1771 生命力を感じる新緑と桜 子規とドナルド・キーンもまた

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 私が住む首都圏は現在、新緑、若葉の季節である。街路樹のクスノキの緑が萌え、生け垣のベニカナメの赤い新芽がまぶしいこのごろだ。新緑、若葉の2つは俳句では「夏」の季語になる。しかし立夏はまだ先(5月6日)で、今は春爛漫というのが適切な時期になる。時代ともに季節感覚が、少しずつずれてしまっているのだろう。

 手元の角川俳句歳時記には「春に芽吹いた木々が5月ごろに新葉を拡げるさまは美しい」(若葉)、「初夏の若葉のあざやかな緑」(新緑)――と出ている。いずれも5月ごろの季節を想定した書き方である。東北や北海道ではちょうどこの記述が適当だろうが、関東以南にはややそぐわなくない表現だと思われる。

 それは別にして、新緑と若葉と聞いて人は何を感じるだろうか。私はどうしても「生命力」をイメージする。樹木が冬の眠りから覚めて活動を再開する姿に、生命の息吹を感じるからだ。詩人の大岡信は、日本の春の象徴である桜について「『前線』ということばが花では桜についてだけ言われますが、桜は動くもの、散るもの、しかしそれは同時に生命力をあらわしていて、桜を詠んだ詩歌がそういうことを示すものが多いのは当然だとおもいます」(『瑞穂の国うた』新潮文庫)と書いている。

 3月が別れの季節の色合いが濃いのに対し、4月は大岡が書くように、生命力が前面に出る季節なのだ。34年という短い生涯にもかかわらず、挑戦する姿勢を忘れなかった俳句の正岡子規の生き方に私は強靭な命の輝きを感じ取る。先ごろ96歳で亡くなったドナルド・キーンは『正岡子規』(新潮社・角地幸男訳)という評伝の中で、子規を以下のように評した。

「子規が偉大なのは、著名な俳人の欠如や西洋の影響下にある新しい詩形式の人気のために、俳句が消滅の危機に晒されていた時に、新しい俳句の様式を創造することで同世代を刺激し、近代日本文学の重要な要素として俳句を守ったからだった。もし子規が俳句を作らず、批評的エッセーを書かなかったならば、短歌と同様、俳句もまた連歌のように生きた詩歌の形式であることを止め、初老の衒学者(げんがくしゃ、論理の形式や厳密性、正確性にこだわり、学識をひけらかし傲慢な態度を見せる人物の蔑称)たちの遊びに過ぎないものになっていたかもしれない」「子規は、もし望めば、そして長生きしていたなら、新体詩の大詩人になっていたかもしれない。しかし子規は、自分が言いたいことを言うには短い詩が一番適していると感じていたようだった」

 ドナルド・キーンは、2011年の東日本大震災を契機に米コロンビア大学を退職して日本国籍を取得、日本に永住した。日本文化研究に明け暮れたその生涯もまた、生命力に溢れたものだったと、私は思う。

 写真1、クスノキの美しい若葉 2、ベニカナメの鮮やかな朱色

 
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