1816 正義の実践とは 東電旧幹部の無罪判決に思う

 机の後ろの本棚に『ことばの贈物』(岩波文庫)という薄い本がある。新聞記事やテレビのニュースを見ながら、時々この本を取り出して頁をめくる。そのニュースに当てはまる言葉ないかどうかを考えるからだ。福島第一原発事故をめぐる東電旧経営陣3人に無罪を言い渡した東京地裁の判決を読んで、米国の政治家でベンジャミン・フランクリン(1705~1790)の言葉に注目した。強制起訴を門前払いにした形の判決は、理屈だけを前面に出したものと言えるからだ。  フランクリンは、自伝の中で「理性ある動物、人間とは、まことに都合のいいものである。したいと思うことなら、何にだって理由を見つけることも、理屈をつけることもできるのだから」と、述べている。これは最悪の関係になっている日韓両国の政治リーダーにもいえることだが、ここでは判決について考えたい。  この判決の骨子は、①最大15・7メートルの津波予測のもとになった国の長期評価は、具体的根拠を示していないので、信頼性に疑いがある②事故当時の知見(考察して知り得た内容)では、被告3人に高さ10メートルを上回る津波を予見し、安全対策が終わるまで原発を停止させる義務があったとはいえない③事故前の法規制は、絶対的安全確保を前提としておらず、3人に刑事責任を負わせることはできない、の3点だ。  無罪ありきの前提に立てば、この3点に集約されるだろう。本来なら厳格に安全対策を練るべき責任があるのに、様々な理屈をつけて対策を講じなかった。そして「想定外の津波」という言葉で責任を放…

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1815 米大統領とオオカミ少年 ハリケーン進路騒動

 古代ギリシア(紀元前6世紀ごろ)の寓話作家イソップ(アイソーポス)の『イソップ寓話集』は、様々な事象を寓話(教訓や風刺を含めたたとえ話)にしたものだ。その中にある「オオカミ少年」(あるいは「嘘をつく子ども」)の話は、よく知られている。朝刊の国際欄にこの話を連想させる記事が載っていた。オオカミ少年のように思えるのは、またしても米国のトランプ大統領だった。  またしても、という表現を使ったのは、トランプ氏がこれまで何度もツイッターで騒動を起こしてきたからだ。今回もお騒がせに使われたのは、ツイッターだった。新聞報道によると、今月上旬、米東部にハリケーン・ドリアン接近したが、トランプ氏は1日、ツイッターで上陸が予想されたフロリダ州だけでなく西側にあるアラバマ州も「直撃して予想以上の被害が出そうだ」と、警告した。  当時、同州に被害が出ることは予想されておらず、国立気象局の地元事務所は直後、「アラバマはドリアンの影響は受けない」という否定のツイッターを発信した。結果的に気象局の予想通り、アラバマで被害はなかった。このため米国メディアが「トランプ氏のツイートは不正確」と批判すると、トランプ氏は自分が正しいと主張し、批判報道を「フェイクだ」と攻撃しているのだ。  騒ぎに輪をかけたのは、国立気象局を所管する米海洋大気局(NOAA)が無署名でトランプ氏を支持する声明を発表したことだ。これに対しても米メディアは、政府高官がNOAAの幹部に解任をちらつかせながら対応を迫ったということなど、具体的事実…

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1812 炎暑地獄の9月 台風去って難が来る

   9日未明に千葉市に上陸した台風15号は、最大瞬間風速57・5メートルを記録し、同じ千葉市に住む私は眠れぬ夜を明かした。台風のすごさはテレビの映像で知ってはいたが、それを目のあたりにした。あちこちで街路樹が倒れ、屋根のテレビのアンテナが横倒しになり、瓦も飛んでいる。屋根が飛んでしまったガレージもある。遊歩道にはけやきの倒木と飛ばされた枝が散乱している。夜になると、街の半分が停電で暗闇の世界になっていた。そして、1日が過ぎた。停電の家で暮らしている体操仲間は「炎暑地獄ですよ」と話した。  台風が去った後、9日の夕方になると、美しい夕焼けが広がった。それは、右足の大けがをした2年前の9月の夕焼けと匹敵する絶景だった。沖縄から近所に移ってきた娘は「沖縄と同じくらいきれいな夕焼けだ」と感心した。時間差はあるものの、自然は荒々しさと美しさを私たちに与えくれたのだ。まるで、ごめん、ごめん、さっきの乱暴は許してね、その代わりにきれいな空を見せてあげるね、とでも言うかのように……。  テレビや新聞で報道されているためか、昨日から今日にかけ、お見舞いの電話がかかり、メールが届いている。庭中を、飛んできた枯れ枝とけやきの葉が埋め尽くしたが、それ以外は特に被害はない。だから「お陰様で私のところは大丈夫です」という返事を繰り返した。「二百十日」という言葉がある。立春から210目(2019年は9月1日)のことをいい、このころは台風や風の強い日が多いといわれる。最近は春から台風がくるので、この言葉は死語にな…

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1808 文明風刺『ガリバー旅行記』 邪悪な生物ヤフーは現代も

『ガリバー旅行記』(作者はイギリスのジョナサン・スウィフト)のガリバーは、日本を訪れたことがあるか? 答えは「イエス」である。イギリス文学に造詣の深い人なら常識でも、児童文学でこの本を読んだ人は、「へえ、そうなのか」と思うだろう。ガリバーが旅行した時代は1700年代の初め、日本は徳川家支配の江戸幕府の元禄時代に当たる。イギリスに住むスウィフトから見れば、当時の日本は鎖国政策をとる、極東の訳の分からない国(あるいは妖怪変化が住み着く国?)と思っていたかもしれないから、この作品にも日本を使ったのだろうか。時を経て、仲違いを続ける日本と韓国。アジア以外の遠い国の人々から見たら、何とも理解しがたい対立なのではないか。 『ガリバー旅行記』といえば、小人の国(第1話「リリパット渡航記」)、あるいはこれに第2話巨人の国(「ブロブディンナグ渡航記」)への渡航記を含めた物語が子ども向けに出版されていた。そのためガリバーといえば、小人や巨人の国での冒険と思っている人が少なくないだろう。しかし、この旅行記は文明風刺、政治批判ともいえる内容がかなり多くちりばめられており、児童文学の範疇に収まらない、大人を対象にした作品といえる。  旅行記は第1話と第2話に続き、飛行島の国など極東への渡航記の第3話(ラピュタ、バルニバービ、ラグナグ、グラブダブドリブ、そして日本渡航記)、高貴で知的な馬の姿をした種族の国へ渡航する第4話(フウイヌム国渡航記)から成っている。日本が出てくるのは第3話で、種々多岐にわたる(まあよく考…

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1805 幻想の城蘇る 生き残ったノイシュバンシュタイン城

「私が死んだらこの城を破壊せよ」狂王といわれ、なぞの死を遂げた第4代バイエルン国王ルートヴィヒ2世(1845~1886)の遺言が守られていたなら、ドイツ・ロマンチック街道の名城、ノイシュバンシュタイン城は消えていた。この城を描いたラジオ体操仲間の絵を見ながら、激動の渦に巻き込まれた城の歴史を思った。  城が好きだったという作家の司馬遼太郎は日本やヨーロッパの多くの城について「戦闘よりも平和の象徴のような印象があった」と『街道をゆく』シリーズ「南蛮の道Ⅰ」(朝日文庫)で書いている。では、ノイシュバンシュタイン城はどうだったのだろう。この城はルートヴィヒ2世の命によって1869年から建設が始まり、1886年にほぼ完成した。外観は中世風であり、城内には中世の騎士伝説からの場面を描いた絢爛豪華な部屋があるなど、王の道楽のために造られたと見ることができる。どう見ても戦のための城ではない。同じころの日本は明治維新から明治前半に当たり、鎖国から近代化へと舵を切っていた。城を造ることなど到底考えられない時代、遠いドイツにはこんな王が存在したのだ。  城が完成したこの年、おかしな言動を取るルートヴィヒ2世に対し危機を抱いた家臣たちは、王を逮捕、廃帝としバイエルン州のベルク城に送った。王は翌日、近くのシュタルンベルク湖で医師とともに水死体で発見された。死因は不明とされている。全盛期には作曲家、ワーグナーを支援し、豪華な城の建設にのめり込んだ王の末路は哀れだった。  城を自分だけのものと考えていたため…

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1804 政治の身勝手さ感じる8月 民意との乖離のあいさつ

 広島、長崎の原爆の日と終戦の日を送って、74年前の出来事をそれぞれに思い出した人が多いだろう。共通するのは、戦争は2度と繰り返してはならないということだと思う。原爆犠牲者の慰霊式典(広島は平和記念式典=広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式、長崎は平和祈念式典)と終戦の日の全国戦没者追悼式の安倍首相のあいさつを聞いていて、民意と違っていることに違和感を覚えた。政治とは民意を反映するはずなのに、どうみても違うからだ。  広島、長崎の式典で、両市の市長は平和宣言の中で日本政府が背を向けている核兵器禁止条約に、唯一の被爆国として署名することを求めた。だが、安倍首相はあいさつで、この条約に触れることはなく、核兵器国と非核兵器国の橋渡しに努めると述べた。式典後の記者会見では「条約は保有国、非保有国の立場の隔たりを深め、核兵器のない世界の実現を遠ざける。わが国のアプローチと異なる」と語った。では具体的に核兵器国と非核兵器国の橋渡し(仲介役)として、何をやったのだろうか。米国の核の傘の下で、米国の動向を上目遣いに見ているばかりで何もしていないのが実態といえるだろう。  被爆地の人々は、核なき世界を求めているのが民意なのに、それを認めようとしない姿勢は沖縄・名護への米軍飛行場建設問題と共通するものだ。終戦の日の式典では、天皇陛下が「ここに過去を顧み、深い反省の上に立って、再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願い」と、戦争に対する「反省」を「おことば」の中に入れていた。一方の首相は、アジア諸国への加…

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1801 カザルスとピカソ 「鳥の歌」を聴く

 CDでチェロ奏者、パブロ・カザルス(1876~1973)の「鳥の歌」を聴いた。「言葉は戦争をもたらす。音楽のみが世界の人々の心を一つにし、平和をもたらす」と語ったカザルスは、1971年10月24日の国連の日に国連本部でこの曲を演奏した。カザルスは当時94歳という高齢で、演奏を前に短いあいさつをした。それは後世に残る言葉になった。 「私はもう40年近く、人前で演奏をしてきませんでした。でも、きょうは演奏する時が来ていることを感じています。これから演奏するのは、短い曲です。その曲は『鳥の歌』と呼ばれています。空を飛ぶ鳥たちはこう歌うのです。『ピース ピース ピース』 鳥たちはこう歌うのです『ピース ピース ピース』『ピース ピース ピース』『ピース ピース ピース』」  カザルスはスペイン北東部のカタルーニャ出身で、スペイン内戦が始まるとフランスに亡命、さらにプエルトリコに拠点を移して活動した。内戦後、誕生したフランコ独裁政権に対し抗議の姿勢を崩さず、音楽を通じて世界平和を訴え続けたことでも知られている。「鳥の歌」は生まれ故郷であるカタルーニャ地方の民謡を編曲したもので、静かでゆったりとした中に平和への祈りが込められているといわれる。  カザルスと同じパブロという名を持つピカソ(1881~1973)も同じスペイン出身(南部のアンダルシア)だ。フランコによる反乱軍のクーデターを契機に起きたスペイン内戦で、フランコに加担したナチス・ドイツが1937年4月26日、北部の小都市、ゲルニカを…

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1799 損傷したモネの大作《睡蓮、柳の反映》AI技術で浮かび上がる復元画

 原型をとどめないほど上半分が消えた1枚の絵。修復したとはいえ、その損傷が激しい大作を見て、画家の嘆きの声が聞こえてくるようだった。東京上野の国立西洋美術館で開催中の「松方コレクション展」。その最後に展示されているのが60年間にわたって行方がわからなかった初期印象派の画家、クロード・モネの大作《睡蓮、柳の反映》(縦199・3センチ、横424・4センチ)だ。修復作業を経て多くの美術ファンの前に姿を現した無惨な姿は、この大作が戦争に翻弄されたことを示している。  ル・コルビュジが設計し、世界遺産に指定されている国立西洋美術館は1959(昭和34)年6月10日の開館だから、今年で60周年になる。開館の根幹になったのは、川崎造船所(現・川崎重工業)初代社長・松方幸次郎(明治の元勲、松方正義の3男。隊長として日本人によるエベレスト初登頂を成功させた登山家で元共同通信社専務理事の松方三郎は幸次郎の弟)が1910年代半ばから1920年代半ばにかけて収集した美術品「松方コレクション」であることはよく知られている。同コレクションは1927年の川崎造船所の経営破綻後散逸、パリに残されていた約400点は第2次世界大戦中の1944年にフランス政府によって敵国資産として接収されてしまった。戦争は美術品を奪い合うものである一例だ。第2次大戦中、ナチス・ドイツやスターリンのソ連(現在のロシア)もヨーロッパから多くの美術品を収奪したことは歴史の汚点になっている。  接収された松方コレクションは59年、フランスの国立美術館のた…

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1798 チャーチルとジョンソン 英国首相の未来

 ウィンストン・チャーチルといえば、英国の元首相で20世紀を代表する政治家の1人といっていいだろう。政治家でありながら、1953年には「第二次大戦回顧録」を中心とする著作活動でノーベル文学賞を受賞している文人でもあった。欧州連合(EU)からの離脱問題で揺れている英国の新しい首相に離脱強硬派で「英国版トランプ」といわれるボリス・ジョンソンが就任した。元新聞記者だったというジョンソンは、チャーチルのような歴史に名を残す宰相になれるのだろうか。(敬称略)  国内各紙の報道によると、ジョンソンは米国のニューヨークで生まれで、ロンドンにある中高一貫校の名門イートン校からオックスフォード大学に進み、卒業後高級紙(英国は高級紙という一般紙と大衆紙に区別されている)タイムズに入社、新聞記者の道を歩み始めた。だが、駆け出し時代、歴史家の発言を捏造したことが発覚、1年で解雇された。それでも次に安価な高級紙といわれるデーリー・テレグラフに再就職し、EUの前身を取材するブリュッセル(ベルギー)特派員になり、不正確で過激な記事を書き続けたという。この後、政治家に転身しロンドン市長も務めているから政治家として一定の力量はあるのだろう。  人を見た目で判断してはならないことは言うまでもない。だが、人間の本性は外見に出てしまう。それは米国のトランプを見れば一目瞭然であり、ジョンソンにも言える。破天荒、ハッタリともいえる思い切った言動が大衆の人気を集める所以なのだろうが、どこか危うさを感じてしまう。ポピュリズムの典型なのだ。 …

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1797 時間に洗われ鮮明になった疎開体験 「カボチャとゼンマイえくぼ」のこと

 改元で平成から令和になり、昭和は遠くなりつつある。多くの国民が未曽有の犠牲を強いられた戦争が終わって74年になる。時代の変化、世代の交代によって戦争体験も確実に風化している。しかし、当事者にとって歳月が過ぎても決して忘れることができないものがある。最近、知人が書いた少年時代の疎開体験記を読んだ。そこには、戦争がもたらした悲しみの日常が記されていた。戦時中の疎開体験は、知人のこれまで歩んできた人生で大きな位置を占めているのだろう。 「この時代(疎開)から現在までに20年が過ぎている。しかし、それだけの時が過ぎて、私には東北の半歳が私に刻みつかたものが何であるのか、正確には判らない。ただ判るのは、体験が時間に洗われて、より鮮明に私の心に重く腰を据えているだけである」。秋田への疎開体験を持つ作家の高井有一(元共同通信文化部記者)が、疎開先で自殺した母と一人取り残された少年を描き、芥川賞を受賞した『北の河』の中で、こんなことを書いている。「体験が時間に洗われて、より鮮明に心に重く腰を据える」という言葉は、知人にも共通するのではないかと思われる。  鎮魂の季節である8月が近づいてきた。以下、知人の体験の概略を紹介し、少しだけ私の個人的感想を付け加える。  ▽列車からの飛び降り  1945(昭和20)年3月下旬、5歳だった知人は母と妹、弟の4人で秋田県のある山間の村の国鉄駅近くに東京から疎開し、遠縁になる農家で間借り生活を送ることになった。教職に就いていた父親は病歴のために兵役を免れ、仕事のため東京…

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1788 屈原と気骨の言論人 ある上海旅行記から

「私はどうしても屈原(くつげん)でなければならぬ。日本の屈原かもしれない」という言葉を残したのは、明治から昭和にかけての言論人、菊竹淳(すなお、筆名・六皷=ろっこ・1880~1937)である。屈原は、このほど上海周辺を旅した知人の旅行記にも出てくる、中国戦国時代の悲劇の詩人だ。一方、昨今の新聞、テレビの実態は屈原とは対照的に、権力に迎合するトップが目立つのが現状といえるだろう。  屈原は、楚(紀元前3世紀)の貴族として懐王に信任され、国の再興に尽力した。しかし、その後讒言(ざんげん)によって失脚、中国湖南省北東部を流れる湘江の支流、汨羅(べきら)で投身自殺した人物だ。後世、屈原の死んだ日である5月5日に粽(ちまき)を食べる風習が端午の節句になったという言い伝えがある。彼の詩は古代中国の代表的詩集「楚辞」の中に収められ、特に「離騒」はその格調の高さから「史記」で知られる漢の歴史家、司馬遷に評価され、中国最初の詩人として歴史に名を残した。  冒頭の言葉のように、自身を屈原に譬えた菊竹は西日本新聞の前身「福岡日日新聞」の編集局長として犬養毅首相が暗殺された1932年の5・15事件で、全国のほとんど(例外は桐生悠々の信濃毎日新聞)の新聞が沈黙する中で、痛烈な軍部批判のコラムを繰り返し執筆、掲載した気骨ある言論人だった。その生涯は木村栄文著『記者ありき』(朝日新聞社)に詳しく紹介されている。「世を挙げて皆濁りて我独り清めり」という屈原の漢詩を、菊竹は自身の姿に重ね合わせたのだ。首相と夜の懇談を重…

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1783 岡倉天心が愛した五浦 六角堂を訪ねる

「人は己を美しくして初めて、美に近づく権利が生まれる」 日本近代美術の先駆者、岡倉天心(本名、覚三、1863~1913)が、『茶の本』(岩波文庫)の中で、芸術表現について明かした一節の中にこんな言葉がある。天心は晩年、太平洋を臨む福島県境の茨城県大津町五浦(いづら、現在の北茨城市大津町五浦)に居を構え、美術史家、美術評論家として日本の美術運動をけん引した。初めて五浦に行き、天心ゆかりの風景を見ながら、冒頭の言葉の意味を考えた。  五浦は大小の入り江や断崖が続く景勝地で、現在天心の旧宅(当時の半分規模)と観瀾亭(かんらんてい、大波を見る東屋の意味)と呼ばれる六角堂が茨城大学五浦美術文化研究所によって運営されている。少し離れた場所に茨城県天心記念五浦美術館がある。このうち六角堂は天心の設計で1903(明治36)年に建てられ、茶室を兼ね備えた朱塗りの外壁と屋根が宝珠を装った六角形である。太平洋を見下ろす崖すれすれの場所にある小さな建物だ。  六角形の東屋は、中国文人庭園では岩(太湖石)を見るためのものだが、天心は大波を見るイメージで建てたといわれる。室内は茶室となっていて、日本と中国が融合したユニークな建物といえる。すぐ下が海になっていて、2011年3月11日の東日本大震災によりこの建物は津波によって流失してしまったが、翌年に茨城大や北茨城市によって復元されている。天心自身、後年に津波がここまで押し寄せるとは考えもしなかっただろう。  天心は東京開成学校(東大の前身)時代、アメリカ人教…

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1781「政治とは距離を置く」 仏地方紙の気骨を羨む

 フランスのマクロン大統領が複数の地方紙のインタビューに応じた際、大統領府が記事を掲載する前に見せるよう求めていたことが明らかになった。記事の事前検閲といえる。反発した一部の地方紙はインタビューに加わらなかったという。「政治とは距離を置く」というのが理由だ。当然のことだ。昨今、日本の報道機関にはこうした報道機関の基本姿勢を忘れた幹部が存在することに歯がゆい思いがする。  新聞社や通信社の記者は、取材して書いた記事は事前に取材対象に見せることはしないのが原則だ。識者への談話取材などでその内容を説明することはあるが、記事そのものを相手に見せることはない。事前検閲に応じていたら、権力を批判する自由な記事は書けない。マクロン大統領のインタビュー記事を見せることを断った新聞社がある一方で、応じた新聞社もあったという。それらの新聞は「政治とは距離を置く」という原則を忘れたのか、初めからなかったのだろう。  このブログで何回か、日本の首相動静の記事について書いたことがある。首相番の政治部若手記者が首相の一日の動きを追い、時間ごとに場所、会った相手と目的(会議や会合など)を掲載している。この動静でこのところ目に付くのが、マスコミ関係者との会食・懇談だ。  連休明け後、その会食・懇談は顕著だ。ちなみに新聞報道によると▼8日(東京・丸の内のパレスホテル4階宴会場「桔梗」)▼9日(東京・千代田区の帝国ホテル内の「中国料理 北京」)▼15日(東京・港区の寿司店「すし処魚しん」)▼21日(東京・赤坂の日本…

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1780 権威に弱い民族性 トランプ氏の相撲観戦計画

 ドナルド・トランプ米大統領(72)が26日の大相撲夏場所千秋楽(東京・両国国技館)を観戦するという。土俵近くの升席に椅子を置いて座るというのだが、伝統を守るという名目で保守的な相撲協会も、米国のトップには異例の待遇といえる。トランプ氏の相撲観戦へというニュースを見ていて、太平洋戦争敗戦後、占領軍(GHQ)総司令官マッカーサーと総司令部に日本国民が約50万通にも及ぶ投書を寄せたというエピソードを思い起こした。権威に弱い民族性は、今も変わらないように思えるのだ。  国技館には土俵を見下ろす貴賓席があり、天皇皇后はここで観戦していた。新聞報道によると、今回は格闘技が好きなトランプ氏のために安倍首相が提案、升席に招待したという。ここは通常座布団に座るが、あぐらに慣れないトランプ氏のため特例として椅子を用意し、複数のSP(警官)が周囲に付く。スポーツ紙には千秋楽の正面升席は相撲協会がトランプ氏用に特別に確保、トランプ氏らは幕内の後半数番だけを観戦し、優勝者に「トランプ杯」を授与する予定だが、幕内前半ごろまでは正面升席の一角だけが空席のまま進行するという前代未聞の千秋楽になる見通し、という記事が出ていた。トランプ氏の相撲観戦の特別待遇は王様扱いなのだろう。  戦後の日本でマッカーサーとGHQ総司令部へのおびただしい投書があったことを明らかにしたのが袖井林次郎著『拝啓マッカーサー元帥様 占領下の日本人の手紙』(単行本1985年8月・大月書店、文庫本1991年2月・中公公論)である。袖井は米国のマッ…

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1778「はるかクナシリに」 国会議員の「戦争発言」と酒の二面性

 「知床旅情」という歌を知っている人は多いだろう。作詞作曲した森繁久彌さんや加藤登紀子さんが歌い、私も好きな曲である。この歌の一番の詞の最後は「はるかクナシリに 白夜は明ける」となっている。「クナシリ」は北方領土(四島)のうちの国後島のことである。つい先日、国後島へのビザなし交流訪問団に参加していた丸山穂高という衆院議員が飲酒後、訪問団の団長に質問する形で「戦争で島を取り返すことに賛成か反対か」という発言をしていたことが明らかになり、所属していた日本維新の会から除名された。本人は国会議員はやめない意向だが、こんな議員がいる国会の劣化は激しいといっていい。  この議員の発言について「失言」あるいは「大失言」という表現の報道を見た。失言は「言ってはいけないことを、不注意で言ってしまうこと。言いあやまり。過言」(広辞苑)という意味で、丸山議員の言葉は失言というよりも酒の勢いを借りての本音ではないかと私は思う。日本維新の会代表の松井大阪市長は「議員を辞職すべきだ」と語ったが、代表自ら辞職を勧告すべきではないか。(注記、その後の言動を見ていると、酒に関係なく、この人の考え方は危うい) 「古代ギリシャ人は、アルコールの化学的成分やその神経組織に対する影響については無知だったが、人間の意識にあたえる効果については不可思議な何ものかがあると認めていた。何杯かのワインによって“途方もない”喜悦に体をほてらせ、平凡さ、偶然、必滅とかを感じなくなるプルースト(筆者注『失われた時を求めて』の作者ばりの感覚を得…

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1777 小説『俺だけを愛していると言ってくれ』 一時代を駆け抜けた男への挽歌

 言うまでもなく、人生は出会いと別れの繰り返しである。長い人生の旅を続けていると、邂逅の喜び、悲しみに鈍感になる。とはいえ、誰もが「別れ」は使いたくない言葉のはずだ。友人が書いた中編小説『俺だけを愛していると言ってくれ』(菅野ゆきえ著・文芸社)を読んだ。充実した人生を送ってきたはずの夫が難病に侵され、妻を苦しめる。壮絶な病気との闘いをメーンにした愛の物語だ。日本のあるいは世界のどこかで、このような現実に直面している人たちが少なくないだろう。悲しい結末だ。この物語には、平穏な生活を取り戻した妻の心に去来するものがちりばめられている。  夫(山元智史)と妻(洋子)が交互に語り手となり、それぞれの視点で描かれている。「若年性レビー小体型認知症」という難病との闘いがテーマの一つになっており、当然ではあるが、視点は大きな隔たりがある。それが結果的に緊張感が伴い、今日性の高い作品として読む者を惹きつける。  物語は電機メーカーの営業マンとして生きてきた智史が医師から認知症だと宣告される場面から始まる。58歳になったころから智史は鍵やカードを頻繁になくし、趣味のテニスもコートの場所と時間を間違えたりする。会社では決裁文書を放置し、取引先との面談予定を失念するなど失敗を繰り返すようになったため、市民病院で診察を受けたのだ。  認知症について辞書には「成人後期に病的な知能低下が起きる状態。いわゆる呆け・物忘れ、徘徊などの行動を起こす」(広辞苑)と載っている。智史の病名のレビー小体型認知症は、「…

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1775「恐れてはならぬ」時代 改元の日に思うこと

 30年と4カ月続いた平成という元号が4月30日で終わり、5月1日から令和になった。改元の経験はこれで2回になる。私が生まれた昭和は遠くなりつつある感が深い。昭和は戦争という負のイメージとともに、戦後の経済復興という力強い歩みの側面もあった。これに対し平成は多くの国民が踊ろされてしまったバブル経済が崩壊し、以後、少子高齢化社会の進行を背景に日本社会から活力が失われ、さらに阪神大震災と東日本大震災、東京電力福島第一原発事故に代表される「災害」に国民生活が脅かされ続けた時代でもあった。  本棚を整理していて、この時代に起きたテロに関する本を読み直した。村上春樹『アンダーグラウンド』(講談社文庫)とジム・ドワイヤー、ケヴィン・フリン『9・11 生死を分けた102分』(文藝春秋・三川基好訳)の2冊である。今、世界ではテロが相次いでいる。だが、衝撃度が格段に高いのは2冊の本に描かれた事件ではないかと思う。日本では1995年3月20日の地下鉄サリン事件(死者13人、重軽症者約6300人)、海外では202年9月11日の米国の同時多発テロ(死者2996人=被害者2977人+実行犯19人、負傷者6291人以上)だ。カルト教団とイスラム過激派が私たちの想像を超えた手段によって無差別テロを起こし、多くの市民を犠牲にした2つ事件をこの時代に生きた私たちは別格的存在として記憶している。  村上はノーベル賞受賞が近いといわれる作家だが、この作品は地下鉄サリン事件被害者へのインタビューを集めたノンフィクションだ。村…

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1774 4月28日は何の日か 沖縄問題素通りの日米首脳会談

 10連休2日目の4月28日は、サンフランシスコ平和条約(対日講和条約)が発効した日だ。第2次世界大戦後、米国を中心とする連合国に占領されていた日本が各国との間でサンフランシスコで平和条約を調印したのは1951年9月8日で、この条約は翌52年4月28日に発効した。67年前のことである。これにより連合国による占領が終わり、日本は主権を回復したのだが、この条約で日本から切り離された沖縄、奄美、小笠原は米国の施政下に置かれたから、沖縄では「屈辱の日」とも呼ばれている。そんな日の新聞には日米首脳会談の記事が載っている。だが、である……。  今更言うまでもないことだが、沖縄の米軍普天間基地を名護・辺野古へと移設しようとする政府の方針は、県民投票でノーを突き付けられた。その前の知事選、つい先日の衆院選補選でも新基地建設反対の声が支持された。その民意を「真摯に受け止める」と語ったはずの安倍首相は、今回の日米首脳会談にどう臨んだのだろうか。  外務省のホームページから要点だけ記すと、会談で話し合われたのは①朝鮮半島非核化について②北朝鮮による日本人拉致問題解決のための連携強化③日米安保同盟の強化④日米貿易交渉について⑤G20大阪サミット関係⑥新天皇即位後の初国賓としてトランプ大統領を招待――といった内容だった。結局、今回も沖縄の基地問題は素通りだった。  相変わらず、沖縄の民意は無視されたといっていい。最近、新元号の発表でテレビへの露出度が高くなり、「次の首相候補に急浮上」という形で各メディアが…

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1773 憎しみの連鎖 スリランカ大統領と鎌倉大仏

 スリランカ(かつてのセイロン)最大の都市、コロンボで同時多発テロがあり、22午後7時現在日本人を含む290人が死亡し、450人以上が負傷した。スリランカといえば、日本の戦後史に残る政治家がいた。鎌倉大仏殿高徳院境内に「人はただ愛によってのみ憎しみを越えられる。人は憎しみによっては憎しみを越えられない」(英語: Hatred ceases not by hatred, But by love)という顕彰碑がある、ジュニウス・リチャード・ジャヤワルダナ(1906年9月17日~1996年11月1日)である。多くの犠牲者を出した同時多発テロ。憎しみの連鎖は、依然この世界を覆っている。  当時セイロンの蔵相だったジャヤワルダナはセイロン代表として1951年9月6日のサンフランシスコ講和会議に出席、前述の演説をして、日本に対する戦時賠償請求を放棄することを表明した。その後首相を務め、セイロンはスリランカとして国名を替え、再出発した。初代大統領は女性のシリマボ・バンダラナイケで、ジャヤワルダナが第2代大統領になった。親日家として知られ、何度も来日し、1996年に90歳で死去した際、「右目はスリランカ人に、左目は日本人に」という遺言通り、片方の目は群馬県の女性に移植された。  鎌倉大仏境内の顕彰碑の裏には、建立の由来が概略以下のように記されている。  この石碑は対日講和会議で日本と日本国民に対する深い理解と慈悲心に基づく愛情を示されたスリランカ民主社会主義共和国のジュニアス・リチャード・ジャヤ…

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1772 大聖堂火災で歴史遺産を考える 世界の人の目は

 パリの世界遺産、ノートルダム大聖堂(寺院)で火災が発生、尖塔が崩壊するなど、大きなダメージを受けた。フランス各界や海外からこれまでに1000億円を超える寄付の申し出があり、フランスのマクロン大統領は、5年で再建を目指すと語った。大聖堂がパリのシンボルだったからこれほど大きな話題を集め、人類の歴史の中で作り上げられた文化遺産がいかに貴重であるかを考える機会にもなった。  キリスト教については門外漢であり、大聖堂についての知識はほとんどない。以前、イギリスの作家、ケン・フォレットの長編小説『大聖堂』(前編と後編で全6冊)を読んだり、旅行でノートルダム大聖堂を含む著名な大聖堂を見たりして、キリスト教関係者にとって大聖堂はかけがいのない存在だと、少しだけ理解したつもりだが……。  ノートルダムは、フランス語で「われらの貴婦人(聖母マリアのこと)」という意味だそうで、この名前の大聖堂は各地にあり、大学も何校か存在する。手元の西洋建築史の本を見ると、フランスのパリやランス、アミアン、ランのノートルダム大聖堂は12世紀後半から15世紀まで続いたフランス発祥のゴシック建築様式の理想形だという。マクロン大統領はパリの大聖堂を5年で再建すると言明した。しかし5年といえば突貫工事である。そうした理想の様式を短時間で再現できるのだろうかと、疑問に思う。  今回は火事による被災だったが、これまでに多くの文化遺産が戦争によって危機にさらされた。ユーゴ内戦によって赤い屋根が並ぶクロアチア・ドブロブニク旧市街…

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1770 新札デザイン・2千円・守礼の門は 司馬遼太郎の沖縄への思い

 2024年度から紙幣(1万円、5千円、千円)のデザインが変更になると政府が発表した。唯一、2千円は変わらない。普段、私はお札のデザインを気にしていないが、かつて1万円については「聖徳太子」という別称があったことを記憶している。表紙の聖徳太子がそれだけなじんでいたのだ。現在の1万円の顔は福沢諭吉であり、今度は渋沢栄一になるという。「しぶさわ」が1万円札の象徴として扱われる時代、日本はどんな歩みを続けるのだろう。  紙幣デザインの変更を聞いて、影が薄いとだれしも思うのは2千円札のことだろう。最近ほとんど見かけないし、1万円や5千円の買い物をして、そのおつりでもらうこともない。表は首里城の「守礼の門」で、裏は源氏物語絵巻のデザインだ。2000年に開かれた沖縄サミットを記念して発行されたが、中途半端な額のためか利用度は低く、既に製造は中止になっている。現在は発行された分だけが流通しており、ほぼ9割が沖縄県で使われているそうだ。それだけに今回のデザイン変更で使用停止になる可能性もあったが、何とか生き残った。 「戦前、首里の旧王城(注・かつての国宝)がいかに美しかったかについては、私はまったく知らない。(中略)いまは、想像するしかない。(中略)私の想像の中の首里は、石垣と石畳の町で、それを、一つの樹で森のような茂みをなす巨樹のむれが、空からおおっている」  これは、作家の司馬遼太郎が『街道をゆく6 沖縄・先島への道』(朝日文庫)というエッセー集の中で、首里について記したものだ。『街道をゆく…

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1769 時代を映す鏡 水上勉の社会派推理小説再読

 水上勉の社会派推理小説といわれる一連の作品を集中して再読した。作品名を順番に挙げると『霧と影』『巣の絵』『海の牙』『爪』『耳』『死の流域』『火の笛』『飢餓海峡』(いずれも朝日新聞社発行の「水上勉社会派傑作選」より)である。いずれも、戦後の社会風俗を色濃く反映した作品だ。犯罪は時代を映す鏡だといわれる。そのことを意識しながら、これらの作品を読み進めた。  社会派推理小説として水上が最初に書いたのは『霧と影』だった。水上は社会派の作家、松本清張のベストセラー『点と線』に刺激を受けて洋服の行商をしながらこの作品に取り組み、殺人事件の中にトラック部隊事件(戦後不要になった大量の軍需品を運び出して売りさばいた非合法組織による窃盗団)など、当時の社会状況を材料に取り入れ完成させ、一躍社会派推理作家の仲間入りを果たした。また、『海の牙』は殺人事件の中に熊本の水俣病(作品では架空の水潟市が舞台)を織り交ぜ、この作品によって多くの人が水俣病公害に目を向けるきっかけともなったといわれる。 『飢餓海峡』は映画やテレビドラマにもなった水上の代表的作品で、青函連絡船「洞爺丸転覆事故」(1954年9月26日、台風15号の影響で洞爺丸が転覆し、1155人の死者・不明者が出た)と「岩内大火」(洞爺丸事故と同じ日に発生、市街の8割、3298戸が焼失し36人の死者が出た)をモデルにしたことはよく知られている。この作品の構想は、洞爺丸遭難と同じ日に町を焼き尽くした岩内大火があったことを、1961年に同町に講演に行った際に…

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1755 まさか、まさかの時代 トランプ大統領ノーベル平和賞推薦

 米国のトランプ大統領が、北朝鮮問題で安倍首相からノーベル平和賞に推薦されたことを明らかにした。問題の多いトランプ氏をなぜ平和賞に推薦するのか、どうして? と、首をひねった。だが、トランプ氏は「あのオバマがもらったのだから、私ももらって当然」と思っているのかもしれない。トランプ氏が大統領に当選したこと自体、米国のメディアが予想もしなかった「まさかの時代」だから、ブラックユーモアと笑っていることもできない。  これまで米国の現職大統領で平和賞を受賞したのは、26代のセオドア・ルーズベルト(1906年、日露戦争の講和調停に尽力)、28代のウッドロウ・ウィルソン(1919年、国際連盟創設の立役者)、そして44代のバラク・オバマ(2009年、プラハで核兵器のない世界実現のため先頭に立つと演説)の3人だ。さらに39代のジミー・カーター(2002年、エジプトとイスラエルの和平交渉の仲介)は離任21年後に受賞し、2007年には元副大統領のアル・ゴア(地球温暖化に関する啓発活動)が受賞した。  オバマ氏については、核兵器廃絶や国際社会の平和実現の救世主として活躍を期待する、いわば先行投資的な授与といわれた。しかし格調高い演説の割には、その後政治的成果が伴わず、授与は失敗という見方が一般的である。それは、日本人で唯一、1974年に平和賞を受賞した佐藤栄作元首相(安倍首相の祖父・岸信介元首相の実弟)にも言えるだろう。非核3原則(核兵器を持たず、つくらず、持ち込ませない)を日本の国是とする考え方を提唱し、7…

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1754 若者の未来奪った五輪の重圧 円谷幸吉の自死から51年

 東京五輪のマラソンで銅メダルを獲得した円谷幸吉が自殺をしたのは1968(昭和43)年1月9日のことである。27年の短い生涯だった。あれから51年の歳月が流れている。円谷の自殺に関しては当時から、次のメキシコ五輪で金メダルをという重圧を受ける中での腰の故障による不調、指導を受けていた自衛隊体育学校のコーチの左遷、結婚の破談が重なったことが要因との見方が強い。これを世に広めたのはベストセラー『深夜特急』の作者、沢木耕太郎のノンフィクション作品だった。最近、沢木の作品の内容に疑問を呈する小説を読み、後世まで批判に耐える作品を書くのは容易でないことを思い知らされた。  増山実著『空の走者たち』(ハルキ文庫、以下『走者』と表記)である。円谷が時空を超えて現れ、しかも実在の人物も重要場面で登場するフィクションだが、円谷の悲劇を描いた沢木のノンフィクション作品『敗れざる者たち』(文春文庫)の中の「長距離ランナーの遺書」(以下『遺書』と表記)についてもかなりの頁を割いている。それは批判といえる指摘が多かった。沢木は『遺書』の終わりの方でこんなふうに書いている。「円谷は最後まで『規矩の人』だった。円谷の生涯の美しさは、『規矩』に従うことの美しさであり、その無惨さも同様の無惨さである」。辞書には「規矩の規はコンパス、矩は物差しのこと。規準とするもの。手本。規則」(広辞苑)とあるから、円谷は生真面目な人だった沢木は考えたのだろう。そして、この見方を基本に、沢木は円谷の「自主性のなさ」「融通の利かなさ」「暗さ」を…

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1751 聖書と日本の政界 北の空を凝視する風見鶏

 近所に地区の集会所があり、屋根に風見鶏の飾り物が付いている。風見鶏は鶏をかたどった風向計・魔除けのことで、ヨーロッパでは教会や住宅の屋根に取り付けられていて珍しくないという。だが、周辺ではここ以外にあまり見かけない。神戸あたりは多いのかもしれない。なかなか風情があるのに日本では「政界の風見鶏」というように、芳しくない意味に使われ、風見鶏にとって迷惑なことに違いない。最近もこの言葉を連想させるニュースに接し、気分が悪くなった。  百科事典には、教会で風見鶏を付けるのは、「キリストとの関係を3度否認したペトロ(ペテロともいう)を目覚めさせた雄鶏の記念という」(マイペディア)とある。ペトロはキリストの最初の信者。十二信徒の代表格といわれ、ローマ帝国の暴君ネロによって殉教した。手元にある聖書を見ると、ペトロとキリストの関係が記されていた。それによると、キリストは最後の晩餐の際、ペトロに対し「あなたは今夜、鶏が2度鳴く前に、3度私のことを知らないと言うだろう」と離反を予告した。実際にキリストが捕まったとき、ペトロは鶏が1回鳴いている間に3回関係を否定し、鶏が2回目に鳴くとキリストの言葉を思い出し、羞恥のために泣き出したという。  ペトロを改心させた鶏を記念しているわけだから、風見鶏は意義ある存在なのだ。だが、日本の政界では元首相の中曽根康弘氏を「政界の風見鶏」と呼んだように、この言葉の好感度は高くなかった。風見鶏は風の方向によって向きが変わるから、定見を持たず政治の流れ・風向きで都合のいいよう…

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1749 本土作家が描いた苦闘する沖縄の姿 真藤順丈『宝島』を読む

 沖縄には「ナンクルナイサ」(どうにかなる、何とかなるから大丈夫)という言葉がある。だが、この本を読んで、言葉の響きは軽くてもその意味は重いのではないかと考えた。それほどに本土に住む私でも胸が苦しくなるほど、沖縄は米軍と日本政府に苦しめられたことが理解できるからだ。それに抗った若者を描いたのが直木賞を受賞したこの作品である。賞の選考委員は「明るい内容」と評した。そうだろうかと思う。この本は4人の男女を軸にした1952年から1972(本土復帰)年までの沖縄の苦闘の物語である。  戦後の沖縄・コザ(現在の沖縄市)に3人の少年(オンちゃんと弟のレイ、オンちゃんの親友グスク)と1人の少女(オンちゃんの恋人ヤマコ)がいた。沖縄戦を生き延びた4人は幼なじみであり、少年たちは米軍基地に忍び込んで物資を盗み出し、それをコザに住む貧しい人たちに配っている「戦果アギヤー」(戦果をあげる者)だ。ある時、少年3人は嘉手納基地に多くのアギヤーとともに入り込むが、米軍に見つかり大多数の者が逮捕される。リーダーのオンちゃんはこの事件をきっかけに姿を消し、レイとグスクは刑務所で服役する。時を経てレイはやくざにグスクは沖縄県警の刑事にと正反対の道を歩み、ヤマコは教員となって沖縄返還闘争に力を入れる。  沖縄は米軍の犯罪が横行する。そんな中で、ヤマコによって言葉を回復したウタという、この物語のもう一人の中心人物になる男の子が出てくる。レイは、反米強硬派による米軍高等弁務官暗殺未遂事件後、姿を消す。そして10年。作品のヤマ…

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1748「崎山公園」雑感 続・坂の街首里にて(7)完

 坂の街首里から約3週間ぶりに平坦な千葉に戻ってきた。首里の街は急な上り下りが多く、しかも雨の日は石畳が滑りやすく、歩くことにかなり気を使った。体も疲れやすかった。そんな日々を過ごし、わが家周辺を歩くと、妙に足が軽い。スポーツジムで鍛える必要がないほど、首里での生活は筋力トレーニングになったようだ。  日本には美しい坂が各地にある。首里以外では、北から並べると函館の八幡坂、平泉・中尊寺の月見坂、鎌倉の化粧坂切通し、熱海海光町の石畳の坂、京都の三年坂、神戸の北野坂、尾道の千光寺新道、長崎のオランダ坂、平戸の寺院と教会の見える坂道、――などである。これらの坂道と比べも首里(金城町の石畳)は引けをとらない。そこに住む人たちの暮らしは楽ではない。その一方で、高台ゆえの眺望には魅力がある。滞在していたマンションのベランダに出ると、首里の街が一望できた。白いビルの美しい風景広がり、後方に青い海も見える。かすかに慶良間諸島の島影もある。  首里城にも那覇の全景を見ることができる場所(西のアザナ)があり、そこは多くの外国人でにぎわっていた。首里城から徒歩6、7分の所にある「崎山公園」は人影も少なく、私の憩いの場所でもあった。私は那覇滞在中、ほぼ毎日この公園の展望台から那覇の街を眺めた。朝、公園に足を向けると、近所のおばさんがごみを集めていて、公園はきれいになっている。おばさんとは昨年4、5月に那覇に滞在した際に知り合いになっていたから、朝の挨拶を交わす。すると、彼女は「ラジオ体操をやりませんか」と私を…

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1745「美しく花開くためには」 続・坂の街首里にて(5)

「むせび哭く み魂の散りしか この丘に かすかにひびく 遠き海鳴り」――悲しみを歌ったこの短歌があるのは、沖縄県糸満市摩文仁の平和祈念公園だ。この公園にはこれまで何度か足を運んだ。しかし、高台にある各都道府県の碑には初めて行った。そこは私たち以外には人影はなかった。遥か遠くに神が宿る島といわれる久高島が見えた。  平和祈念公園には、シニアボランティアが担当する1人100円の電動カートがある。説明を聞きながら、園内を回った後、再び高台まで歩いた。そこで「福島の塔」にある冒頭の歌を見た。私の父はフィリピンで戦死し、遺骨は戻っていない。「福島の塔」には「われわれ福島県民は 第2次世界大戦後21年にあたり 祖国の繁栄と平和を祈って 大戦時海外において祖国に殉じた本県出身者6万6千余柱の英霊につつしんでこの塔を捧げます」と記されていた。私はこの塔に合掌しながら、フィリピンに眠る父を思った。  さらに歩を進める。「島根の塔」と「ひろしまの塔」の碑には短い言葉が記されていた。 「島根」  美しく花開くためには  そのかくれた根のたえまない  営みがあるように  私達の  平和で心静かな日々には  この地に散ったあなた達  の深い悲しみと苦しみが  そのいしずえになっている  ことを思い、ここに深い  祈りを捧げます 「広島」  海を渡り また 海を渡り  郷土はるかに 戦って還らず  沖縄に散り 南方に散る  護国の英霊3万4千6百余柱  ここに とこしえに 鎮…

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1744 辺戸岬の「復帰闘争碑」 続・坂の街首里にて(4)

 沖縄本島最北端の辺戸岬に行った。首里から車で約2時間半。断崖の下に広がる冬の海は白波を立て、以前見たような既視感を抱いた。そうだ。ユーラシア大陸最西端のポルトガルのロカ岬と印象が似ているのだ。ロカ岬にはポルトガルの国民詩人といわれるルイス・デ・カモンイスの詩の一節「「ここに地終わり海始まる」が刻まれた十字架の石碑が建っていた。一方、辺戸岬には「祖国復帰闘争碑」と社会派の俳人、沢木欣一の句碑の2つが建っていた。「全国の そして世界の友人へ贈る」という書き出しの前者の碑を読みながら、沖縄の現状はこの碑が建った1976年当時と変わっていないことを実感した。  辺戸岬は2016年9月15日 に国立公園に指定された「やんばる国立公園」内にあり、沖縄本島の最北端の地だ。はるか遠くに鹿児島県最南端の与論島が浮かんでいる。2つの碑を読んだ。「祖国復帰闘争碑」は長い文章だが、以下に全文を紹介する。  全国の そして世界の友人へ贈る  吹き渡る風の音に 耳を傾けよ  権力に抗し 復帰をなしとげた 大衆の乾杯の声だ  打ち寄せる 波濤の響きを聞け  戦争を拒み 平和と人間解放を闘う大衆の雄叫びだ  鉄の暴風やみ 平和の訪れを信じた沖縄県民は  米軍占領に引き続き1952年4月28日  サンフランシスコ「平和」条約第3条により  屈辱的な米国支配の鉄鎖に繋がれた  米国支配は傲慢で 県民の自由と人権を蹂躙した  祖国日本は海の彼方に遠く 沖縄県民の声はむなしく消えた  われわれの闘いは…

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1743 琉球王朝の初春儀式を見る 続・坂の街首里にて(3)

 新年を首里で迎えた。すぐ近くの首里城では約450年続いた琉球王朝時代に行われていた正月の儀式が公開された。初もうでは首里城周辺の3つの寺を回った。私の干支・酉年にちなむ寺で引いたおみくじは大吉だった。さて、今年の世相はどうなるのだろう。沖縄の2つの新聞の社説は「[辺野古 重大局面に]国会で説明責任果たせ」(沖縄タイムス)、「新年を迎えて 日本の民主主義は本物か」(琉球新報)――という見出しで、米軍普天間飛行場の辺野古移設に伴う新基地建設を政府が強行している問題に触れていた。    琉球・沖縄の歴史をみると、12世紀ごろから各地に出現した按司(あじ)と呼ばれる豪族が抗争と和解を繰り返していたが、1429年に尚巴志(しょうはし)がこれら主要な按司を統合、琉球王国が成立し、独自の海洋国家として発展した。首里城はその政治、経済、文化の中心だった。だが、1609年、薩摩藩によって侵略され、以降琉球は薩摩藩の従属国になった。さらに明治維新後、武力を背景にした明治政府によって「琉球国の廃止と琉球藩(1872年)の設置」、「琉球藩の廃止と沖縄県設置(1879年)」という琉球処分政策が実施され、琉球王朝は完全に滅び、沖縄は日本の一県になった。  琉球新報は「ことしは1879年の琉球併合(琉球処分)から140年になる。沖縄を従属の対象として扱う政府の姿勢は今も変わっていない」と日本政府を批判。さらに「辺野古での新基地建設の強行は、日本から切り離された1952年のサンフランシスコ講和条約発効、県民の意に反し…

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