1795 前倒し夏休みなのに 梅雨寒続く7月

 梅雨寒や背中合わせの駅の椅子 村上喜代子  梅雨寒の気候が続いている。昨年の今頃は猛暑になっていたが、今夏は天候不順で肌寒い日がなかなか終わらない。私の住む千葉市の市立小中校(165校)は、例年より1週間繰り上げて夏休みになる。3連休だから、実質的にきょう13日から8月いっぱいまでの長い休みである。前倒しの理由は予算不足を補うための苦肉の策だという。  実は千葉市の小中校にはエアコンの設備がなかった。市長も市議会も校舎の老朽化対策が優先だといって、子どもたちに我慢を強いてきた。市議会ではエアコン設置を求める請願に対し、自分たちは涼しい議場にいるにもかかわらず強い精神力・忍耐力を養うためにエアコンは不要という何とも前時代的な意見で不採択にした経緯もある。だが、昨年の猛暑により文科省からエアコン設置を求める通達が出され、千葉市も渋々ながら設置を決めた。  しかし、予算の関係もあって工事がなかなか進まず、結果的に代替え手段として夏休みの前倒しを決めたのだ。だが、皮肉なことに今夏は梅雨が長引き、しかも冷夏の状況が続いていて、夏休み前倒しの意味は薄らいでしまった。一度決めた以上はそれを変更するという柔軟さは役所(教育委員会)にないから仕方がないのかもしれないが、子どもたちの長い夏休みにお母さんたちも戸惑っていることだろう。  旧暦七十二候で、いまごろは「小暑 (次候)蓮始めて開く」とされている。そういえば、私の住む街に通ずる道の脇に昔ながらの池があり、蓮の花が咲いている。千葉市の千葉公園蓮池に…

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1785 都市の風景の変化を描く 街を歩く詩人

「記者は足で稼ぐ」あるいは「足で書け」といわれます。現場に行き、当事者に話を聞き、自分の目で見たことを記事にするという、報道機関の基本です。高橋郁男さんが詩誌「コールサック」に『風信』という小詩集を連載していることは、以前このブログでも紹介しました。6月号に掲載された14回目も街を歩き、観察した事象を小詩集にまとめています。元新聞記者(朝日の天声人語筆者)の高橋さんらしい、足で稼いだ作品を読んで、私も東京の街を歩きたくなりました。  日記風に書かれた今号に出てくる街は芭蕉ゆかりの深川と隅田川。場内市場が豊洲に移転した築地場外市場、六本木の東京ミッドタウンと国立競技場近くの青山通り、そして霞ヶ関の国会議事堂です。小詩集には芭蕉と井原西鶴、関孝和(江戸時代の数学者)、ニュートン、デカルトという歴史上の著名人の考察が加えられています。この人々を考えるキーワードは「自由な探求と鋭い透視」です。  芭蕉と西鶴の特徴を高橋さんは以下のように記しています。  動の西鶴に 静の芭蕉  派手な西鶴に寂びの芭蕉  表向きは対照的な両人だが  それぞれの営為には 相通ずるところが透けて見える  それは「自由な探求と鋭い透視」  芭蕉は 人の生について 深く自由な探求と透視を続け   俳諧を 時代を超える芸術にまで至らしめた  西鶴は 建前や柵(しがらみ)から自由な生の探求と透視を続け  浮世草子を 時代を超える芸術にまで至らしめた     街を歩けば出会いがあります…

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1784 いつくしみある地の夏 里山の風景を見る

 室生犀星の詩集『抒情小曲集』のなかの「小景異情」の「ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの」(その2より)はよく知られている。同じ詩集の「合掌」にも実は心に染みるものがある。福島の里山を訪ねて、その思いを深くした。   みやこに住めど   心に繁る深き田舎の夏ぞ   日を追ひては深む   いつくしみある地の夏ぞ      (ハルキ文庫『室生犀星詩集』「合掌」その2より)    福島県矢祭町は茨城県境の南端の町だ。人口は約5600人。清流久慈川に沿って田畑が広がる。ユズやコンニャクが名産で、町名にもなった矢祭山(標高382.7メートル)は4月に桜、5月にツツジが咲き、秋には紅葉が美しい景勝地だ。すぐ下を流れる久慈川のアユ漁は6月2日に解禁になった。里山は同町金沢地区にあり、人の手が入ることがなくなり、雑木や杉が生い茂り荒れ始めていた。その里山の再生が数年前から始まっていた。「来る里の杜」(くるりのもり、全体面積約6ヘクタール)と名付けられた3つの里山の再生活動は、寄付や助成金を基に生い茂った木々を伐採し、その中に遊歩道や東屋を造成、桜をはじめとする様々な花木を植樹するもので、町内や地元のボランティアによって進められた。  2017年3月から始まった植樹は▼ソメイヨシノ▼コブシ▼ロウバイ▼エドヒガンザクラ▼カワズザクラ▼カンヒザクラ▼神代アケボノザクラ▼オモイノママ▼ヒトツバタゴ▼サルスベリ▼オオヤマレンゲ▼ヤマツツジ▼ミツバツツジ▼ヒノデキリシマツツジ▼カツ…

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1783 岡倉天心が愛した五浦 六角堂を訪ねる

「人は己を美しくして初めて、美に近づく権利が生まれる」 日本近代美術の先駆者、岡倉天心(本名、覚三、1863~1913)が、『茶の本』(岩波文庫)の中で、芸術表現について明かした一節の中にこんな言葉がある。天心は晩年、太平洋を臨む福島県境の茨城県大津町五浦(いづら、現在の北茨城市大津町五浦)に居を構え、美術史家、美術評論家として日本の美術運動をけん引した。初めて五浦に行き、天心ゆかりの風景を見ながら、冒頭の言葉の意味を考えた。  五浦は大小の入り江や断崖が続く景勝地で、現在天心の旧宅(当時の半分規模)と観瀾亭(かんらんてい、大波を見る東屋の意味)と呼ばれる六角堂が茨城大学五浦美術文化研究所によって運営されている。少し離れた場所に茨城県天心記念五浦美術館がある。このうち六角堂は天心の設計で1903(明治36)年に建てられ、茶室を兼ね備えた朱塗りの外壁と屋根が宝珠を装った六角形である。太平洋を見下ろす崖すれすれの場所にある小さな建物だ。  六角形の東屋は、中国文人庭園では岩(太湖石)を見るためのものだが、天心は大波を見るイメージで建てたといわれる。室内は茶室となっていて、日本と中国が融合したユニークな建物といえる。すぐ下が海になっていて、2011年3月11日の東日本大震災によりこの建物は津波によって流失してしまったが、翌年に茨城大や北茨城市によって復元されている。天心自身、後年に津波がここまで押し寄せるとは考えもしなかっただろう。  天心は東京開成学校(東大の前身)時代、アメリカ人教…

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1775「恐れてはならぬ」時代 改元の日に思うこと

 30年と4カ月続いた平成という元号が4月30日で終わり、5月1日から令和になった。改元の経験はこれで2回になる。私が生まれた昭和は遠くなりつつある感が深い。昭和は戦争という負のイメージとともに、戦後の経済復興という力強い歩みの側面もあった。これに対し平成は多くの国民が踊ろされてしまったバブル経済が崩壊し、以後、少子高齢化社会の進行を背景に日本社会から活力が失われ、さらに阪神大震災と東日本大震災、東京電力福島第一原発事故に代表される「災害」に国民生活が脅かされ続けた時代でもあった。  本棚を整理していて、この時代に起きたテロに関する本を読み直した。村上春樹『アンダーグラウンド』(講談社文庫)とジム・ドワイヤー、ケヴィン・フリン『9・11 生死を分けた102分』(文藝春秋・三川基好訳)の2冊である。今、世界ではテロが相次いでいる。だが、衝撃度が格段に高いのは2冊の本に描かれた事件ではないかと思う。日本では1995年3月20日の地下鉄サリン事件(死者13人、重軽症者約6300人)、海外では202年9月11日の米国の同時多発テロ(死者2996人=被害者2977人+実行犯19人、負傷者6291人以上)だ。カルト教団とイスラム過激派が私たちの想像を超えた手段によって無差別テロを起こし、多くの市民を犠牲にした2つ事件をこの時代に生きた私たちは別格的存在として記憶している。  村上はノーベル賞受賞が近いといわれる作家だが、この作品は地下鉄サリン事件被害者へのインタビューを集めたノンフィクションだ。村…

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1773 憎しみの連鎖 スリランカ大統領と鎌倉大仏

 スリランカ(かつてのセイロン)最大の都市、コロンボで同時多発テロがあり、22午後7時現在日本人を含む290人が死亡し、450人以上が負傷した。スリランカといえば、日本の戦後史に残る政治家がいた。鎌倉大仏殿高徳院境内に「人はただ愛によってのみ憎しみを越えられる。人は憎しみによっては憎しみを越えられない」(英語: Hatred ceases not by hatred, But by love)という顕彰碑がある、ジュニウス・リチャード・ジャヤワルダナ(1906年9月17日~1996年11月1日)である。多くの犠牲者を出した同時多発テロ。憎しみの連鎖は、依然この世界を覆っている。  当時セイロンの蔵相だったジャヤワルダナはセイロン代表として1951年9月6日のサンフランシスコ講和会議に出席、前述の演説をして、日本に対する戦時賠償請求を放棄することを表明した。その後首相を務め、セイロンはスリランカとして国名を替え、再出発した。初代大統領は女性のシリマボ・バンダラナイケで、ジャヤワルダナが第2代大統領になった。親日家として知られ、何度も来日し、1996年に90歳で死去した際、「右目はスリランカ人に、左目は日本人に」という遺言通り、片方の目は群馬県の女性に移植された。  鎌倉大仏境内の顕彰碑の裏には、建立の由来が概略以下のように記されている。  この石碑は対日講和会議で日本と日本国民に対する深い理解と慈悲心に基づく愛情を示されたスリランカ民主社会主義共和国のジュニアス・リチャード・ジャヤ…

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1772 大聖堂火災で歴史遺産を考える 世界の人の目は

 パリの世界遺産、ノートルダム大聖堂(寺院)で火災が発生、尖塔が崩壊するなど、大きなダメージを受けた。フランス各界や海外からこれまでに1000億円を超える寄付の申し出があり、フランスのマクロン大統領は、5年で再建を目指すと語った。大聖堂がパリのシンボルだったからこれほど大きな話題を集め、人類の歴史の中で作り上げられた文化遺産がいかに貴重であるかを考える機会にもなった。  キリスト教については門外漢であり、大聖堂についての知識はほとんどない。以前、イギリスの作家、ケン・フォレットの長編小説『大聖堂』(前編と後編で全6冊)を読んだり、旅行でノートルダム大聖堂を含む著名な大聖堂を見たりして、キリスト教関係者にとって大聖堂はかけがいのない存在だと、少しだけ理解したつもりだが……。  ノートルダムは、フランス語で「われらの貴婦人(聖母マリアのこと)」という意味だそうで、この名前の大聖堂は各地にあり、大学も何校か存在する。手元の西洋建築史の本を見ると、フランスのパリやランス、アミアン、ランのノートルダム大聖堂は12世紀後半から15世紀まで続いたフランス発祥のゴシック建築様式の理想形だという。マクロン大統領はパリの大聖堂を5年で再建すると言明した。しかし5年といえば突貫工事である。そうした理想の様式を短時間で再現できるのだろうかと、疑問に思う。  今回は火事による被災だったが、これまでに多くの文化遺産が戦争によって危機にさらされた。ユーゴ内戦によって赤い屋根が並ぶクロアチア・ドブロブニク旧市街…

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1770 新札デザイン・2千円・守礼の門は 司馬遼太郎の沖縄への思い

 2024年度から紙幣(1万円、5千円、千円)のデザインが変更になると政府が発表した。唯一、2千円は変わらない。普段、私はお札のデザインを気にしていないが、かつて1万円については「聖徳太子」という別称があったことを記憶している。表紙の聖徳太子がそれだけなじんでいたのだ。現在の1万円の顔は福沢諭吉であり、今度は渋沢栄一になるという。「しぶさわ」が1万円札の象徴として扱われる時代、日本はどんな歩みを続けるのだろう。  紙幣デザインの変更を聞いて、影が薄いとだれしも思うのは2千円札のことだろう。最近ほとんど見かけないし、1万円や5千円の買い物をして、そのおつりでもらうこともない。表は首里城の「守礼の門」で、裏は源氏物語絵巻のデザインだ。2000年に開かれた沖縄サミットを記念して発行されたが、中途半端な額のためか利用度は低く、既に製造は中止になっている。現在は発行された分だけが流通しており、ほぼ9割が沖縄県で使われているそうだ。それだけに今回のデザイン変更で使用停止になる可能性もあったが、何とか生き残った。 「戦前、首里の旧王城(注・かつての国宝)がいかに美しかったかについては、私はまったく知らない。(中略)いまは、想像するしかない。(中略)私の想像の中の首里は、石垣と石畳の町で、それを、一つの樹で森のような茂みをなす巨樹のむれが、空からおおっている」  これは、作家の司馬遼太郎が『街道をゆく6 沖縄・先島への道』(朝日文庫)というエッセー集の中で、首里について記したものだ。『街道をゆく…

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1749 本土作家が描いた苦闘する沖縄の姿 真藤順丈『宝島』を読む

 沖縄には「ナンクルナイサ」(どうにかなる、何とかなるから大丈夫)という言葉がある。だが、この本を読んで、言葉の響きは軽くてもその意味は重いのではないかと考えた。それほどに本土に住む私でも胸が苦しくなるほど、沖縄は米軍と日本政府に苦しめられたことが理解できるからだ。それに抗った若者を描いたのが直木賞を受賞したこの作品である。賞の選考委員は「明るい内容」と評した。そうだろうかと思う。この本は4人の男女を軸にした1952年から1972(本土復帰)年までの沖縄の苦闘の物語である。  戦後の沖縄・コザ(現在の沖縄市)に3人の少年(オンちゃんと弟のレイ、オンちゃんの親友グスク)と1人の少女(オンちゃんの恋人ヤマコ)がいた。沖縄戦を生き延びた4人は幼なじみであり、少年たちは米軍基地に忍び込んで物資を盗み出し、それをコザに住む貧しい人たちに配っている「戦果アギヤー」(戦果をあげる者)だ。ある時、少年3人は嘉手納基地に多くのアギヤーとともに入り込むが、米軍に見つかり大多数の者が逮捕される。リーダーのオンちゃんはこの事件をきっかけに姿を消し、レイとグスクは刑務所で服役する。時を経てレイはやくざにグスクは沖縄県警の刑事にと正反対の道を歩み、ヤマコは教員となって沖縄返還闘争に力を入れる。  沖縄は米軍の犯罪が横行する。そんな中で、ヤマコによって言葉を回復したウタという、この物語のもう一人の中心人物になる男の子が出てくる。レイは、反米強硬派による米軍高等弁務官暗殺未遂事件後、姿を消す。そして10年。作品のヤマ…

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1748「崎山公園」雑感 続・坂の街首里にて(7)完

 坂の街首里から約3週間ぶりに平坦な千葉に戻ってきた。首里の街は急な上り下りが多く、しかも雨の日は石畳が滑りやすく、歩くことにかなり気を使った。体も疲れやすかった。そんな日々を過ごし、わが家周辺を歩くと、妙に足が軽い。スポーツジムで鍛える必要がないほど、首里での生活は筋力トレーニングになったようだ。  日本には美しい坂が各地にある。首里以外では、北から並べると函館の八幡坂、平泉・中尊寺の月見坂、鎌倉の化粧坂切通し、熱海海光町の石畳の坂、京都の三年坂、神戸の北野坂、尾道の千光寺新道、長崎のオランダ坂、平戸の寺院と教会の見える坂道、――などである。これらの坂道と比べも首里(金城町の石畳)は引けをとらない。そこに住む人たちの暮らしは楽ではない。その一方で、高台ゆえの眺望には魅力がある。滞在していたマンションのベランダに出ると、首里の街が一望できた。白いビルの美しい風景広がり、後方に青い海も見える。かすかに慶良間諸島の島影もある。  首里城にも那覇の全景を見ることができる場所(西のアザナ)があり、そこは多くの外国人でにぎわっていた。首里城から徒歩6、7分の所にある「崎山公園」は人影も少なく、私の憩いの場所でもあった。私は那覇滞在中、ほぼ毎日この公園の展望台から那覇の街を眺めた。朝、公園に足を向けると、近所のおばさんがごみを集めていて、公園はきれいになっている。おばさんとは昨年4、5月に那覇に滞在した際に知り合いになっていたから、朝の挨拶を交わす。すると、彼女は「ラジオ体操をやりませんか」と私を…

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1746「魅力に満ちた伝統建築と風景のものがたり」続・坂の街首里にて(6)

 沖縄在住20年になる友人が、沖縄の建築物と風景を紹介するコラムを書き続けている。過日、その友人に会い懇談した。沖縄の魅力に惹かれて夫とともに本島中部の本部町に移住した友人はすっかり沖縄の人になっていた。  友人は馬渕和香さんといい、翻訳家の夫とともに23年前、埼玉県浦和市(現在のさいたま市)から奄美大島に移り住んだ。3年後、奄美大島から本部町のちゅら海水族館近くにある古民家に移り、20年になる。和香さんは沖縄の伝統建築に興味を持ち、既に朝日新聞デジタルに「沖縄建築パラダイス」という30回の連載コラムを書いている。  現在は「タイムス住宅新聞(沖縄タイムスの副読紙)ウェブマガジン」に「オキナワワンダーランド」というコラムを2016年4月から月1回のペースで連載、この1月で33回を数えた。コラムの説明には「沖縄の豊かな創造性の土壌から生まれた魔法のような魅力に満ちた建築と風景のものがたりを、馬渕和香さんが紹介します。」とあり、連載されたコラムの取材地は沖縄本島各地に及んでいる。「世界一小さくてやさしい美術館」(糸満市・6回目)や「石の家に息づく70年前の美術村」(那覇市・17回目)、「生まれ変わった戦前の泡盛屋」(名護市・32回目)等、沖縄に住んでいる人でも気が付かない魅力的な建物や風景、空間を分かりやすい記事と美しい写真で紹介している。  もちろん、自宅周辺の本部も登場する。13回目には陶芸家和田伸政さんの工房を紹介した「陶芸の楽しさ 沖縄でふたたび」を、24回目にはベネズエラ生…

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1745「美しく花開くためには」 続・坂の街首里にて(5)

「むせび哭く み魂の散りしか この丘に かすかにひびく 遠き海鳴り」――悲しみを歌ったこの短歌があるのは、沖縄県糸満市摩文仁の平和祈念公園だ。この公園にはこれまで何度か足を運んだ。しかし、高台にある各都道府県の碑には初めて行った。そこは私たち以外には人影はなかった。遥か遠くに神が宿る島といわれる久高島が見えた。  平和祈念公園には、シニアボランティアが担当する1人100円の電動カートがある。説明を聞きながら、園内を回った後、再び高台まで歩いた。そこで「福島の塔」にある冒頭の歌を見た。私の父はフィリピンで戦死し、遺骨は戻っていない。「福島の塔」には「われわれ福島県民は 第2次世界大戦後21年にあたり 祖国の繁栄と平和を祈って 大戦時海外において祖国に殉じた本県出身者6万6千余柱の英霊につつしんでこの塔を捧げます」と記されていた。私はこの塔に合掌しながら、フィリピンに眠る父を思った。  さらに歩を進める。「島根の塔」と「ひろしまの塔」の碑には短い言葉が記されていた。 「島根」  美しく花開くためには  そのかくれた根のたえまない  営みがあるように  私達の  平和で心静かな日々には  この地に散ったあなた達  の深い悲しみと苦しみが  そのいしずえになっている  ことを思い、ここに深い  祈りを捧げます 「広島」  海を渡り また 海を渡り  郷土はるかに 戦って還らず  沖縄に散り 南方に散る  護国の英霊3万4千6百余柱  ここに とこしえに 鎮…

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1744 辺戸岬の「復帰闘争碑」 続・坂の街首里にて(4)

 沖縄本島最北端の辺戸岬に行った。首里から車で約2時間半。断崖の下に広がる冬の海は白波を立て、以前見たような既視感を抱いた。そうだ。ユーラシア大陸最西端のポルトガルのロカ岬と印象が似ているのだ。ロカ岬にはポルトガルの国民詩人といわれるルイス・デ・カモンイスの詩の一節「「ここに地終わり海始まる」が刻まれた十字架の石碑が建っていた。一方、辺戸岬には「祖国復帰闘争碑」と社会派の俳人、沢木欣一の句碑の2つが建っていた。「全国の そして世界の友人へ贈る」という書き出しの前者の碑を読みながら、沖縄の現状はこの碑が建った1976年当時と変わっていないことを実感した。  辺戸岬は2016年9月15日 に国立公園に指定された「やんばる国立公園」内にあり、沖縄本島の最北端の地だ。はるか遠くに鹿児島県最南端の与論島が浮かんでいる。2つの碑を読んだ。「祖国復帰闘争碑」は長い文章だが、以下に全文を紹介する。  全国の そして世界の友人へ贈る  吹き渡る風の音に 耳を傾けよ  権力に抗し 復帰をなしとげた 大衆の乾杯の声だ  打ち寄せる 波濤の響きを聞け  戦争を拒み 平和と人間解放を闘う大衆の雄叫びだ  鉄の暴風やみ 平和の訪れを信じた沖縄県民は  米軍占領に引き続き1952年4月28日  サンフランシスコ「平和」条約第3条により  屈辱的な米国支配の鉄鎖に繋がれた  米国支配は傲慢で 県民の自由と人権を蹂躙した  祖国日本は海の彼方に遠く 沖縄県民の声はむなしく消えた  われわれの闘いは…

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1743 琉球王朝の初春儀式を見る 続・坂の街首里にて(3)

 新年を首里で迎えた。すぐ近くの首里城では約450年続いた琉球王朝時代に行われていた正月の儀式が公開された。初もうでは首里城周辺の3つの寺を回った。私の干支・酉年にちなむ寺で引いたおみくじは大吉だった。さて、今年の世相はどうなるのだろう。沖縄の2つの新聞の社説は「[辺野古 重大局面に]国会で説明責任果たせ」(沖縄タイムス)、「新年を迎えて 日本の民主主義は本物か」(琉球新報)――という見出しで、米軍普天間飛行場の辺野古移設に伴う新基地建設を政府が強行している問題に触れていた。    琉球・沖縄の歴史をみると、12世紀ごろから各地に出現した按司(あじ)と呼ばれる豪族が抗争と和解を繰り返していたが、1429年に尚巴志(しょうはし)がこれら主要な按司を統合、琉球王国が成立し、独自の海洋国家として発展した。首里城はその政治、経済、文化の中心だった。だが、1609年、薩摩藩によって侵略され、以降琉球は薩摩藩の従属国になった。さらに明治維新後、武力を背景にした明治政府によって「琉球国の廃止と琉球藩(1872年)の設置」、「琉球藩の廃止と沖縄県設置(1879年)」という琉球処分政策が実施され、琉球王朝は完全に滅び、沖縄は日本の一県になった。  琉球新報は「ことしは1879年の琉球併合(琉球処分)から140年になる。沖縄を従属の対象として扱う政府の姿勢は今も変わっていない」と日本政府を批判。さらに「辺野古での新基地建設の強行は、日本から切り離された1952年のサンフランシスコ講和条約発効、県民の意に反し…

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1742 沖縄の正史と 稗史 続・首里の坂道にて(2)

 歴史には正史と 稗史(はいし)・外史がある。正史は権力を持った側が自分の都合のいいように書いたといっていい。権力側=正義、反権力側=悪――という構図である。その構図が真実かどうかは分からない。普天間基地移転と名護市辺野古への新基地建設問題は、後世の人にはどのように受け止められるのだろう。  世界遺産に指定されている座喜味城(ざきみぐすく・沖縄県中頭郡読谷村)跡に行き、琉球正史の「護佐丸・阿麻和利の乱」を考えた。この城は、沖縄の歴史上、築城の名人といわれた護佐丸 盛春(生年不詳 - 1458年)によって造られた城で、東シナ海を望む標高120メートルの、国頭マージといわれる赤土の軟弱地盤に建っていた。  1458年、尚泰久王治世下の琉球王国で内乱が発生した。王位に就こうという野心を持った勝連城(現在のうるま市)の按司(あじ=首長)阿麻和利が、尚王の忠臣といわれた中城城の按司・護佐丸を「戦の準備をしている、これは尚王への謀反だ」と讒言(ざんげん・他人を陥れようと、事実を曲げた告げ口をすること)、これを信じた尚王は阿麻和利に護佐丸追討を指示、阿麻和利の軍勢は護佐丸の拠点、中城城に押し寄せる。護佐丸は琉球の制覇の野望を持つ阿麻和利を監視し、いつでも対抗できるよう訓練を続けていたといわれる。  敵の阿麻和利軍に「王府の旗」を見た護佐丸は、王府に矢を向けることはできないと長男、次男とともに自害した。忠臣たるゆえんの悲劇だった。乳飲み子だった3男だけは乳母の手で脱出し、国吉比屋(くによしぬひや…

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1741 歳末雑感 続・坂の街首里にて(1)

 那覇の首里にいる。最高気温16度と寒く、風も強い年末だ。そんな中、居酒屋のオープンテラスで、夕食のひと時を送った。沖縄の人たちも寒そうにしながら道を歩いている。テレビでは、北海道や日本海側の地方の雪の景色を映し出している。  年末年始を自宅から離れて過ごすのは、かなり久しぶりだ。年中無休のメディアに勤務していたから、いつでも呼び出しに応じることができる態勢をとっていた。それだけ、頭の中では緊張状態を保っていたのだろうか。羽田空港で、元同僚と偶然に会った。奥さんの実家の福岡に行くところだった。腰の骨を折る大けがを克服した元同僚は杖に頼って歩いていた。彼の完全治癒を願って別れた。  首里城周辺を散歩していると、外国人が目立つ。欧米系の人よりも中国や台湾の人と思われる人たちが圧倒的である。日本列島の中で、沖縄は四季を通じて温暖という印象があるから、このところの寒さに観光客も驚いているかもしれない。いずれにしろ、まぶしい陽光が待ち遠しい。  首里の街を歩きながら、ことし1年を振り返った。昨年に続き政治の動きに憤りを感じた1年だった。政治家というよりも政治屋という人種が多い国会に半ば絶望しながら、ニュースを見続けた。働き方改革法案、統合型リゾート実施法(いわゆるカジノ法案)、外国人人材の大幅受け入れを認める出入国管理法改正案など重要法案は、いずれも強行採決で成立した。年末の国際捕鯨委員会(IWC)脱退という時代錯誤の政策にも驚いた。政治にもはや希望を持つことはできないのだろうか。それでも…

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1725 けやきの遊歩道無残 紅葉奪った塩害

 街路樹のけやきの葉の色がことしはおかしい。例年なら赤や黄、茶の3色に紅葉して美しい秋を演出するのだが、ことしに限って美しさが失われてしまった。よく観察してみるとほとんどの葉が褐色(こげ茶色)になっている。文字通り枯れ葉といった印象なのだ。その原因は台風による塩害だと思われる。この街に住んで30年以上になるが、初めての現象に出会った。  私が住む千葉市はことし9月30日夜、台風24号が通過した。この台風は9月21日にマリアナ諸島で発生したあと、海面水温の高い所を進んだことから猛烈な勢力に発達した。29日には沖縄付近を「非常に強い」勢力で通過し、その後は北東へ進んだ。30日午後8時ごろに非常に強い勢力を保ったまま、和歌山県田辺市付近に上陸、その後近畿から中部、関東、東北を縦断し、北海道東部の沖合へと進み、10月1日に温帯低気圧に変わった。非常に強い勢力で台風が上陸したのは、21号(9月4日、徳島県南部に上陸し近畿地方を中心に大きな被害を出した)に続いて2個目。非常に強い勢力の台風が1年に2個上陸するのは、統計を取り始めてから初めてだったという。  沖縄から東北にかけて広く記録的な暴風となり、関東でも八王子で最大瞬間風速45.6メートルを観測し、全国で大規模停電があり、首都圏では倒木などで鉄道の運転見合わせが相次いでことは記憶に新しい。沿岸部ではこの強風に乗って多量の海塩粒子が運ばれ、ケヤキの葉もやられてしまったようだ。台風が過ぎたあと車を洗っている人が多かった。車も風で飛んできた海塩粒子…

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1702 繰り返す自然災害 想定外からブラックアウトへ

「予(われ)、ものの心を知れりしより、四十(よそじ)あまりの春秋(しゅんしう)をおくれる間に、世の不思議を見ること、ややたびたびなりぬ(「私は物事の分別がつくようになったころから、40余年の歳月を送ってきた。その間に常識ではあり得ないような、さまざまなことを見ることが度々あった」  6日、最大震度7という大地震が北海道(胆振東部地震)で発生した。被災された北海道の皆様にお見舞い申し上げます。メールなどで連絡がとれた札幌市内の知り合い数人によると、7日昼現在、電気は復旧していないという。知人の1人は「長い間生きてきて、このようなことは初めてだ」とメールに書いてきた。新千歳空港が閉鎖になり、ホテルも取れなかった人たちも少なくなかった。7年前の3月11日、東北のおびただしい人々が犠牲になった。東京の勤務先にいた私は帰宅難民になった。あれからも、大きな災害がやむことがない。  冒頭の言葉は20代~30代前半にかけて大火災、竜巻、飢饉、大地震という自然災害と人災を経験した鴨長明(平安時代末期~鎌倉時代)が自分の生涯を振り返って記した『方丈記』に出てくる。時代は移り、長明が生きた時代とは比べようがないほど科学技術が大きく進歩し、生活は便利になった。だが、自然災害は当時と変わらず私たちに襲い掛かる。2004年もそうだったが、ことしの日本列島は次々に押し寄せる自然の脅威(4月島根県西部地震、6月大阪府北部地震、7月西日本豪雨、7~8月相次ぐ台風被害、6~8月全国的猛暑、9月台風21号で関西国際空港の滑…

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1678 絶望的状況の中でも タイの少年たちへ

 タイ北部チェンライ郊外のタムルアンという洞窟でサッカーチームの少年12人とコーチ1人の計13人が不明になって2日で9日となる。昼夜を徹しても救助活動が続いているが、大量にたまった濁水で作業は難航しているという。このニュースを見て、2010年にチリで起きた鉱山の落盤事故を思い浮かべた。それは絶望的状況に置かれても、人間の強い生命力を示すものだった。  チリ北部のコピアポ近郊のサンホセ鉱山事故は、次のような経過をたどった。2010年8月5日、地下634メートルの坑道が、坑道入り口から5キロの地点で崩落、33人の男性鉱山作業員が閉じ込められた。救助作業の結果、18日目に作業員らの生存が確認され、69日後の10月13日に全員が救出された。それは奇跡のような救出劇だった。  この間、地下現場では現場監督をリーダーとして統制のとれた生活を続けた。限られた食料は配給制にして、落盤事故の再発に備えて交代で見張りを立て、約50平米を寝る場所、食事をする場所など3つの生活空間に仕切っていたという。9月7日に行われたサッカーの国際親善試合チリ対ウクライナ戦を、ファイバースコープを使った映像システムで33人に見せるという心のケアもあった。  タイの少年たちがどのような経緯で洞窟に入ったのかは分からない。新聞報道によると、少年たちは6月23日午後、洞窟に入ったが、大雨で水があふれてしまい、外に出ることができなくなったようだ。洞窟入り口から約5キロの空洞付近に避難している可能性があるという。タイの軍、…

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1667 「ここに地終わり海始まる」 心揺さぶられる言葉

「ここに地終わり海始まる」ポルトガルの国民詩人ルイス・デ・カモンイス(1525?-1580)の詩の一節だ。リスボンの西シントラ地方のロカ岬はユーラシア大陸の西の果てといわれ、140メートルの断崖の上に十字架がある石碑が建っている。そこにはこの言葉が刻まれている。混沌とした時代。なぜかこの言葉が心を打つ。  作家の宮本輝は、同名の小説を新聞で連載し、1991年10月、単行本(講談社)として出版した。その本のあとがきでこの言葉に触れている。「ポルトガルのロカ岬はヨーロッパ最西端の地なのですが、そこに〈ここに地終わり 海始まる〉という碑文が刻まれていて、私はこの文章になぜか烈しく心を揺すられました。どうしてなのか、私にはよくわかりません。ですが、私はこの言葉をそのまま小説の題にさせていただき、地方新聞十数社で210回にわたって連載しました」  宮本輝が「烈しく心を揺すられた」という言葉。たった一行とはいえ、私は雄大な自然のスケールと人間の歴史を思い描く。ユーラシア大陸はアジアとヨーロッパを合わせた大陸であり、地球の陸地面積の40・4%に及ぶ巨大な地域である。その「最西端」がロカ岬(「最北端」はロシア・チェリュスキン岬、「最東端」は同・デジニョフ岬、「最南端」はマレーシア・ピアイ岬)である。  カモンイスはポルトガルの発展のために尽くした人々の業績を描いた叙事詩「ウズ・ルジアダス ルーススの民のうた」(池上岑夫訳・白水社)を書いた。この言葉はその中の一節だ。ポルトガルとスペインは15世紀…

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1665「人よ嗤え 我は我 」 ゴンゴラの詩に共感

 最近の世相を見ていると、スペインの詩人、ルイス・デ・ゴンゴラ(1561~1627)の詩を思い浮かべる。それは「人よ嗤え(わらえ) 我は我」で始まる短い詩だ。束の間、この詩を読み、浮世を忘れる。それほどに、いやなニュースが新聞紙面に載っている日々なのだ。  ゴンゴラはスペイン南部アンダルシア地方コルドバの名家に生まれ、聖職に就いた。だが、教会の仕事よりも詩作と世俗の生活を楽しんだ。初期の詩は音楽性と機知に富んだ分かりやすい作品が多かった。一方、後期になると難解な詩が多いことから評価されない時期が長く続き「光の詩人から闇(やみ)の詩人に転じた」と評された。20世紀になって再評価されたのだが、「人よ嗤え 我は我」の詩は前期の作品だ。   人よ嗤え    我は我  地上はいずこの国々も  政治の話に沸くがいい  わが毎日は軟かな    パンに焼き菓子  冬の朝ならリキュールと  蜜柑の砂糖煮  これある限り事もなし   人よ嗤え我は我                       (『筑摩世界文学大系・荒井正道訳』より)  この詩は古代メソポタミア時代の「ギルガメシュ叙事詩」からノーベル文学賞を受賞したアメリカの歌手、ボブ・ディランまで4000千年の詩の歴史を描いた高橋郁男著『詩のオデュッセイア』(コールサック社)の中にも紹介され、高橋さんは「日々のささやかな営みを慈しむ視線と洒脱な一面とがうかがえる」と評している。「これある限り事もなし」はイギリスの詩人ロバ…

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1661 坂の街首里にて(10)完 沖縄の心・芭蕉布

  沖縄を歌った曲で「芭蕉布」(吉川安一作詞、普久原恒男作曲)は、詩の美しさ、曲のさわやかさで知られている。私も好きな歌の一つである。自宅に帰った後、首里の坂道、階段、石畳を思い出しながら、この曲をあらためて聞いた。夜、BS放送にチャンネルを合わすと、偶然だろうが、芭蕉布の織り方の特集をやっていた。  芭蕉布は、糸芭蕉という沖縄に多い植物の繊維で織った沖縄・奄美特産の布地である。茶褐色をしていて張りがあるため、さらっとしているのが特徴だ。夏の着物、座布団、蚊帳、ネクタイなどに使われる。これで作ったかりゆしウェアは高級品だという。芭蕉布の歌は1965年に発表され、海と空の青さに象徴される自然の豊かさや特産の芭蕉布の歴史を織り込み、沖縄の人々の心象風景を描いた名曲だ。かつて琉球王朝時代、庶民はこの繊維を紡ぎ、はたを織って王朝に上納したことが歌詞にもある。さわやかさの半面、このような庶民の苦難の歴史も込められた哀調を帯びた歌なのだ。  首里周辺でも、かつて糸芭蕉は珍しいものではなかったようだ。実際に滞在先の近所の庭先でバナナの木に似ている糸芭蕉を見かけたが、沖縄全体でこの植物を栽培しているところは激減しているという。戦後沖縄を占領した米軍が、マラリア蚊の発生源になるという理由で糸芭蕉畑を伐採、焼き払ったことが背景にあるといわれる。沖縄県国頭郡大宜味村喜如嘉の芭蕉布は国の重要無形文化財に指定されている。ここの糸芭蕉畑も米軍によって焼き払われたが、地元の人たちの努力で少しずつ復活した。芭蕉畑と蚊…

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1660 旅行記を読む楽しみ 知人の四川高地行

 旅行記といえば、どんな本を思い浮かべるだろう。イザベラ・バード『日本紀行』(あるいは『日本奥地紀行』)、沢木耕太郎『深夜特急』、司馬遼太郎『街道を行く』、ジュール・ヴェルヌ『80日間世界一周』(小説)あたりか。最近、中国・四川省を旅した知人から、旅行記が送られてきた。知人らしく中国の現状分析もあって、格調ある記録だ。コーヒーを飲みながら旅行記を読み、知人の歩いた中国を想像した。  私は以前、中国の世界遺産、四川省の青い水で知られる九寨溝に行く計画を立てたことがある。2005年のことだ。だが、2001年に首相になった小泉純一郎氏が靖国神社を参拝して以降、日中関係が冷え込み、2005年になって反日活動家が破壊行為を行うなど、中国各地で反日を掲げた暴動が頻発したことで計画を取りやめた。(この以前にも旅行を計画し、費用を払い込んだあと、仕事の都合で行けなくなったこともあった)中国ヘはこの後、2008年、2012年、2016年の3回行っているが、大地震(2008年5月12日)が起きたこともあって、四川方面に行くことはあきらめた。  知人は今回、友人とふたりで総勢14人のツアーに参加し、四川省の5つの世界遺産のうち九寨溝を除く4つ(峨眉山と楽山大仏、臥龍中華大熊猫基地=パンダ研究の地区、黄龍、都江堰)を1週間の日程で回ったという。いずれ3000メートルを超える高地にあり、酒は厳禁(ペルーの高地で酒を飲み苦しんだ体験は忘れられない)だ。山に慣れた知人だから惹かれたコースであり、私には無理としか思…

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1659 坂の街首里にて(9) 土地の香がする琉球泡盛

 沖縄の酒といえば琉球泡盛といっていい。ふだんこの酒とは縁がない。だが、首里に滞在している間、琉球泡盛を飲んだ。焼酎と共通する個性を感じ、これまでほとんど口にしなかったこの酒に親しんだ。振り返ると、郷に入っては郷に従えということを、酒で実践した日々だった。  滞在していた首里の家のすぐ近所に、「瑞泉酒造」という1887(明治20)年創業の琉球泡盛の老舗があった。この酒蔵を見学し、試飲をした。1本買ってオンザロックで飲んでみたら、なかなか飲みやすい。焼酎の原料は米、芋、麦(ソバも使われるが、全体では少ない)だが、琉球泡盛は米である。双方とも蒸留酒である。泡盛はインディカ種と呼ばれる細長い粒をした硬質のタイ米が使われているのが特徴だ。注意して見ると、各メーカーのラベルには「原材料:米こうじ(タイ産米)」とある。  泡盛は日本最古の蒸留酒で、15世紀に当時のシャム(現在のタイ)から伝わったといわれる。そのために、原料としてタイ産米を使うという伝統があるのだろう。沖縄の人々は男女を問わず泡盛の愛好者が多く、沖縄には50近い蔵元がある。このうち瑞泉は首里の銘酒といわれ、首里城瑞泉門付近の豊富な湧水が名前の由来だ。この酒蔵の前の歩道は石畳が敷かれ、風情のある通りになっている。  近世日本史に登場する米国のペリーは、5回琉球にやってきている。日本に開国を迫ったペリーが、交渉の拠点に琉球を選んだからだ。1853年の晩餐会の際には泡盛を飲んで「豊潤でまろやかだ」と絶賛したという記録がある一方、その…

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1658 坂の街首里にて(8) タイル画の道

 首里は石段と坂の街であり、石畳の通りもある。滞在した住宅も丘の途中にあって、坂を上り下りして日常生活を営んでいる。首里の街を下って行き、那覇のメーンストリートともいえる国際通りにたどり着く。ここまで来ると、平たんな道が続いている。ここから少し歩いたところに、タイル画の通りがあった。色とりどりのタイル画を埋め込んである焼き物の街だった。  壺屋やむちん通りである。やむちんというのは焼き物のことだが、ここは壺屋焼といわれる陶芸の工房が集まっている、那覇の戦後復興の礎になった地区だという。琉球王国時代の1682年から生活雑器を生産し続けてきたこの地区は、1944年10月10日の米軍による大空襲で壊滅した。そして、戦後。ニシムイの美術家同様に壺屋焼復活のために、動いた陶工たちがいた。現在の興隆はこの陶工たちの汗と涙の賜なのだという。  壺屋焼復活の経過については、与那原恵『首里城への坂道』(中公文庫)に詳しく書いてある。那覇の住民は戦争が終わっても収容所生活を強いられた。壊滅した壺屋の陶工たちは、米軍の命令で収容所の中の小さな窯で生活雑器の生産を始める。しかし収容所での焼物の生産は細々としていて、米軍の需要にこたえることはできない。  そこで、陶工の城間康昌らが「壺屋に帰ればひと月で立派なものをつくることができる」と米軍を説得、1945年11月、103人の陶器製造先遣隊が壺屋に戻り、陶器生産を再開した。さらに1946年1月、陶工たちの家族も壺屋に戻り、この年の暮れには8000人の住民も…

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1657 坂の街首里にて(7)天空の城

「天空の城」といえば、国内では兵庫県の竹田城(朝来市)、海外ではペルーのマチュピチュが有名だ。あまり知られていないが、沖縄の世界遺産の中で最古といわれる、うるま市の「勝連城(かつれんぐすく)跡」も、天空の城のイメージがあり、私は大好きだ。今度の沖縄滞在でも無理に家族を誘い、この城跡に登った。世界遺産とはいえ、沖縄のツアーコースに含まれることはあまりないようで、私たち以外に人影は少なかった。  この城の標高は約100メートルで、首里城(120~130メートル)よりも低い。だが、山を利用して造った天険の要害といわれるだけに、急こう配の道を登り、かつて城があった頂上に行き着くと、360度のパノラマが広がる。東のうるま市側には金武部湾、南の沖縄市側には中城湾があり、どこを見ても息をのむ美しさである。  この城が滅びたのは1458年のことだ。室町幕府8代将軍足利義政の時代(長禄2年)である。勝連城主は風雲児といわれた10代按司(あじ=首長)阿麻和利(あまわり)だった。この人物の伝承は諸説あり、そのうちの一つには嘉手納町の北谷間切屋良で生まれたとある。体が弱いため山に捨てられたが、生き延び知恵と力をつけ、勝連に流れ着いた。村人に魚網をつくってやったりして慕われるようになり、さらに勝連城主の茂知附按司に取り立てられた。しかし、阿麻和利は計略を使って按司の座を奪ってしまう。  この後、琉球王朝の歴史に残る「護佐丸(ごさまる)・阿麻和利の乱」を起こすのだ。当時、琉球王朝は第一尚氏の王、尚泰久の治世…

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1655 坂の街首里にて(5)伝統のハーリーを見る

 滞在している首里から泊の港が見える。大型観光船が入っているのも目視できる。以前、この港から阿嘉島行きの高速船に乗ったことがある。ここは離島への船が出る港だ。同時に毎年、連休中には伝統の「ハーリー」があり、多くの見物客を集める。子どもの日、私も混雑するハーリー会場に行った。この行事に参加した家族の一人を応援するためだった。  これまでハーリーとは全く縁がなかった。中国から伝わった、海の安全を祈るお祭りという程度の認識しかない。何しろ、人込みは好きでないからお祭り騒ぎは敬遠していた。しかし、今回は違う。転勤で那覇に住んだ家族の一人が、この街の人たちに早く溶け込みたいのと、小学生の娘が喜ぶだろうという理由で参加したため、その応援を兼ねて泊に出かけたのだ。  地元の新聞にはハーリーの記事と写真が載っている。しかし、その歴史は沖縄の人なら常識のようで、記事にはない。共同通信の配信記事は以下の通りだ。 「船をこぎ、速さを競い合うことで豊漁や航海の安全を祈願する沖縄の伝統行事『那覇ハーリー』が5日、那覇市の那覇港で開かれた。青色や黒地の衣装を身にまとった男たちが櫂を勇壮にさばく姿に、観客は声援を送った。この日のメインイベントは、地元3地区対抗の「本バーリー」。竜を模した全長14.5メートルの色鮮やかな「爬竜船」に42人ずつが乗り込み、往復約600メートルを競った。こぎ手は各船とも32人。船首にいる人が打ち鳴らす鐘の音に合わせ、勢いよく水をかいた。ハーリーは約600年前に中国から伝わり、一時途…

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1654 坂の街首里にて(4)「全身詩人」吉増剛造展を見る

 吉増剛造は「全身詩人」と呼ばれている。変わった呼び方だが、沖縄県立博物館・美術館で開催中の「涯(ハ)テノ詩聲(ウタゴエ) 詩人吉増剛造展」を見て、合点がいった。言葉としての詩だけでなく、写真や映像、造形まで活動範囲は広く、沖縄にも接点があるという。 「毎年のように初夏、今年は盛夏に、沖縄を訪ねるようになって、ラジオからながれてくる沖縄の深い歌声を聞くことに、乾いた耳を、鼓膜を、すこし濡らすようにしている。それでも、その鼓膜の渇きにも微妙な変化があって、八重山の古謡に耳をすまそうとしているその耳の奥で次にくる歌声をさがしているらしい」(『螺旋歌』「キングランドリーの御主人渡久地さんが、……」より)  このように活字化された詩のほかに、活字化される前に様々な土地での体験や考えを書き入れた原文集も展示され、詩人の苦闘の跡がうかがえる。吉増はフィルムカメラでフィルムを1本撮影した後、それを巻き戻して再びカメラに入れて撮影を繰り返すという多重露光写真の手法で日本や世界を回った。その結果、異なる場所が一枚の写真となり、不思議な空間が生み出されたことでも知られる。那覇、普天間、コザなど沖縄各地で撮影したものに、他の地域の光景を重ね合わせた写真も展示されている。  新聞のコラムには「捉えがたい沖縄の姿に真摯(しんし)に向き合う姿勢が伝わる」(沖縄タイムス)という紹介があったが、凡人の私には写真の意味するところがよく分からない。あえていえば、米軍基地問題が混沌としたままの沖縄の過去、現在、未来…

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1653 坂の街首里にて(3) 沖縄の人情

 首里から少し遠出して、島全体が聖地といわれる久高島(くだかじま)を歩いたあと、同じ南城市の小さなぜんざい店に立ち寄った。そこには4人の先客がいた。最高齢の人は83歳だというが、褐色の肌をした年齢を感じさせない男性だった。親分肌のこの人は去り際さりげなく格好のいい姿を見せ、私たちを驚かせた。  久高島は、南城市の安座真(あざま)港から高速船で約20分で到着する。そこには徳仁(なるひと)港という、皇太子の名前を付けた港があった。島全体が聖地と言われる通り、美しさと神秘さが漂っている。かつて岡本太郎が踏み入れてしまったという、男子禁制のクボー御嶽(うたき、風葬の地)は立入禁止になっていた。島の統一小中学校の前を通ると、校庭わきの木陰で女子生徒が学校で飼っているというヤギにえさの桑の葉を食べさせていた。児童生徒数は小学校が10数人(彼女は中学生なので小学生のことは正確には分からないとのことだった)、中学校は10人の学校だという。  自転車を借りて島全体を回る。約2時間で島巡りは終わる。それほどに小さい島なのだ。浜辺に行き、海に入ると、冷たくて長い時間は無理だった。沖縄の5月の海はまだ海水浴には適さないだろう。増便の臨時船に乗り、南城市の世界遺産、斎場御嶽(せーふぁうたき)に向かう途中に立ち寄ったのが「いいやんべぇ」というぜんざい(かき氷)の店だった。沖縄ではぜんざいは名物の一つだそうだ。この店のぜんざいは大きな器にかき氷が盛ってあり、その上に金時豆がたっぷり乗っているだけでなく、きなこ、ミル…

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1652 坂の街首里にて(2) 自然の力・アカギの大木を見る

 前回のブログに書いた通り、首里地区は太平洋戦争の沖縄戦で米軍の激しい攻撃に遭い、がれきと化した。首里城周辺にあったアカギという樹木も例外でなかった。しかし、現在、内金城嶽(うちかなぐすくうたき)境内には6本の大木が残っている。戦火を免れた大木の存在に、人は強い生命力を感じるはずだ。  滞在している家から歩いて10分足らずのところに、「アカギの大木」と記された首里の名所の一つがあった。大木と聞いて人はどんな樹木を連想するだろう。大木で知られる樹木はクスノキが多く、鹿児島県蒲生町で日本一といわれる樹高30メートルのクスノキを見たことがあるが、アカギという木の種類をこれまで知らなかった。この木は東南アジア原産で、コミカンソウ科(旧トウダイグサ科)の常緑広葉樹である。沖縄や小笠原では栽培されていた時期があり、その後自生したという。木の肌が赤く、家具に使われるというが、これを使った家具を私は見たことはない。  ところで、首里城周辺にあったアカギの大木は戦争によってほとんど燃えてしまったという。だが、内金城嶽境内の6本のアカギは焼かれることなく生き残った。樹齢200年以上で樹高は約20メートル程度だ。この6本は沖縄の復興のシンボルともいわれ、一角は不思議な雰囲気を保っている。この木の強い生命力は失意の沖縄の人々の心の支えになったはずだ。首里にはパワースポットといわれる場所が何カ所かある。ここもその一つだという。人は心に憂いを感じる時もあれば、その逆に心弾む時もある。そうした思い悩むことがある時は…

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