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zoom RSS 1533 「ありがとうハワイの病院」 人間魚雷・元兵士の記録

<<   作成日時 : 2016/12/07 18:19   >>

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 安倍首相が今月末、ハワイ真珠湾を慰霊訪問するという。75年前の1941(昭和16)年12月8日、多くの日本人は山本五十六率いる連合艦隊の「奇襲攻撃」に狂喜した。一方、アメリカでは「リメンバーパールハーバー」という言葉が使われた。日本の開戦通告が攻撃開始より遅れたため、卑怯な戦法として「12・8」は米国民には忘れてはならない屈辱の日となった。それほどこの奇襲攻撃に怒ったアメリカは、太平洋戦争で捕虜にした日本兵をハワイでどのように扱ったのだろう。手元にある一冊の戦争体験記録を読み返した。

 元教師の衣山武秀さんが編集した『神様は海の向こうにいた』という太平洋戦争の体験記である。この記録は15人が執筆し、冒頭には題名に使われた大槻栄さんの人間魚雷に乗り組み、九死に一生を得る話が載っている。以下はその要約である。

 大槻さんは福島県南部の近津村(現在の棚倉町)の生まれで、太平洋戦争開戦翌年の1942(昭和17)年に20歳になった。徴兵検査を受け甲種合格とされ、1943(昭和18)年6月30日に海軍に入る。横須賀で3カ月の訓練を受けたあと東南アジア方面に軍艦で出撃したが、1944年1月、アメリカ軍の攻撃を受けて艦は沈没、乗っていた300人のうち助かったのは大槻さんを含めて17人だけだった。

 日本に戻った大槻さんを待っていたのは、「水雷学校」(海軍は1944年3月に臨時の魚雷艇訓練所を神奈川県横須賀市から長崎県川棚町に移転)という「人間魚雷」の訓練学校への入学命令だった。人間魚雷は、小型船に爆薬を積んでアメリカの軍艦に体当たりして爆発させる特攻攻撃である。乗っている人間の助かる確率は低い。沈んだ軍艦に乗っていて、生きて帰った兵士への軍当局の非情なまでの扱いだったといえる。(人間魚雷としては「回天」という1人乗りの特攻兵器が知られているが、大槻さんが訓練を受けたのは1〜2人乗りのかなり粗末なベニヤ板製のモーターボートで、後部に爆雷を積んだ「震洋艇」とみられる)

 既に日本の海軍、空軍とも戦力を失っているため、このような人間の命を軽視する攻撃方法しか残っていなかった。水雷学校を卒業すると、大槻さんは「海上特攻隊」に入るため海軍基地があるトラック諸島へと連れて行かれた。「これでわが人生も終わりだ」と故郷の両親や妻子を思いながら切ない日々を送った大槻さんにある日の夕方、出撃命令が出た。アメリカ人は目が青いため夕方はよく見えないという、でたらめな根拠による出撃だった。目標は「ニュージャージー号」で4000人(正しくは1921人)が乗る米軍最強の軍艦だ。

 大槻さんが乗った人間魚雷は2人一組の小型船で、1人が舵をとり、大槻さんはエンジンを担当していた。敵の軍艦に800メートルまで近づき、そこから全速力で突っ込むことになり、スピードを最大に上げると敵艦は見る間に大きくなってきた。そこで大槻さんは気を失う。

 気が付くと、大槻さんは清潔なベッドの上にいた。天国にいると思った。だが、そこはハワイのアメリカ軍病院だった。周囲を見ると、かすかにしか見えない。右目は少しだけ見え、左の目は大けがをしていて眼帯をつけている。敵艦に体当たりしたはずの人間魚雷は、ニュージャージーに被害を与えずことはなく、大槻さんは米軍に救助され飛行機でハワイの病院に収容されたのだ。

 この病院では目の治療ができないため、このあとアメリカ本土のサンフランシスコ、ニューヨーク、ワシントンに移され、最終的にワシントンの病院で手術を受ける。右目は回復し、左目には義眼が入れられた。捕虜にもかかわらず、ここまで治療をしてくれたことに大槻さんは不思議な気持ちになった。しかも、ワシントンの病院では一月あたり3ドルの手当てが出て、たばこや飲み物が買え、病院内の楽器室のギターやバイオリンを自由に弾くことができた。

 目の傷が治ると病院から捕虜収容所に移され、尋問を受けた。大槻さんは自分のことを「宮城県の山坂登」とでたらめの名前で答えた。他の捕虜もそうだった。当時の日本軍は捕虜になることは恥であると教え、捕虜になったことが分かると、家族がいじめや村八分に合う恐れがあったのだ。収容所で数カ月が過ぎ、大槻さんらは敗戦を予感した。その通りの結果になった。そして1年半が過ぎ、収容所を釈放されロサンゼルスから船に乗ってハワイ経由で浦賀に帰ったのは1946年12月30日のことだった。

 元捕虜300人と一緒で、帰国の手続きに3日を要した。支給された300円の現金と15日間有効の無料乗車券で故郷に帰った。浦賀から電報を出したが、それが届いていなかったため、家族は腰を抜かさんばかりに驚いた。戦後かなり経って、大槻さんは戦地に向かう兵隊の様子が映るビデオを見ていた。それを一緒に見た妻は、突然声を上げて泣き出し「このようなビデオは2度と見たくない」と叫んだ。彼女にとって、戦争は心の傷として残っていたのである。

 その後、大槻さんは妻とともにハワイに行き、収容された病院も訪れた。涙で病院が当時と同じように霞んで見えた。大槻さんは「この病院からおれは生まれ変わった」と思った。「ありがとう。この病院、あの時の関係者」と書いた大槻さんは、手記を以下のように結んでいる。

「あの戦争で人間魚雷の訓練に参加した友人たちはほとんど海底に砕けた骨となっているはずです。だから私には『戦友会』はありません。戦争なんてバカげたことはしてはいけない、つくづくそう思います」

 明日は12月8日。大槻さんは2006年にこの記録集が発刊される前に84年の生涯を終えている。2度も海に投げ出されて生還したことは奇跡ともいえる。大槻さんの「戦争なんてバカげたことはしてはいけない」という言葉は重い。真珠湾奇襲で始まった太平洋戦争について、侵略ではなく自衛のための戦争だったという歴史認識を持つ安倍首相は、真珠湾で何を語るのだろう。

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 写真1、現在の真珠湾 2、真珠湾に展示されたアメリカ海軍の潜水艦ボーフィン 。1944年8月22日、沖縄からの学童疎開船「対馬丸」をボーフィン が撃沈、1476人の犠牲者が出た。アメリカが「真珠湾攻撃の復讐者」として、この潜水艦を真珠湾に展示していることからみても、真珠湾奇襲攻撃に対し、米国民の怒りの深さを感じる。

10 神様は海の向こうにいた(1)

12 神様は海の向こうにいた(2)

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