で取材に向かう道路の両脇にはうず高く雪が積もっていた。 …

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1756 消えゆく校歌 ラオスとベトナムで歌い継がれる2つのメロディー

 いま、日本の各地から懐かしいメロディーが消えつつある。校歌である。少子高齢化に伴う人口減少、東京をはじめとする大都市圏への人口の一極集中などによって公立学校の廃校が相次いでいるからだ。当然、校歌を歌う子どもたちの姿は少なくなり、校歌は卒業生の思い出の中に残るだけになってしまう実情が続いている。こんな中、福島県で間もなく廃校になる小学校と統合で消えた小学校の2つの校歌が東南アジアの山岳辺境地帯で歌われているという。嬉しい話題である。どんな経緯があったのだろうか。  文科省の発表によると、原発事故に見舞われた福島県では2002年から2015年度までに全国で10番目に多い158の小学校が廃校になった。福島市に拠点があるNPO特定非営利活動法人シーエスアールスクエア(CSR2)の宍戸仙助理事長は元教員だ。宍戸さんが40年前初めて教諭として勤務した石川郡浅川町立里白石小学校もことし3月末で廃校になる。浅川町に隣接する石川町には高校野球で知られる学法石川高校がある。甲子園に何回も出場したから、高校野球ファンに知られた高校だ。当然、里白石の小、中学校で学んだあと学法石川に学んだ人は珍しくないはずだ。  CSR2は主として福島県や東京都の小中学校の児童生徒や保護者を対象に出前授業と講演会を行い、東南アジアの山岳少数民族の村々でたくましく生きる子供たちの様子を伝え、募金や文房具、スポーツ用具を現地(ベトナムやラオス)の子どもたちに贈る活動をしている。宍戸さんは小学校の教師を長く務め、校長で定年退職した…

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