1924 秋風とともに第2波去るか シューベルトの歌曲を聴きながら

 新型コロナの感染拡大が止まらない。9月1日午後1時(日本時間)現在、世界の感染者は2540万5845人、死者は84万9389人(米・ジョンズ・ホプキンズ大まとめ)に達している。悔しいことだが、死者が100万人を超える日はそう遠くはないはずだ。コロナ禍の中で生活をしていると、人類の健康で文化的生活には災害や飢餓、戦争に加え、伝染病(感染症)が大きく立ちはだかっていることを強く感じるのは、私だけではないだろう。フランツ・シューベルト(1797~1828)の歌曲『死と乙女』(1817年作曲)の詩(マティアス・クラウディウス作)のように、死神がいるとしたら、新型コロナというウィルスを使って乙女に限らず多くの人々を死へとおびき寄せようとしているといっていい。

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1922 早朝の二重(ふたえ)虹 天まで続く七色の階段

「こんな美しい虹を見たのは初めて」「二重の虹はなかなか見られないよね」。朝6時前、雨上がりの北西の空に虹が出ているのを見た。しかも二重の虹である。散歩を楽しむ人たちは、束の間の自然界のパノラマに見入っている。何かいいことがありそうな、そんな自然界からの朝の贈り物だった。

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1920 旭川を愛し続けた人 少し長い墓碑銘 

「せきれいの翔(かけ)りしあとの透明感 柴崎千鶴子」 せきれいは秋の季語で、水辺でよく見かける小鳥である。8月も残りわずか。暑さが和らぐころとされる二十四節気の「処暑」が過ぎ、朝夕、吹く風が涼しく感じるようになった。晩夏である。遊歩道に立つと、写真のような透明感のある風景が広がっている。空には今日も雲がない。そんな空を見上げながら、北の地に住んでいた先輩の旅立ちを偲んだ。

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1919 近づく新米の季節  玄関わきに田んぼあり

 今年も新米の便りが届く季節になった。散歩中に、近所の家の玄関わきで稲を栽培しているのを見つけた。水田というにはあまりにも小さい。高さ約30センチほどのコンクリートで囲った、1坪程度の小さな田んぼだ。中の稲は元気に育って実をつけ、頭を垂れている。ままごとのような田んぼでも、猛暑による熱中症を恐れコロナ禍にたじろぐ私たち人間を尻目に、自然界は実りの秋へと少しずつ移行を始めていることに気づかされるのだ。

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1918 夏の風物詩ヒマワリ物語 生きる力と悲しみの光と影

 ヒマワリの季節である。8月になって猛暑が続いている。そんな日々、この花は勢いよく空へ向かって咲き誇っている。「向日葵の百人力の黄なりけり」(加藤静夫)の句のように、この黄色い花がコロナ禍の世界の人々に力を与えてほしいと願ってもみる。よく知られているゴッホの《ひまわり》の絵もまた、その力強い筆致でコロナ禍におびえる私たちにエールを送ってくれていると思いたい。

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1912 電動でもペダルを漕いで! 2020年夏の小話

 「電動自転車というのに、ペダルを漕がないと動かないのかねえ?」 「乗るだけでは動きませんよ。バッテリーのスイッチを入れ、ペダルを漕ぐ必要があります」  このところ急速に普及している、いわゆる「電動自転車」をめぐる落語のような話を聞きました。新型コロナによって暗いニュースが続く中での笑い話のようにも思えますが、私自身の失敗を思い出させるやり取りでもありました。  先日のことです。ことし購入した電動自転車を点検してもらうため、自転車店に行きました。私の前に同じ電動自転車を押した高齢の男性が入って行き、店の人とやり取りを始めましたので、私の耳にも入ったのです。電動自転車は正しくは電動アシスト自転車といい、充電式のバッテリーを搭載し、ペダルを漕ぐ力を手助けしてくれるますので、走行が普通の自転車よりかなり楽になっています。そして、高齢の客と自転車店の店員のやり取りは次のように続いたのです。(以下、客と店で表記)  客「電動というからには、何もしなくとも動くと思っていたんだ。でも、動かないからペダルを漕いでみたら、重くてねえ。普通の自転車より疲れるよ」  店「それはバッテリーのスイッチを入れないからですよ。スイッチを入れてからペダルを漕ぐと、軽く進みますよ。お客様。ここのスイッチは入れていましたか。(ハンドル左側のバッテリーの電源スイッチのこと)入れてない! ほら、この電源を押してペダルを漕ぐと楽になりますよ」  客「この自転車を買ってから1カ月経つけど、走るのに重くて大変だった。ペダル…

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1900 コロナ感染者1000万人超 壮大なる無駄遣いアベノマスク 「ブログ1900回!」

 ブログ「小径を行く」は今回で1900回です。初めてから14年。ここまで到達しました。この記念すべき回にコロナ感染対策の「アベノマスク」、感染者1000万人について書いてみました。これも歴史なのでしょうか。  政府が新型コロナ感染拡大防止を目的として全世帯に配布(1世帯当たり2枚、計1億3千万枚)をした「アベノマスク」といわれる布マスクを利用している人を見たことがない。不思議な話である。私の家に届いたのは、安倍首相がマスクを配りますと、記者会見で宣言してから1か月半後の6月15日のことだった。周辺の家庭にも同時期に届いているはずだが散歩、ラジオ体操、日常の買い物、電車での買い物や通勤……。家族に聞いてもこれらの範囲内でこのマスクの人はいまだに見かけない。首相だけがつけている不思議なマスクは、新型コロナに右往左往した時代の象徴として、多くの人の記憶に残るだろう。  一時期マスクは店頭から消えたから、記者会見でマスクを配るという首相発言に期待を持った人もいるだろう。だが、その期待は裏切られた。マスクは小さいし、容易に届かない。届いたものは汚れているものも含まれていた。多くの世帯に届いたころは、ほとんどの店頭に様々なマスクが並んでいた。しかも日本は梅雨。布製のマスクは付けているだけで苦しいから合わない。(まだ届いていない地区もあるという) 「次なる流行にも十分反応できるよう、布マスクを多くの国民が保有することに意義がある」。菅官房長官の言葉は第2波の際に使ってほしいという言い訳にしか聞…

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1879 5月の風に吹かれて タケノコとイノシシの話

 世界も日本もコロナ禍によって、大きな打撃を受けている。命が、生活が奪われていく。だが、自然界はこうした人間界とは無縁のようだ。散歩コースでは野ばらやアザミが咲いている。蛇の姿も見かけた。季節は巡り、二十四節気の一つ、立夏(ことしは5月5日)から1週間が過ぎた。さわやかな5月である。季節の便りのタケノコが友人から届いたと思ったら、故郷からも送られてきた。旬の味である。  山形の友人が送ってきたのは「月山タケノコ」だった。昨年もいただいたので、この味は忘れない。月山(1984m)は山岳信仰で知られる出羽三山(ほかに羽黒山と湯殿山)の主峰である。このタケノコはその麓で採れるほか北海道から東北の山地に自生しており、根元が湾曲するため根曲がり竹と呼ばれる笹のタケノコだ。アクが少ないうえ、独特の風味と甘みがあり、月山周辺のものは特に味がいいことで人気があるそうだ。届いた時、たまたま居合わせた小学4年生の孫娘とさっとゆでたタケノコの皮をはぐのを手伝いながら、味見をしてみた。確かに何もつけないでも甘くてうまい。マヨネーズや味噌をつけてもいい味だ。孫娘も嬉しそうに食べている。  同じ日、私の実家のある福島から、孟宗竹のタケノコが届いた。こちらは太めのタケノコで、月山のものとは風味も味も異なる。昔からアク抜きをしなくとも食べられる品質だと記憶している。適度に歯ごたえがあって、私はこのタケノコを食べると、東北にも5月がきたことを実感したものだ。かつては、食べきれないほどのタケノコが出た、この孟宗竹の竹林も…

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1874 窓をあけよう 風は冷たくとも

 前回に続いて、詩の話です。大分県出身のクリスチャンで詩人、江口榛一(1914~1979)の「窓をあけよう」をこのブログで取り上げたのは8年前の2012年のことでした。あらためてこの詩を読み返してみました。最近の社会情勢に合致するような言葉が、この詩には含まれていました。   窓をあけよう。   窓をあけると風がはいる。   風はいつも新しい。   地球をひと回りしてきた風だ。   その風を深呼吸のように吸っていると   心が空のように広くなる。   海のように豊かになる。  新型コロナウイルスの感染拡大のために、部屋の窓、電車の窓を開けて換気することが求められています。換気の悪い密閉空間は感染リスクの一つといわれ、クラスター(集団感染)の恐れがあるそうです。実際に密閉空間ともいえるライブハウスでクラスターが発生したことがニュースになりました。  テレワークができない人は少なくありません。自宅勤務なしに電車通勤をしている家族によると、このところ利用する電車の窓は必ず開けられているそうです。窓から入り込む風は冷たくとも、我慢して乗り続ける日々だそうです。私は、そんな時こそ江口の詩を思い浮かべるのはどうだろうと思うのです。  このブログを書いている部屋の南側の窓を開けました。窓の外には、新緑が目に優しいけやきの街路樹に囲まれた遊歩道が見えます。外出自粛が続いているせいでしょうか、人影はそうありません。時折、散歩やジョギングの人が通り過ぎて行きます。犬の散歩や自転車の…

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1867 ライラックがもう開花 地球温暖化ここにも

 つつましき春めぐり来てリラ咲けり 水原秋櫻子      近所を散歩していたら、ライラック(リラ)の花が咲いているのを見つけた。まだ4月に入ったばかりだから、例年よりもかなり早い開花だ。空は青く澄み渡り、紫色の花からは微かな香りが漂ってくる。世界を覆う新型コロナウイルス感染症の猛威という現実を忘れ、つかの間美しい花に見入った。  札幌で暮らしたことがある。街の中心にある大通公園には約400本のライラックが植えられており、毎年5月の下旬にライラック祭が開かれている。ことしも5月20日~31日の開催が予定されている。この花を見ると長い冬の終わりを実感したが、ことしは予定通り祭りが開かれるだろうかと危惧する。(このブログをアップしたあと、中止が決定した。6月のよさこいソーラン祭りも同様に中止が決まったという)  ライラックといえば、花の絵を好んで描いたゴッホの《ライラックの茂み》という作品を思い浮かべ、インターネットで検索して絵を見てみた。自然のエネルギーを感じさせるゴッホ特有の劇的な表現が目に付き、絵から花の香りが漂ってくるような錯覚さえ抱いた。フランスのアルルに住んだゴッホは、同居したゴーギャンとの芸術感の違いから自分の左耳の下部を切り取るという事件を起こし、1889年5月サン=レミの精神療養院に収容された。療養院の室内から庭を見ながら、《アイリス》などとともにこの絵を描いたという。(現在はロシア・サンクトペテルブルクにある国立エルミタージュー美術館が所蔵)  療養院でゴッホは…

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1835 季節外れマロニエの緑葉 人生至宝の植物に異変

  ラジオ体操をやっている広場に約20本のマロニエ(セイヨウトチノキ)がある。ほとんどの木が葉を落としつつあるのに、なぜか1本だけ青々と葉が茂っている。桜の花が季節外れに咲いたなどという話は聞いたり、実際に見たりすることがあるが、季節外れにマロニエの葉が茂るのを見たのは初めてだ。気候変動の影響だろうか。今年は植物も戸惑う年といえるようだ。  マロニエは春に芽吹き、初夏には白やピンクの花が咲き、秋になると実をつけ、ラジオ体操をやっている人の近くに実が落ちることもある。晩秋には葉が色づき、近くのけやきよりも早くに落葉する。木によって少しのずれはあるものの、このパターンは変わらない。ところが、今年9月になって1本が早めに落葉したと思ったら、新しい葉が出始め、10月中には全体が緑の葉で覆われたのだ。 「季節外れに葉を出すなんてどうしたんでしょうね」 「今年の夏は長梅雨が続き、明けたら急に暑くなったんで、季節感がなくなってしまったのかもしれないですね」  ラジオ体操仲間は、こんなふうに話している。さらにこの秋、私の住む千葉市は台風15号、19号の上陸、21号に伴う記録的大雨で大きな影響を受けた。体操広場近くのけやきの木が強風で折れたりしたから、夏から秋にかけての気候変動にマロニエの木もこれから活動の時期だと勘違いし、季節外れに葉を出してしまったのだろうか。落葉樹は気温が低くなると根の働きが鈍くなり、水分も十分に取れなくなるため古い葉を落として冬を越す。新しい葉が茂ってしまったマロニエはも…

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1832 季節は秋から冬へ ラガーの勝ち歌みじかけれ

 散歩コースの遊歩道から調整池を見ていると、このところ毎日のように霧が出ていて、美しい風景を演出している。今朝も昨日に続き霧が出ていた。茜色に染まった雲と紅葉が始まった森、赤いとんがり屋根の小学校、その下に薄く広がる白い波のような霧が見事なコントラストを描いている。今年の立冬は明日8日(金)。悪いニュースが相次いだ2019年だが、この風景を見ていたら気分は爽快になった。  立冬の初候は「山茶始めて開く」(つばきはじめてひらく)である。候には「つばき」とあるのだが、ツバキ科の山茶花(サザンカ)のことを言うのだそうだ。私の家の山茶花はまだつぼみだが、隣の家のこの花は既に咲いている。まさに山茶花の季節がやってきたといえる。日中預かっている小型犬は、陽だまりが恋しいのか、窓際に身を置き陽光を浴びてのんびり昼寝を楽しんでいる。  今年は自然災害の多発など悪いニュースが多かった。そんな中、先日終わったラグビーのワールドカップに勇気づけられた人も少なくなかったかもしれない。友人もそのひとりである。今回のワールドカップで日本代表がベスト8まで勝ち進んだこともあり、私を含め多くの人がにわかラグビーファンになった。友人は学生時代に女性のラグビーチームに所属し、兄もラグビーの選手だったこともあって私のようなにわかファンと違って、ワールドカップを心待ちにしていたようだ。  友人にとって、今年は星回りが悪かった。母親と親友、さらに愛犬(ゴールデンリトリートバー)が相次いでこの世を去り、これまでにない悲しみ…

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1828 ただ過ぎに過ぐるもの 優勢なセイタカアワダチソウ

 散歩コースの遊歩道から調整池を見ると、池の周辺の野原は黄色い花で埋め尽くされている。言わずと知れた外来植物のセイタカアワダチソウである。例年、この花とススキは生存競争を繰り返しているのだが、今年は外来植物の方が圧倒的に優勢だ。この道を歩き続けてかなり長い。そして、2つの植物の生態の変化に飽きることはない。  手元の百科事典によると、セイタカアワダチソウは北米原産の帰化植物で、キク科の多年草。茎は直立し、高さ2~3メートルになり、土手や荒地に群落を作る。10~11月、多数の黄色の頭花を大きな円錐花序につける。切り花用として持ち込まれたが、繁殖力が強いのが特徴で、今では全国どこでもこの花を見ることができる。  これまでもこのブログで何回かこの花について取り上げているので、詳しい生態については省略するが、天敵ともいえるススキとの戦いで今年は、この花が勝ったようだ。本来ならススキは中秋の名月の後も天を衝く勢いで残っている。しかし、相次いで上陸した台風(15号と19号)によって細長い茎は吹き飛ばされてしまい、見る影もなくなった。それに対しセイタカアワダチソウはしぶとく耐え、弱ったススキを相手にせず、わが世の春ならぬわが世の秋を謳歌しているのである。 「ただ過ぎに過ぐるもの 帆かけたる舟。人の齢。春、夏、秋、冬。」(ブログ筆者の現代訳・何もしなくとも一方的に過ぎて行くもの。それは帆掛け舟=帆を上げて風に乗って進む船=であり、人の年齢、そして春、夏、秋、冬という四季である)    清少納…

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1812 炎暑地獄の9月 台風去って難が来る

   9日未明に千葉市に上陸した台風15号は、最大瞬間風速57・5メートルを記録し、同じ千葉市に住む私は眠れぬ夜を明かした。台風のすごさはテレビの映像で知ってはいたが、それを目のあたりにした。あちこちで街路樹が倒れ、屋根のテレビのアンテナが横倒しになり、瓦も飛んでいる。屋根が飛んでしまったガレージもある。遊歩道にはけやきの倒木と飛ばされた枝が散乱している。夜になると、街の半分が停電で暗闇の世界になっていた。そして、1日が過ぎた。停電の家で暮らしている体操仲間は「炎暑地獄ですよ」と話した。  台風が去った後、9日の夕方になると、美しい夕焼けが広がった。それは、右足の大けがをした2年前の9月の夕焼けと匹敵する絶景だった。沖縄から近所に移ってきた娘は「沖縄と同じくらいきれいな夕焼けだ」と感心した。時間差はあるものの、自然は荒々しさと美しさを私たちに与えくれたのだ。まるで、ごめん、ごめん、さっきの乱暴は許してね、その代わりにきれいな空を見せてあげるね、とでも言うかのように……。  テレビや新聞で報道されているためか、昨日から今日にかけ、お見舞いの電話がかかり、メールが届いている。庭中を、飛んできた枯れ枝とけやきの葉が埋め尽くしたが、それ以外は特に被害はない。だから「お陰様で私のところは大丈夫です」という返事を繰り返した。「二百十日」という言葉がある。立春から210目(2019年は9月1日)のことをいい、このころは台風や風の強い日が多いといわれる。最近は春から台風がくるので、この言葉は死語にな…

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1811 ツバメ去り葛の花咲く 雲流れ行く季節に

 朝、調整池の周囲にある遊歩道を散歩していたら、多くのツバメが飛び回っていた。そういえば、七十二候の四十五候「玄鳥去(つばめさる)」は間もなく(18日)だ。ツバメは南へと帰る日のために、ことし生まれた子ツバメを訓練しているのだろうか。残暑が続くとはいえ、自然界はツバメだけでなく、次第に秋の装いへと移り始めていることに気が付く。  ツバメは神奈川県や千葉県で絶滅の恐れがある日本版レッドリストに指定されており、私の住む千葉市では「要保護生物」になっているという。それだけ都会からツバメが少なくなっているのだろう。とはいえ、近所の大型スーパーの出入り口の一つに、ツバメが巣をつくっていて、毎年ここで雛を育てているし、調整池の周辺でも見かけることが珍しくない。私の住む地域に限って言えば、ツバメは激減していないのかもしれない。  この遊歩道の傍らは、調整池と草地が広がっている。最近は予算が減らされ、役所の雑草の刈り取りは年1回しかない。そのため、いつしか繁殖力の強いツル性の葛が増え続け、遊歩道の一部まで葛が勢力を拡大してしまっている。始末が悪い雑草だと思っていたが、今朝この葛の花が咲いているのを見かけた。濃紺紫色の花穂である。葛は秋の七草のひとつで、花はまあまあきれいだ。葛を季題とした俳句も数多い。「山葛の風に動きて旅淋し」 正岡子規の句である。このように風情を感じる句が少なくないが、毎朝調整池でどんどん伸びる姿を見ているためか、私は葛を好きになれない。  調整池の遊歩道とは別に、この街には1…

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1810 心に残る木 9月、涼風を待ちながら

 知人の古屋裕子さんが日本気象協会のホームページ「tenki.jp」で、季節にまつわるコラムを担当している。直近は「さあ9月、『秋』への予感を感じるために!」と題し、「木」に関する話題を取り上げている。(「誰でも持っている心に残る木」「大木はやすらぎと信仰の場所」「木は生活に欠かすことのできない潤い」)分かりやすい言葉で書かれた古屋さんの珠玉のコラムを読みながら、私の心に残る木を考えた。  かつて私の生家の庭に、一本の古木があった。樹齢数百年の五葉松である。これが私の場合の「心に残る木」だ。この木については以前のブログで書いているが、改めて触れてみる。    樹高12、3メートルくらい、品があり、わが家の庭ではいちばん目立つ木だった。長い年月の風雪に耐え抜いた幹には、大きな空洞ができていた。ある年から、その穴にフクロウが住みついた。卵を産み、ヒナがそこからふ化した。ある日、私と兄は五葉松にはしごをかけ、フクロウがどこかに飛んで行っていないことを見越し(フクロウは夜行性といわれるが、昼に活動することもあるそうだ)、交互にはしごに乗ってフクロウの穴に手を突っ込んだ。中には卵が3、4個あり、私たちはその卵を取ってご飯にかけて食べてしまった。2人とも小学生でわんぱく盛りのころのことである。その後、フクロウがいつまでこの松に卵を産んだかは覚えていない。何年かが過ぎ、大きな台風でこの五葉松は根元から横倒しになった。  植木屋さんに頼んで、倒れた松は元に戻し、傷ついた幹と枝には保護用のわらが巻か…

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1803 涼を呼ぶ寒蝉鳴く 猛暑の中、秋を想う

 猛暑が続いている。暦の上では立秋(8月8日)が過ぎ、きょう13日は七十二候の「 寒蝉鳴」(かんせんなく)に当たり、盆入りである。寒蝉は「かんぜみ・かんせん」と読み、秋に鳴くセミであるヒグラシやツクツクボウシのことをいう。散歩コースの調整池の小さな森で朝夕、涼を呼ぶようにヒグラシが鳴いている。この鳴き声を聞くと、私は秋が近いことを感じる。とはいえ残暑は厳しい。今年の本格的秋の到来はいつになるのだろう。  手元にある七十二候の本には「寒蝉鳴(ひぐらしなく)」と紹介されているが、「寒蝉」について広辞苑には「秋の末に鳴く蝉。ツクツクボウシまたはヒグラシの古称か」とあり、大槻文彦・言海「つくつくぼうし」の項の最後にも「寒蝉」と記されている。民俗学の柳田国男は『野草雑記』で植物の土筆(ツクシ)について考察し、地域によってこの植物が「ツクツクボウシ」と呼ばれ、寒蝉=ツクツクボウシと同じ呼称であることを紹介している。このように寒蝉鳴のセミの古称は複数存在するのである。  七十二候はもともと古代中国で考案された季節を表す方式だが、日本では江戸時代に渋川春海(1639~1715。天文暦学者、囲碁棋士。冲方丁の小説『天地明察』は渋川の生涯を描いている)ら暦学者によって日本の気候風土に合うように改訂されたというから、江戸時代に立秋を過ぎてから鳴くことが多いヒグラシやツクツクボウシを「寒蝉鳴」という七十二候に含め、秋の到来を示す風物詩として言い伝えてきたのだろう。  書に倦むや蜩鳴いて飯遅し 正岡子規は…

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1790 マロニエ広場にて 一枚の絵にゴッホを想う

  近所にマロニエ(セイヨウトチノキ)に囲まれた広場がある。その数は約20本。広場の中心には円型の花壇があり、毎朝花壇を囲むように多くの人が集まってラジオ体操をやっている。私もその1人である。既にマロニエの花は終わり、緑の葉が私たちを包み込んでいるように見える。体操仲間の1人がこの風景を絵に描いた。色とりどりの花が咲く花壇の後ろに4本のマロニエが立っている。私は絵を見せてもらいながら、ゴッホもマロニエの花を描いたことを思い出した。  ゴッホは、「花咲く……」という題の絵を何枚か残している。「花咲くアーモンドの枝」「花咲く梨の木」「花咲く桃の木」「花咲くアンズの木々」「花咲く薔薇の茂み」そして「花咲くマロニエの枝」だ。マロニエの絵は、ゴッホが亡くなったフランス・パリ近郊の村、オーヴェル=シュル=オワーズで過ごした最晩年に描いたものだ。ほんのりと赤みを帯びた白い花と緑の葉、背景にゴッホの特徴であるうねりながら渦巻くような(のたうつような筆遣いと表現する研究者もいる)真っ青な空が描かれている。  アルルでゴーギャンとの共同生活が破綻し精神を病んだゴッホは、転地したサン=レミでも耳切り事件を起こす。この後さらに転地療養のため友人の紹介でサン=レミからオーヴェル=シュル=オワーズに移った。1890年5月17日のことである。マロニエの花が真っ盛りのころだ。「オーヴェルは美しい。とりわけ美しいのは、近頃次第に少なくなって来ている古い草屋根が沢山あることだ」と、弟のテオ宛の手紙でこの村の美しさを書…

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1789 雨の日に聴く音楽 アジサイ寺を訪ねる

 きょうは朝から雨が降っていて湿度は高い。ただ、午後になっても気温は約21度と肌寒いくらいだ。それにしても梅雨空はうっとうしい。CDでショパンの「雨だれ」(前奏曲15番 変ニ長調)をかけてみたら、気分がさらに重苦しくなった。仕方なく別のCDをかけ直した。モーツァルトだ。ショパンには悪いが、雨の日もやはりモーツァルトだと思う。 「雨だれ」について仙台在住の作家、佐伯一麦が『読むクラシック』(集英社新書)の中で、私と同じことを書いている。佐伯は高校生のころ、雨が降ると家に引きこもりたくなって学校を休み、この曲に耳を傾けたそうだ。ところが、大人になると……。「正直の所、今はあまり好まなくなってしまった。そもそも雨だれとは、他人が付けた名前で、そう名付けたくなるのも無理もないけれど、この曲から受ける雨の感じは、いかにも重苦しすぎる。悪夢の名残のように、こちらにつきまとって離れない気配がある」(ブログ筆者注。スペイン、マジョルカ=マヨルカ島の修道院の屋根を打つ雨を描いた作品といわれる。ショパンがマヨルカでこの曲を作曲したのは1839年1月のこと。地中海気候のこの島の冬は、日本とは反対に雨が多い季節だ。フランスの作家で男装の麗人ともいわれた恋人のジョルジュ・サンドとともにこの島に滞在したショパンは、肺結核を病んでいたとはいえ創作意欲は旺盛だったそうだ)  梅雨といえば、アジサイを思い浮かべる人は多いはず。この花が嫌いだという人もいるだろうが、雨の季節を彩る、6月の花の代表ともいっていい。それにして…

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1786 雨の季節に咲く蛍袋 路傍の花を見つめて

 散歩道で高齢の女性2人が話している。「あら、ホタルブクロがそこに咲いているわよ」「そうね。懐かしいわ。私の子どものころ、この花を『あめっぷりばな』、って言ってたのよ」「そうなの。面白い名前ね。私の学校帰りの道の両脇にもあって、これが咲くと、ああ梅雨に入ったと思ったものよ」  2人は追憶の日をたどるように、話を続けている。2人の邪魔をしないように、私は傍らをそおっと通り過ぎた。その先の斜面には、紫とそれよりも薄い紫の2種類のホタルブクロが雑草に混じって咲いていた。どことなく郷愁を感じる風情があり、私も既視感を抱いた。そう、私の通学路周辺にも今の季節になるとこの花がひっそりと咲いていたのだ。  ホタルブクロは雨の中で生き生きとする植物だ。「あめっぷりばな」という呼び方は、巧みな表現といっていい。ホタルブクロという名前の由来は「ぶら下がって咲く花を提灯に見立てて、提灯の古語である火垂を充てた」という説と「子供が花のなかにホタルを入れて遊んだから」という2つの説があるそうだ(NHK出版『里山の植物ハンドブック』より)。なるほど、後者なら確かに「蛍袋」になる。  私が子どものころ、夏になると蛍が飛び交うのが珍しくなかった。だが、残念ながら、この花の中にホタルを入れて遊んだ記憶はない。ただ、語源になっているのだから、いつの時代か、どこかの地域でそうした遊びをする子どもたちがいたのかもしれない。それを想像するだけで、風情を感じるのである。 「螢袋に山野の雨の匂ひかな」 細見綾子の句である。雨に濡れ…

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1779 桑の実は名物そばよりうまい  自然の活力感じる季節

 自然を愛好する人にとって、忙しく楽しい季節である。山歩きが趣味の山形の友人からは珍しいタケノコ「ネマガリダケ(月山筍)」が送られてきて、彼の山歩き姿を思い浮かべながら、旬の味を堪能した。自然の活力を最も感じる季節、病と闘いながら旺盛な食欲を発揮し続けた正岡子規の随筆を読み、庭の一隅の桑の実を観察した。もう少しでこの実も熟れ始める。  子規の随筆は「桑の実を食いし事」(『ホトトギス』第4巻第7号)という、信州(長野県)旅行の思い出を記した短文だ。要約すると、次のようになる。 「蚕の季節の旅行だったため、桑畑はどこも茂っており、木曽へ入ると山と川との間の狭い地面が皆桑畑だった。桑畑の囲いのところには大きな桑があり、真黒な実がたくさんなっていた。これは見逃す手はないと手に取り食べ始めた。桑の実は世間の人はあまり食べないが、そのうまさはほかに比べるものがないほどいい味をしている。食べ出してから一瞬の時もやめず、桑の老木が見えるところに入り込んで貪った。何升食べたか分からないほどで、そんなことがあったため、この日は6里程度しか歩けなかった。寝覚の里(寝覚の床=木曽郡上松)へ行くと、名物のそばを勧められたが、腹いっぱいで食べられなかった。この日は昼飯も食べなかった。木曽の桑の実は寝覚そばよりうまい名物だ」  子規の食いしん坊ぶりを彷彿とさせる一文だといえる。私も子どものころ、生家の桑畑で熟した実を食べ、唇や舌を真っ赤にしたことが何度かあるが、子規のようにうまいとは思わなかった。だが、最近そ…

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1776 ほてんど餅って知ってますか 柏餅のことです

 きょうは「こどもの日」で、端午の節句である。ラジオ体操で一緒になった人と柏餅のことを話していたら、「私の方では柏の葉ではなく、『ほてんど』の葉を使うので『ほてんど餅』というんですよ」と教えてくれた。中国地方出身というこの人は、帰り道この植物を教えてくれた。それは「サルトリイバラ」という全国に分布する植物で、山口県では「ほてんど」と呼ばれるそうだ。柏餅でも地域によって利用する葉が違うのだから、日本には幅広い食文化があるのだと感心した。  柏餅を食べる習慣は日本で生まれたならわしで、柏の木(ブナ科)は新芽が出るまで古い葉が落ちないことから「跡継ぎが途絶えず、子孫繁栄」につながり、家系が絶えない縁起のいい食べ物になった――と、歳時記に出ていた。柏餅の呼び方は地域によって違いがあるそうだ。本来の柏の葉を使った柏餅のほかに、サルトリイバラの葉の方で作ったものの呼び方は数多く「ほてんど餅」「ばらっぱ餅」「かしゃんば」「いばらだんご」「しばもち」「ひきごもち」「かたらもち」「かんからもち」(以上、日本調理科学会誌より)などがあるのだが、これは一例にすぎず、もっとある。サルトリイバラの呼び方が地域によって異なるのが、その理由のようだ。西日本ではこの葉を使ったもの自体を柏餅と呼ぶこともあるそうだ。  海野厚作詞、中山晋平作曲の「背くらべ」という童謡は、この季節の曲で、誰でも知っているだろう。  1   柱のきずは おととしの  五月五日の 背くらべ  粽(ちまき)たべたべ 兄さんが  計って…

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1771 生命力を感じる新緑と桜 子規とドナルド・キーンもまた

 私が住む首都圏は現在、新緑、若葉の季節である。街路樹のクスノキの緑が萌え、生け垣のベニカナメの赤い新芽がまぶしいこのごろだ。新緑、若葉の2つは俳句では「夏」の季語になる。しかし立夏はまだ先(5月6日)で、今は春爛漫というのが適切な時期になる。時代ともに季節感覚が、少しずつずれてしまっているのだろう。  手元の角川俳句歳時記には「春に芽吹いた木々が5月ごろに新葉を拡げるさまは美しい」(若葉)、「初夏の若葉のあざやかな緑」(新緑)――と出ている。いずれも5月ごろの季節を想定した書き方である。東北や北海道ではちょうどこの記述が適当だろうが、関東以南にはややそぐわなくない表現だと思われる。  それは別にして、新緑と若葉と聞いて人は何を感じるだろうか。私はどうしても「生命力」をイメージする。樹木が冬の眠りから覚めて活動を再開する姿に、生命の息吹を感じるからだ。詩人の大岡信は、日本の春の象徴である桜について「『前線』ということばが花では桜についてだけ言われますが、桜は動くもの、散るもの、しかしそれは同時に生命力をあらわしていて、桜を詠んだ詩歌がそういうことを示すものが多いのは当然だとおもいます」(『瑞穂の国うた』新潮文庫)と書いている。  3月が別れの季節の色合いが濃いのに対し、4月は大岡が書くように、生命力が前面に出る季節なのだ。34年という短い生涯にもかかわらず、挑戦する姿勢を忘れなかった俳句の正岡子規の生き方に私は強靭な命の輝きを感じ取る。先ごろ96歳で亡くなったドナルド・キーンは『…

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1768 東京も千葉も福島も桜の季節 「人はいかに生きるべきか」

 かつては「桜前線が北上」という言葉が一般的だった。だが昨今、この言葉はあまり使われなくなった。異常気象といわれた世界の気象がいまや恒常化してしまい、東京と福岡の桜の開花日が同じになっている。自然界も異常を普通にしてしまう「トランプ現象」と足並みをそろえてしまっているようだ。私の住む千葉がまだ満開の一方で、原発事故から8年が経た福島でも美しい桜の季節を迎えている。福島の人たちはどのような思いでこの季節を送るのだろう。  共同通信社の現在の福島支局長は、ロシア問題専門の私の信頼する佐藤親賢という後輩記者だ。佐藤記者が最近、書いた社内文書を読む機会があった。福島の現状を紹介した後、彼の思いを書いていた。私はその文章に惹かれた。 「人はいかに生きるべきかという問いに、全ての人が向き合っているわけではあるまい。しかし震災・原発事故を経験したことで、自分はこれからどう生きたらいいのかを考えさせられた人がたくさんいた。福島の記者たちが日々取材しているのは、そういう人々の思いである。原子力災害にどう向き合うか。急速な過疎化と高齢化にどう対応するか。どんなやり方でエネルギーを、そして安全な食料を確保するのか。福島は、こうした課題についての『学びの場』になったらいい。県外や国外から視察を受け入れ、自分たちの苦しい経験を分かち合い、今後予想される災害や課題への解決策を共に考える。いまだに続く『風評被害』もその中で克服されていくに違いない」 「人はいかに生きるべきか」という後輩のこの問いに、私はどう答…

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1767辞書を引きながら…… 無常を感じる新元号発表の日

 新聞、テレビが大騒ぎをしていた新元号が「令和」と決まった。多くの人たちは西暦表記に慣れているので、元号が替わっても何の影響もないが、元号とは何なのだろう。「元号法」という法律もあるが、よく分からない。「令」も何となく違和感がある。  元号法は2つの条文しかない。「1、元号は、政令で定める。2、元号は、皇位の継承があった場合に限り改める。」(三省堂『新六法』)これだけである。法律にはその法律を定めた意義や目的が掲げられているのだが、なぜか元号法にはない。仕方なく、辞書を引いてみた。  新明解国語辞典(三省堂)では「その天皇在位の象徴として、年に付ける名称。[明治以降は一代一元に定められた]」とあり、広辞苑(岩波書店)には「年号に同じ」という説明が書かれていた。広辞苑で「年号」を引くと、「皇帝が時をも支配するという思想から中国・漢の武帝の時に「建元」(西暦紀元前140年)としたのが始まりで、日本では645年に「大化」としたのが最初。天皇が制定権を持ち、即位や祥瑞(めでたいこと)、災異(天変地異)その他によりしばしば改めたが、明治以降は一世一元となり、1979年公布の元号法も、皇位の継承があった場合に限ると規定」(一部略)――とあった。こうした歴史の経緯や元号法の規定を見ても明らかのように、元号は天皇制と密接につながっていることが理解できる。  新元号の「令和」に関しては、万葉集の大伴旅人の梅の花の歌の序文(新春例月、気淑風和)が典拠という解説が新聞にあり、「和」については特に説明…

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1765 春眠暁を覚える? 雉を見に行く 

「雉が増えすぎて困るから、野良猫がいた方がいいって言ってる人がいる」「それはおかしいよね」ラジオ体操仲間が、こんなことを話していた。その場所は私の散歩コースに当たり、なるほどこの数年、よく雉を見かける。それにしても「増えすぎる」とはどういうことなのだろうと思った。 「春眠暁を覚えず」(中国唐代の詩人、孟浩然の詩「春暁」=春はよく眠ることができるから、夜明けに気づかず寝坊してしまう)の季節だが、現実には寝坊するのはもったいない光の季節がやってきた。近所の公園広場で続いている朝のラジオ体操は、寒い季節になると極端に参加者が少なくなる。冬季の日曜日には10人に満たないときもある。夏場の最盛期には40人ほどになるから、その落差は大きい。しかし3月になると休んでいた参加者が次第に戻ってきて、20人近くになってきた。寝坊よりも朝のすがすがしい空気を吸いたいという人が増えてきたのだ。  ラジオ体操が終わると、急ぎ足で散歩に向かう人たちの姿があった。その一部は私の散歩コースでもある調整池まで雉を見に行くという。先ほど、雉のことを話題にしていた人たちだ。辞典を見てみると、雉は日本古来のもの(1947年に国鳥に指定)と高麗雉と呼ぶ外来種のものがいて、特に後者は繁殖力が強く、増えすぎているという話もある。私はたまたま望遠レンズ付きのカメラを持っていたので、後ろに付いていき、美しい姿をした一羽の雄雉を撮影した。その画像は掲載した写真だが、どう見ても日本固有の雉のように見える。  この周辺では野良猫に餌を…

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1759 桜の季節そこまで 四季の美しさ見つめて

 シンガポールから東京にやってきた19歳の留学生が「初めて四季の美しさに目覚めた」ということを書いた新聞の投書を読んだ。「日本は四季がはっきりしていて、自然が美しい」といわれる。しかし、そうした環境に身を置くと、ついそれが普通と思ってしまいがちだ。この留学生のような瑞々しい感覚を取り戻す機会が間もなくやってくる。桜の季節である。  投書によると、この留学生は東京に住んで人生初の秋の季節を体験したのだそうだ。シンガポールは赤道直下で365日が真夏なのである。イチョウ並木のある街では木々が風に吹かれる音を聞き、落ち葉が道路を黄色く染めているのを見て「こんな絶景が日常にあるなんて」と感動し、道路の真ん中に立ち止まってしまったという。投書の後段がいい。「いつも前向きで一生懸命な日本の方々に少し立ち止まって自然のプロセスを味わってほしい」「効率性のためゆとりを犠牲にしている方が多いと思う。仕事や勉強に追われるあなた、たまには周りの景色を鑑賞してみませんか?」  私たちの日常に、この留学生が見たような風景は珍しくない。だが、がむしゃらに先を急ぐあまりにそれを見過ごしてしまい、無感動の日々を送ってしまうのだ。気象庁の発表によると、ことしの桜の開花は例年より早くなる予想で、無感動な人でもつい立ち止まって花を見上げてしまう日が近づいている。初めての桜をこの留学生も楽しみにしているに違いない。桜は昔からその美しさとともに無常観も漂っているとされていて、さまざまな和歌にも謳われている。西行の「願はくは 花の…

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1752『メロディに咲いた花たち』 人々に愛される四季の花と歌の本

 花をテーマにした歌は少なくない。四季折々の花を歌ったメロディは心を和ませてくれる。そうした花の歌を集めた『メロディに咲いた花たち』(三和書籍)という本が、このほど出版された。この本には歌の紹介に合わせてさまざまな花の写真も掲載されている。この頁の写真、「アザミ」(本では平仮名)の花は以前の私のブログに載せたものを提供したものだ。それにしても詩(詞)の題材として、多くの花が人々に愛されることをこの本は教えてくれる。  この本に出ている花は日本で咲いている90種である。日本ほど四季がはっきりしている国は珍しいといわれるが、四季に合わせ咲く花もバラエティに富んでいる。だれでも、季節の花とその花に合わせた歌を思い浮かべることができるだろう。これらの花の歌のほか、季節を問わず花をテーマにした歌(たとえば、森山良子さんが歌った「この広い野原いっぱい」やSMAPの「世界に一つだけの花」など)を加えた456の歌(ジャンルは童謡、唱歌、民謡、歌謡曲、フォーク、ロック、ニューミュージック、J-POPまで幅広い)が紹介されている。  アザミは俳句では春の季語になるが、この本では夏の花の中に織り込まれている。掲載されたのは①「あざみの歌」(詞・横井弘、曲・八洲秀章、1949年)、②「アザミ譲のララバイ」(詞・曲=中島みゆき、1975年)、そして③「少年時代」(詞・曲=井上陽水、1990年)の3曲である。以下のように簡単な紹介もある  ①NHKの番組『ラジオ歌謡』で放送され、後に伊藤久男の歌でレコード化…

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1750 厳寒の朝の話題 ジャーナリズムの原点

 今朝の最低気温は氷点下1度で、この冬の最低を記録した。寒い地方の人から見れば、千葉はその程度なのといわれるかもしれないが、やはり体にこたえる。毎朝、近所の広場で続いている6時半からのラジオ体操の参加者は、真夏だと約40人いる。それなのに今朝は9人しかいなかった。  朝6時に家を出て、近くの遊歩道を歩いている。春から秋まではこの時間は明るくなっていて、街灯のない調整池周囲の遊歩道を回る。冬の間は街灯のある別の遊歩道を歩くコースに切り替えた。東南の空に右斜め上から月、木星、金星の順で輝いている。見事な天体ショーである。ノルディックウォーキング用のポールを使って歩き始めると、10分もすると、体が温まってくる。犬の散歩、ジョギングの人もいる。  途中、開花している紅梅が目に入った。沖縄では「寒緋桜」(緋寒桜ともいう)が咲いたというニュースが出ていたが、こうした寒い季節でも自然界は確実に春に向かって息づいていることを感じる。今朝、配達された新聞を見ると、厚生労働省による「毎月勤労統計」の不正問題が一面に載っていた。特別監査委員会の外部識者が実施した同省の幹部への聞き取り調査に官房長が同席し、質問までしたという。これを許した外部識者もどうかしていると思う。読者の声欄には「政治、官僚、国の制度の劣化」を嘆く声が出ていた。創造力・想像力が欠如し、柔軟な発想ができなくなってしまった組織に未来はないことをこのニュースは如実に物語っている。  一方、スポーツ面には全豪オープンで優勝した大坂なおみ選手…

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1725 けやきの遊歩道無残 紅葉奪った塩害

 街路樹のけやきの葉の色がことしはおかしい。例年なら赤や黄、茶の3色に紅葉して美しい秋を演出するのだが、ことしに限って美しさが失われてしまった。よく観察してみるとほとんどの葉が褐色(こげ茶色)になっている。文字通り枯れ葉といった印象なのだ。その原因は台風による塩害だと思われる。この街に住んで30年以上になるが、初めての現象に出会った。  私が住む千葉市はことし9月30日夜、台風24号が通過した。この台風は9月21日にマリアナ諸島で発生したあと、海面水温の高い所を進んだことから猛烈な勢力に発達した。29日には沖縄付近を「非常に強い」勢力で通過し、その後は北東へ進んだ。30日午後8時ごろに非常に強い勢力を保ったまま、和歌山県田辺市付近に上陸、その後近畿から中部、関東、東北を縦断し、北海道東部の沖合へと進み、10月1日に温帯低気圧に変わった。非常に強い勢力で台風が上陸したのは、21号(9月4日、徳島県南部に上陸し近畿地方を中心に大きな被害を出した)に続いて2個目。非常に強い勢力の台風が1年に2個上陸するのは、統計を取り始めてから初めてだったという。  沖縄から東北にかけて広く記録的な暴風となり、関東でも八王子で最大瞬間風速45.6メートルを観測し、全国で大規模停電があり、首都圏では倒木などで鉄道の運転見合わせが相次いでことは記憶に新しい。沿岸部ではこの強風に乗って多量の海塩粒子が運ばれ、ケヤキの葉もやられてしまったようだ。台風が過ぎたあと車を洗っている人が多かった。車も風で飛んできた海塩粒子…

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