1929 文芸作品に見る少年たち 振り返る自分のあの時代

 最近、少年をテーマにした本を続けて読んだ。フィクションとノンフィクションに近いフィクション、ノンフィクションの3冊だ。読んだ順は馳星周『少年と犬』(文藝春秋)、高杉良『めぐみ園の夏』(新潮文庫)、佐藤優『十五の夏』(幻冬舎文庫)になる。それぞれの作品に出てくる少年の姿を想像しながら、遠くなった私自身の少年時代を振り返った。それにしても、佐藤優が15歳の高校1年生の夏に体験した東欧諸国一人旅は、私の想像を超えていた。

続きを読む

1920 旭川を愛し続けた人 少し長い墓碑銘 

「せきれいの翔(かけ)りしあとの透明感 柴崎千鶴子」 せきれいは秋の季語で、水辺でよく見かける小鳥である。8月も残りわずか。暑さが和らぐころとされる二十四節気の「処暑」が過ぎ、朝夕、吹く風が涼しく感じるようになった。晩夏である。遊歩道に立つと、写真のような透明感のある風景が広がっている。空には今日も雲がない。そんな空を見上げながら、北の地に住んでいた先輩の旅立ちを偲んだ。

続きを読む

1882 「今しかない」 短い文章で描くそれぞれの人生(1)

 それぞれの人生を垣間見るような思いで、凝縮された文章を読んだ。埼玉県飯能市の介護老人保健施設・飯能ケアセンター楠苑(1997年6月2日開設、定員98名)石楠花の会発行の『今しかない』という44頁の小冊子である。頁をめくるとほとんどの文章が毛筆で書かれ、それぞれにカラーの絵が付いている。永劫回帰(永遠回帰)という言葉がある。宇宙は永遠に循環運動を繰り返すものだから、人間は一瞬、一瞬を大切に生きるべきだという、ドイツの哲学者ニーチェの根本思想だ。コロナ禍によって世界中で多くの命が失われている。こんな時だけに「今を生きる」「今しかない」という思いを大事にしたい。この冊子はそれを実感させ、生きることの大切さを教えてくれる。心が温かくなる冊子の内容を、2回に分けてお届けする。(一部略してあります)  この冊子は、楠苑の利用者や同苑を支えている人たちがどんな人生を歩んできたかを振り返ったもので、斎藤八重子さんが中心になって聞き書きを基に編集したという。私に冊子を送ってくれた友人の大島和典さんは、この施設で月1回開催の「ハーモニカと一緒に歌いましょう」という企画で、ボランティアとしてナレーションを受け持っている。現在、コロナ禍のためこの催しは休止中だが、協力者たちはさまざまな企画を考えており、「今しかない」の冊子も利用者たちとの会話から創刊へと発展したという。  大島さんは、冊子に以下のような文を書いている。(要約)  素晴らしいタイトル(「今しかない」)だと思う。このフレーズは、残された人…

続きを読む

1858 何も悪いことをしていないのに……上野敏彦著『福島で酒をつくりたい』を読む

 9年前の東日本大震災は多くの人々に大きな影響を与えた。特に原発事故の福島では、今なお避難先から住み慣れた故郷に戻ることができない人々が数多く存在する。山形県長井市で「磐城壽」という日本酒づくりに取り組む鈴木酒造店も原発事故によって福島を追われた蔵の一つである。上野敏彦著『福島で酒をつくりたい「磐城壽」復活の軌跡』(平凡社新書)を読んだ。「インパクトの強さが前面に出た港の男酒だったが、長井で造り続けるうち酒質にクリア感が生じてきて、飲みごたえと酒に清らかな美しさを感じるようになった」(同書より=酒食ジャーナリスト)という磐城壽。この本には、浪江の蔵元が避難先の山形でどのようにして復活したのか、酒造りへの希望を失わなかった一家と、それを取り巻く人々の姿が丁寧な取材を基に描かれている。  私は日本酒をほとんど飲まない。しかもこの本にあるように、かつて私の出身地である福島は安価な酒を大量に造る県として知られ、郷里の酒もこの部類に入っていた。こうした事情もあり、ほかの酒に比べ日本酒に対する興味は薄く、浪江町の「磐城壽」という銘柄も全く知らなかった。その磐城壽の鈴木酒造店は3・11の津波で被災し、さらに原発事故により一家で浪江を去らざるを得なかった。山形県米沢市のビジネスホテルに避難した一家は、この後長井市の蔵を借りて、この年の11月から酒造りを再開する。そして、震災から9年。ことし7月に浪江町に完成する道の駅には醸造施設も建設され鈴木酒造店も年間5万3千本の酒を造る計画が発表され、福島で酒を造りたい…

続きを読む

1857 不条理の春がきた コロナウイルス蔓延の時代に

 ドイツの文豪、ゲーテ(1749~1832)は、人が年をとることについて様々な言葉を残している。最近のコロナウイルス問題に関して、高齢者による無分別な行動のニュースを見たり読んだりしていると、自戒を込めてゲーテの言葉の意味を考えてしまう。以下はゲーテの年老いることを含んだ言葉である。  年をとることにも一つの取り柄はあるはずです。  それは、年をとってもあやまちは避けられないとしても、  すぐ落ち着きを取り戻すことができるということです。                (「タッソー」より)  寛大になるには、年をとりさえすればよい。どんなあやまちを見ても、自分の犯しかねなかったものばかりだ。                (「格言と反省」より)  老人は人間の最大の人権の一つを失う。老人は対等なものからもはや批判されない。                (同上)  年をとることは、何の秘術でもない。  老年に堪えることは、秘術である。                  (「温順なクセーニエン」より)  若者は条理にそむくと、  そのために長い苦痛に陥る。  老人は条理にそむいてはならない。  命が短いのだから。                  (同上)  最後の言葉に出てくる「条理」は、物事の道理、すじみち(広辞苑)のことである。「常識」と言い換えてもいいかもしれない。ゲーテは「老人は条理にそむいてはならない」と警告する。しかし、コロナウ…

続きを読む

1849 福島の昆虫や野鳥に異変か「慢」の時代への警鐘

 福島に住むジャーナリストの大先輩から届いた賀状に気になることが書かれていた。昨年からトンボが飛んでいない、コオロギの鳴き声も聞こえない、セミの声は弱々しい、ホタルの光も印象が薄い……。昆虫だけでなくスズメやツバメなどの野鳥の数も減ったように思う、というのである。間もなく東京電力福島原発事故から9年。福島に何かが起きているのだろうか。  大先輩は、福島の自然界の最近の実態に触れたあと、こんなふうに記している。「放射能の数値は懸命な除染活動もあり、自然放射能の数値範囲に入るようになりました。しかし9年という時の積み重ねの影響が、無防備の昆虫や野鳥に出てきたのかと心が重くなる。高齢による視力の衰え、聴力もおぼつかなくなったせいとは思いつつ、杞憂であることを祈りたい」  私も「杞憂」であってほしいと思う。日本人は「熱しやすく冷めやすい国民性」といわれ、あの3・11を忘れてしまった人は少なくないのではないか。だが、福島は原発事故以前の姿に戻ることはない。大先輩の賀状を読みながら、宮沢賢治が教え子に送った書簡で「慢」という言葉を記したことを思い出した。  私のかういふ惨めな失敗はたゞもう今日の時代一般の巨きな病、「慢」といふものの一支流に過って身を加へたことに原因します。  この書簡は、自身を振り返っての賢治自身の反省と同時に、「『慢』がはびこりがちな時代への文明批評的な響きも感じられる」(高橋郁男『渚と修羅』コールサック社より)という。大先輩の不安は、健忘症ともいえる私たち多くの日…

続きを読む

1823 生後半年で死んだ妹のこと 知人の続・疎開体験記

 ことし7月、知人の疎開体験記をこのブログに掲載した。知人にとって、自分史の一部である。今回、知人の許しを得て疎開後に起きた妹の死の記録を掲載する。(登場人物は一部仮名にしております)  仏教用語で「会者定離」(えしゃじょうり)という言葉がある。これは、会うものは必ず別れる運命にあり、人生は無常なものであることを指す。唐詩選にも「花發多風雨 人生足別離」(花発(ひら)けば風雨多く、人生別離足(おお)し』という詩がある。この詩を訳した作家の井伏鱒二は「人生足別離」のくだりを「『サヨナラ』ダケガ人生ダ」という味わい深い言葉にした。人生はこれらの言葉の通り、様々な別れから逃れることはできない。だが、大切な人との出会いと思い出は心の奥深く残っているのである。  前回のブログ  1797 時間に洗われ鮮明になった疎開体験 「カボチャとゼンマイえくぼ」のこと 「良子」  終戦後まだ混とんとしていた昭和22年3月3日、良子は生まれた。当時、私は7歳半、妹道子は6歳半、弟隆は4歳であった。そこへ4番目が加わった。器量良しとの評は、おそらく両親が自慢して言ったものであろうが、戦後のこととて良子の写真はまったく無い。  戦争末期に秋田に疎開していた私たち家族は、終戦の年の暮れから大宮市の氷川神社のすぐ隣に有った父の伯父・高橋の邸宅に移り2部屋を借りて暮らしていた。その一隅に良子は寝かされた。子供たちは、その布団のそばにじり寄って生まれて間もない妹を覗きこんだりした。  父は少年時代の…

続きを読む

1810 心に残る木 9月、涼風を待ちながら

 知人の古屋裕子さんが日本気象協会のホームページ「tenki.jp」で、季節にまつわるコラムを担当している。直近は「さあ9月、『秋』への予感を感じるために!」と題し、「木」に関する話題を取り上げている。(「誰でも持っている心に残る木」「大木はやすらぎと信仰の場所」「木は生活に欠かすことのできない潤い」)分かりやすい言葉で書かれた古屋さんの珠玉のコラムを読みながら、私の心に残る木を考えた。  かつて私の生家の庭に、一本の古木があった。樹齢数百年の五葉松である。これが私の場合の「心に残る木」だ。この木については以前のブログで書いているが、改めて触れてみる。    樹高12、3メートルくらい、品があり、わが家の庭ではいちばん目立つ木だった。長い年月の風雪に耐え抜いた幹には、大きな空洞ができていた。ある年から、その穴にフクロウが住みついた。卵を産み、ヒナがそこからふ化した。ある日、私と兄は五葉松にはしごをかけ、フクロウがどこかに飛んで行っていないことを見越し(フクロウは夜行性といわれるが、昼に活動することもあるそうだ)、交互にはしごに乗ってフクロウの穴に手を突っ込んだ。中には卵が3、4個あり、私たちはその卵を取ってご飯にかけて食べてしまった。2人とも小学生でわんぱく盛りのころのことである。その後、フクロウがいつまでこの松に卵を産んだかは覚えていない。何年かが過ぎ、大きな台風でこの五葉松は根元から横倒しになった。  植木屋さんに頼んで、倒れた松は元に戻し、傷ついた幹と枝には保護用のわらが巻か…

続きを読む

1797 時間に洗われ鮮明になった疎開体験 「カボチャとゼンマイえくぼ」のこと

 改元で平成から令和になり、昭和は遠くなりつつある。多くの国民が未曽有の犠牲を強いられた戦争が終わって74年になる。時代の変化、世代の交代によって戦争体験も確実に風化している。しかし、当事者にとって歳月が過ぎても決して忘れることができないものがある。最近、知人が書いた少年時代の疎開体験記を読んだ。そこには、戦争がもたらした悲しみの日常が記されていた。戦時中の疎開体験は、知人のこれまで歩んできた人生で大きな位置を占めているのだろう。 「この時代(疎開)から現在までに20年が過ぎている。しかし、それだけの時が過ぎて、私には東北の半歳が私に刻みつかたものが何であるのか、正確には判らない。ただ判るのは、体験が時間に洗われて、より鮮明に私の心に重く腰を据えているだけである」。秋田への疎開体験を持つ作家の高井有一(元共同通信文化部記者)が、疎開先で自殺した母と一人取り残された少年を描き、芥川賞を受賞した『北の河』の中で、こんなことを書いている。「体験が時間に洗われて、より鮮明に心に重く腰を据える」という言葉は、知人にも共通するのではないかと思われる。  鎮魂の季節である8月が近づいてきた。以下、知人の体験の概略を紹介し、少しだけ私の個人的感想を付け加える。  ▽列車からの飛び降り  1945(昭和20)年3月下旬、5歳だった知人は母と妹、弟の4人で秋田県のある山間の村の国鉄駅近くに東京から疎開し、遠縁になる農家で間借り生活を送ることになった。教職に就いていた父親は病歴のために兵役を免れ、仕事のため東京…

続きを読む

1787 愉快な戦争はほかにないと子規 激しい日本語の野球用語 

「実際の戦争は危険多くして損失夥し ベース、ボール程愉快にてみちたる戦争は他になかるべし」。正岡子規は元気だった学生時代のころ野球に熱中し、随筆「筆まかせ」に、こんなふうに記した。子規が愉快な戦争と書いた野球だが、日本語の野球用語には解説者が「何とかならないかと思う」というほどの激しい言葉が使われている。  翻訳された野球用語の激しさについて語ったのは、元大リーガー(投手)の斎藤隆さんだ。大リーグの大谷翔平選手(エンゼルス)と前田健太投手(ドジャース)の対決となったNHKの米大リーグ試合中継で、斎藤さんが話すのを聞いて、なるほどと思った。確かに「殺」や「死」「盗」「暴」「邪」といったマイナスイメージの漢字が使われている。併殺(ダブルプレー、ゲッツー)、三重殺(トリプルプレー)、犠打(バント)、犠飛(犠牲フライ)、死球(デッドボール)、盗塁(スチール)、本盗(ホームスチール)、邪飛(ファウルフライ)、暴投(ワイルドピッチ)、一死、二死(ワンアウト、ツーアウト)、○○弾(○○ホームラン)……。  以上は思いつくままに書いてみたのだが、ふだん新聞のスポーツ面を何気なく見ていて、特に気にすることがない。長い間使われているためか、特に違和感はない。だが、斎藤さんに言うように、けっこうきつい言葉なのである。これに気が付いた斎藤さんは繊細な人なのだろう。野球用語はこの先変わるのだろうか。  ところで、子規は冒頭の言葉の前に野球の面白さについて書いている。 《運動にもなり しかも趣向の複雑…

続きを読む

1767辞書を引きながら…… 無常を感じる新元号発表の日

 新聞、テレビが大騒ぎをしていた新元号が「令和」と決まった。多くの人たちは西暦表記に慣れているので、元号が替わっても何の影響もないが、元号とは何なのだろう。「元号法」という法律もあるが、よく分からない。「令」も何となく違和感がある。  元号法は2つの条文しかない。「1、元号は、政令で定める。2、元号は、皇位の継承があった場合に限り改める。」(三省堂『新六法』)これだけである。法律にはその法律を定めた意義や目的が掲げられているのだが、なぜか元号法にはない。仕方なく、辞書を引いてみた。  新明解国語辞典(三省堂)では「その天皇在位の象徴として、年に付ける名称。[明治以降は一代一元に定められた]」とあり、広辞苑(岩波書店)には「年号に同じ」という説明が書かれていた。広辞苑で「年号」を引くと、「皇帝が時をも支配するという思想から中国・漢の武帝の時に「建元」(西暦紀元前140年)としたのが始まりで、日本では645年に「大化」としたのが最初。天皇が制定権を持ち、即位や祥瑞(めでたいこと)、災異(天変地異)その他によりしばしば改めたが、明治以降は一世一元となり、1979年公布の元号法も、皇位の継承があった場合に限ると規定」(一部略)――とあった。こうした歴史の経緯や元号法の規定を見ても明らかのように、元号は天皇制と密接につながっていることが理解できる。  新元号の「令和」に関しては、万葉集の大伴旅人の梅の花の歌の序文(新春例月、気淑風和)が典拠という解説が新聞にあり、「和」については特に説明…

続きを読む

1766 体は小さくても  貴景勝の可能性

  大相撲の貴景勝が大関に昇進することが決まった。平均身長184センチ、同体重164キロと大型化した大相撲の世界で、体重こそ170キロと平均を上回るものの、身長は175センチと決して大きくはない。スポーツは体の大小だけではないことを貴景勝の活躍が示している。 「その体で十両は無理といわれた。押し相撲で幕内は無理、三役は無理、大関は無理と言われた。そう言われても頑張れるし、美学じゃないがそれしか生き残る道はないと思っている」。テレビのインタビューを見ていたら貴景勝はこう言い、「次は上を目指す」と大関は通過点に過ぎないと口にした。大関伝達の使者に対しては「武士道精神を重んじ、感謝の気持ちと思いやりを忘れず、相撲道に精進してまいります」という口上を返した。彼の話を聞いていると、考え方がしっかりしている。22歳の若者を見直す思いでテレビを見た。  体が小さいといえば、大リーグのヒューストン・アストロズにホゼ・アルトゥーベ(ベネズエラ)という2塁手がいる。公表されている身長は5フィート6インチ(167・5cm)だ。実際はこれよりも小さい165cmという報道もある。いずれにしろ、現役メジャーリーグで最も身長が低い(体重は約75キロ)選手なのだ。しかし、この小さな体でこれまでに首位打者3回、盗塁王2回 MVP1回(アメリカンリーグ)を獲得し、「小さな巨人」と呼ばれている。  大柄が当然な相撲や野球の世界で、小さいといわれる自分の体を生かして活躍する2人を見ていて、力が湧く子どもたちも多いのでは…

続きを読む

1764 日米で特別な存在に イチローの引退

 大リーグ・マリナーズのイチロー外野手(45)が東京ドームの開幕2戦目後、現役引退を表明した。13年目に入ったこのブログでイチローをこれまで6回取り上げている。それだけ、イチローは気になる存在だったといえる。人生には「特別な一瞬」があるが、21日夜の、東京ドームはイチローにとってまさにその時間だったといえる。  大リーグ、マリナーズとアスレチックスの試合は地上波の日本テレビが途中まで中継した。その後はBS(日本テレビ)放送のサブチャンネル(映像がかつてのアナログ放送のように粗い)で放送され、8回裏、一度ライトの守備に就いたイチローが交代すると、マリナーズの選手全員が守備位置を離れ、3塁側のベンチ前に戻ってイチローを出迎え、抱擁する場面が演出された。延長戦までもつれ込んだ試合が終わってからも観客は帰らず、しばらくしてイチローが再登場、ファンに何度も手を挙げて別れを告げた。 「人生の特別な一瞬というのは、本当は、ごくありふれた、なにげない、あるときの、ある一瞬の光景にすぎないだろう。(中略)ほとんど、なにがなく、あたりまえのように、そうと意識されないままに過ぎていったのに、ある一瞬の光景だけが、そこだけ切りぬかれたかのように、ずっと後になってから、人生の特別な一瞬として、ありありとした記憶となってもどってくる」(詩人、長田弘詩集『人生の特別な一瞬』晶文社・より)  日米4367安打(NPB1278、MLB3089)という不世出の記録を作り出したイチローにとって、思い出に残る場面は数多…

続きを読む

1762 無頼の人がまた消えた 頑固記者の時代は遠く

 私がこの人に初めて会ったのは、ホテルオークラと米国大使館側の裏玄関からエレベーターに乗った時だった。共同通信社はかつて赤坂にあった(現在は汐留)。7月。この人は白系統のサマースーツ姿で、まぶしいばかりだった。東京の人は気障だなと思った。名前は知らないが、少し崩れた雰囲気から社会部の人だと直感し、あいさつした。「今度仙台から転勤してきました石井です」と。正解だった。すると、この人は「君が石井君か。警視庁担当の板垣だ、よろしく」と、低音だが、よく響く声で返してくれた。それが無頼記者、板垣恭介さんとの出会いだった。その板垣さんが3月13日に亡くなった。86歳だった。  板垣さんは根っからの事件記者だが、皇室も担当した。板垣さんの著書『無頼記者』『続無頼記者』(以上、マルジュ社)、『明仁さん、美智子さん、皇族をやめませんか  元宮内庁記者から愛をこめて」(大月書店)を読むと、その反骨ぶりが浮き彫りになる。反骨とはいえ、取材対象から愛された記者だった。宮内庁担当時代、記者会見の際に美智子皇后(当時は皇太子妃)にたばこの火をつけてもらったこともあるといい、週刊誌にも載った。  無頼記者を気取ってはいたが、実は生真面目であり、神経はこまやかだった。犯罪史に残る「3億円事件」が時効を迎えた1975(昭和50)年、私はこの取材班の一員となり、東京三多摩地方の隅々を取材した。当時板垣さんは警視庁担当キャップだった。取材内容を連載記事にまとめるにあたって、もう一人の社会部デスク(板垣さんとウマが合った菊池…

続きを読む

1758 ほろ苦い青春の一コマ 肘折こけしで蘇る

 先日、友人たちとの会合で懐かしい地名を聞いた。「肘折」(ひじおり)という知る人ぞ知る地域だ。山形県最上郡大蔵村にあり、温泉とこけしで知られている。日本でも有数の豪雪地帯で多いときは4メートルを超すというが、今日現在の積雪量は約2・3メートルだから、この冬は雪が少ないようだ。私の家には数本のこけしがあり、その中に「肘折 庫治」と書かれた1本も含まれている。肘折系こけし工人で著名な奥山庫治の初期の作品なのだが、このこけしを見る度にほろ苦い経験を思い出す。  今から45年前に遡る。1974(昭和49)年4月のことである。大蔵村赤松地区の松山(標高170メートル)が崩れ、土砂は住宅20棟を飲み込み、下敷きになった住民17人が死亡、13人が重軽傷を負う惨事になった。当時、共同通信社の駆け出し記者として仙台支社に勤務していた私は、他の記者やカメラマンとともにこの事故現場に急行し、数日間不眠不休で取材に当たった。  現場の山形県は山形支局のカバー内にあるのだが、支局は記者の数が少なく大きな事件事故が発生すると、仙台支社から応援に行くシステムになっていた。それは今も変わらないはずだ。私はこの年の3月、福島支局がカバーする福島県三島町で発生した国道の土砂崩れ事故現場にも駆け付けた。建設中だった国道の防護壁が雪解けのため崩れ落ち、通行中のマイクロバスと乗用車2台を直撃、8人が死亡、2人が重軽傷を負ったのだ。三島町は福島県会津地方にある豪雪地帯で、車で取材に向かう道路の両脇にはうず高く雪が積もっていた。 …

続きを読む

1757 知的好奇心あふれる人たちとの出会い なぜ本を読むのか

 人はなぜ本を読むのか。それぞれに考え方はあるだろう。ルネサンス期の哲学者、ベーコンの考えは一つの見識でもある。それは時代が変わっても共感できる部分が少なくない。スマートフォンの時代となり、読書人口は減っているといわれる。だが、やはり読書は人生にとって欠かせない重みを持つ。  ベーコンは読書に関して、『ベーコン随想集』「50 学問について」(岩波文庫・渡辺義雄訳)の中で以下(要約)のように述べている。「書物は(1)反論し論破するために、(2)、信じて丸吞みするために、(3)、話題や論題を見つけるために―― 読んではならない。熟考し熟慮するために読むがいい。ある書物はほんの一部だけ読むべきで、他の書物は読んでも念入りにしなくてもよく、少しの書物が隅々まで注意深く読むべきものだ。読書は充実した人間をつくる(英文学者の福原麟太郎は、読書は満ちた=心豊かな=人をつくる=と訳した)」    ベーコンのこの随想は、私にとって耳の痛いものだ。つい3つの読んではならない読み方をしてしまうからだ。私だけでなく、人はともすればこのような本の読み方に陥ってしまっているのではないだろうか。そんな反省をしながら、現在読んでいるのが梨木香歩の『僕は、そして僕たちはどう生きるか』(岩波現代文庫)である。吉野源三郎の名著『君たちはどう生きるか』の主人公と同じ中学2年生で、あだ名も一緒のコペルという少年が登校拒否の友人宅で1日を過ごす中、生きることについて考える物語である。「熟考し熟慮するために」読む本でも…

続きを読む

1756 消えゆく校歌 ラオスとベトナムで歌い継がれる2つのメロディー

 いま、日本の各地から懐かしいメロディーが消えつつある。校歌である。少子高齢化に伴う人口減少、東京をはじめとする大都市圏への人口の一極集中などによって公立学校の廃校が相次いでいるからだ。当然、校歌を歌う子どもたちの姿は少なくなり、校歌は卒業生の思い出の中に残るだけになってしまう実情が続いている。こんな中、福島県で間もなく廃校になる小学校と統合で消えた小学校の2つの校歌が東南アジアの山岳辺境地帯で歌われているという。嬉しい話題である。どんな経緯があったのだろうか。  文科省の発表によると、原発事故に見舞われた福島県では2002年から2015年度までに全国で10番目に多い158の小学校が廃校になった。福島市に拠点があるNPO特定非営利活動法人シーエスアールスクエア(CSR2)の宍戸仙助理事長は元教員だ。宍戸さんが40年前初めて教諭として勤務した石川郡浅川町立里白石小学校もことし3月末で廃校になる。浅川町に隣接する石川町には高校野球で知られる学法石川高校がある。甲子園に何回も出場したから、高校野球ファンに知られた高校だ。当然、里白石の小、中学校で学んだあと学法石川に学んだ人は珍しくないはずだ。  CSR2は主として福島県や東京都の小中学校の児童生徒や保護者を対象に出前授業と講演会を行い、東南アジアの山岳少数民族の村々でたくましく生きる子供たちの様子を伝え、募金や文房具、スポーツ用具を現地(ベトナムやラオス)の子どもたちに贈る活動をしている。宍戸さんは小学校の教師を長く務め、校長で定年退職した…

続きを読む

1747 苦しい経験を生きる糧に 引退の稀勢の里へ

 大相撲の横綱稀勢の里が引退した。横綱在位12場所、15日間を皆勤したのはわずか2場所という短命な横綱だった。記録面から見ると、不本意な力士生活の頂点だったといえる。だが、なぜか気になる存在だった。それは相撲ファンに共通する見方だったかもしれない。  2017年春場所で左胸などに大けがをしながら出場し、奇跡の優勝といわれた。しかし、このけがが力士生命を奪う結果になった。横綱の引退でこれほど騒がれたのは、やはりけがが原因で土俵を去った貴乃花以来だろうか。不器用な力士といわれた稀勢の里は、多くのファンに愛された、まさに「記録より記憶に残る」横綱だった。  私はこのブログで、何回か稀勢の里を取り上げている。それを読み返してみると、大器といわれたこの力士へかなり期待していたことを痛感する。2012年5月25日の「 谷風、雷電と稀勢の里」、2016年7月25日の「あすなろ物語 横綱目指す稀勢の里」と、折に触れてこの人を取り上げた。相撲界は長い間、白鵬という大きな存在があり、それ以外の力士は霞んでしか見えなかった。そんな中で、稀勢の里は白鵬の連勝記録を2回も遮ったのだから、白鵬にとって一番嫌な相手だっただろう。  歴代2位の63勝まで連勝記録を伸ばした2010年九州場所2日目で白鵬に勝ったのは稀勢の里であり、2013年にも43連勝を続ける白鵬を春場所14日目にくだし、白鵬キラーになった。にもかかわらず、優勝をかけた大一番や今場所こそという時にことごとく失敗し、精神力の弱さを露呈し続けた。そん…

続きを読む

1746「魅力に満ちた伝統建築と風景のものがたり」続・坂の街首里にて(6)

 沖縄在住20年になる友人が、沖縄の建築物と風景を紹介するコラムを書き続けている。過日、その友人に会い懇談した。沖縄の魅力に惹かれて夫とともに本島中部の本部町に移住した友人はすっかり沖縄の人になっていた。  友人は馬渕和香さんといい、翻訳家の夫とともに23年前、埼玉県浦和市(現在のさいたま市)から奄美大島に移り住んだ。3年後、奄美大島から本部町のちゅら海水族館近くにある古民家に移り、20年になる。和香さんは沖縄の伝統建築に興味を持ち、既に朝日新聞デジタルに「沖縄建築パラダイス」という30回の連載コラムを書いている。  現在は「タイムス住宅新聞(沖縄タイムスの副読紙)ウェブマガジン」に「オキナワワンダーランド」というコラムを2016年4月から月1回のペースで連載、この1月で33回を数えた。コラムの説明には「沖縄の豊かな創造性の土壌から生まれた魔法のような魅力に満ちた建築と風景のものがたりを、馬渕和香さんが紹介します。」とあり、連載されたコラムの取材地は沖縄本島各地に及んでいる。「世界一小さくてやさしい美術館」(糸満市・6回目)や「石の家に息づく70年前の美術村」(那覇市・17回目)、「生まれ変わった戦前の泡盛屋」(名護市・32回目)等、沖縄に住んでいる人でも気が付かない魅力的な建物や風景、空間を分かりやすい記事と美しい写真で紹介している。  もちろん、自宅周辺の本部も登場する。13回目には陶芸家和田伸政さんの工房を紹介した「陶芸の楽しさ 沖縄でふたたび」を、24回目にはベネズエラ生…

続きを読む

1740 続・一筋の道 ある健康法

 知人の八木功さん(84)は、このブログで何回か取り上げていますが、東京・蒲田を中心に羽根つき餃子として有名になった「你好」(ニーハオ)の創業者です。9月の新橋店に続いて23日に新宿店が歌舞伎町にオープンしましたので、現在「你好」は宴会用の店を除いて11店になります。「アメリカン・ドリーム」という言葉がありますが、八木さんの場合もこれに当てはまり、まさしく「立志伝中の人」といえるでしょう。そして、その八木さんを支えているのが頑健な体なのです。  八木さんが心がけているユニークな健康法があるそうです。それはこんな内容です。  毎朝5時に起床し、布団の中で10分間お腹のマッサージをするそうです。お腹をもむことは血流や排便を促し、お腹に脂肪がつきにくくなるからです。さらに足腰や肩の筋肉を鍛えるため毎日1万歩歩くことを実践しています。夜はワインを少量飲み、フルーツを食べるのが日課です。84歳でもかくしゃくとしているのは、こんな背景があるのです。もちろん、栄養の補給にも注意しているそうです。朝はお腹のマッサージの後、おかゆを食べるのですが、この中にはゴマ、クコの実、ナツメ、白キクラゲ、クルミ、ピーナツ、麦、トウモロコシ、ハチミツ、さらに生卵も入れるのです。かなりの種類で驚きますね。気が向いた方は試してみてはいかがでしょうか。 「ゴマは栄養が豊富で便通を促し、髪も黒くなる。クコの実は肝臓と腎臓によく、骨も強くしてくれる。クルミはエネルギーの源になり、頭の回転が良く…

続きを読む

1729 ああ!妻を愛す 永遠の美を求める中山忠彦展

 中山忠彦は、日本の現代洋画界を代表する一人といわれる。ほとんどが自分の妻を描いた作品というユニークさを持つ画家である。千葉県立美術館(JR京葉線千葉みなとから徒歩で約10分)で開催中の「中山忠彦――永遠の美を求めて――」をのぞいた。それは驚きの展覧会だった。  驚いた理由は、展示されていたのがほぼ中山の妻、良江さんの絵だったからだ。次から次へと同じ女性を描いた作品が並んでいる。油彩画、版画、デッサンだけでなく、モデルとなった良江さんが着用したさまざまなドレス、帽子、扇子なども展示されている。  1935年に福岡県北九州市小倉区で生まれた中山は、高校卒業後文化勲章受章者の洋画家で、一貫して女性美を追求した伊藤清永(1911~2001)に師事、19歳で新日展に初出品(《窓辺》)して初入選、画家としての道を歩み始める。当初描いたのはほとんどが裸婦像だった。中山の画家としての運命を左右したのは良江さんだった。1963年、たまたま福島・会津への旅の途中の電車内で良江さんに会い、その美しさにひかれる。2年後に2人は結婚、その後は着衣の良江さんの絵を描き続けることになる。その結晶が今回展示されたおびただしい女性像だった。  結婚当時30歳だった中山は、現在83歳になる。当然ながら良江さんも同じ年輪を重ねた。順を追って作品を見ていくと、良江さんが微妙に変化していることに気が付く。だが、最近の作品を見ても「老い」は感じさせない。良江さんのドレス姿は違和感がなく、しかも年を増すごとに気品が漂うので…

続きを読む

1727 日韓草の根交流半ばの死 ある記者の思い出 

 日韓関係が危うい。韓国大法院の元徴用工に対する賠償判決、そして日韓両政府の合意で設立された慰安婦問題に対応する「和解・癒し財団」の韓国政府による解散表明は、嫌韓日本人を増加させている。こんな現状を見るにつけ、私は今年夏にこの世を去った一人の記者を思い出す。草の根交流を実践した人だった。  この人は、共同通信の元記者の備前猛美さんである。8月19日、現代では高齢とは言えない69歳で亡くなった。以前、胆管がんという難しいがんを手術し、病を克服したはずだった。大分の支局長を2回務め、自身は秋田出身なのに九州をこよなく愛した。社会部記者として警視庁捜査一課や厚生労働省を担当し、健筆を振るいながら、ダジャレ(オヤジギャグ)を連発する、ユーモアに富んだ人だった。  その備前さんがある時、韓国の文化賞をもらうことになりましたと言ってきた。そんな賞があることを彼は知らなかったそうだ。だから、それを聞いた私も当然、「何それ?」と思った。詳しい話は当時聞かなかった。だが最近、彼が書いた文章を読んでようやく経緯が分かった。草の根交流を実践してきたことに対する授与だったのだ。それは、彼と奥さんが一緒になって続けた無償の行動が認められたものだ。  以下に備前さんがこの文化賞受賞について書いた一文を掲載する。 《2010年初冬の韓国。ソウルのホテルの大会議場で、政財界、文化、スポーツ関係者約千人を集めて「第17回韓日文化交流会」が開かれた。韓国の民間団体「韓日文化交流センター」(姜星財代表)の主催。…

続きを読む

1721 餃子ランキング1位は? 食欲の秋の話題

「食欲の秋」である。四季の中で秋は最も食材が多く、食欲が増進する季節であり、猛暑で落ちた体力も回復し食べる楽しみが続く。そんな季節、餃子を口にする人も少なくないだろう。餃子の種類は数多く、好みも様々だ。日本経済新聞の土曜日の別刷り版「NIKKEI プラス1」に「何でもランキング」という特集がある。10月27日号は「ご当地餃子」のランキングが掲載され、そこには私の知人が営む店の餃子が1位になっていた。東京蒲田「你好」の羽根つき餃子である。  創業者の八木功さん(84)に連絡すると、自分の店の餃子が1位に選ばれ、写真付きで新聞に掲載されていることを知らず、その結果に驚いていた。このランキングは、焼き餃子協会(東京都港区)などの推薦を基に、取り寄せ可能なご当地餃子21種類を、商品同封のレシピにより料理研究家の指導で焼き、専門家11人が試食。皮の触感、あんの味など餃子としての完成度、家庭で食べる場合の楽しさ、見た目のインパクトなどの観点でポイント化、ベスト10を選んだという。1位から10位までは以下の通りである。  ①你好「羽根つき餃子」(800ポイント)  ②ぎょうざ宝永「チーズ餃子」(同610・北海道苫小牧市)  ③ミスター・ギョーザ「餃子」(同510・京都市)  ④餃子王国「黒豚生餃子」(熊本市)  ⑤餃子の馬渡「もっちり餃子」(宮崎県高鍋町)  ⑥浜太郎「浜松餃子 桜えび餃子」(浜松市)  ⑦黒兵衛「黒兵衛餃子プルーン」(福岡市)  ⑧琉珉珉「ゴー…

続きを読む

1716 茶道と25年の歳月 映画「日日是好日」

「日日是好日」という言葉を座右の銘にしている人がいるだろう。広辞苑を引くと「毎日毎日が平和なよい日であること」と出ている。元々は中国の『碧巌録』(へきがんろく)という禅に関する仏教書の中にある言葉だという。読み方は3通り(にちにちこれこうにち、にちにちこれこうじつ、ひびこれこうじつ)ある。この言葉を題名にした映画を見た。先月亡くなった名女優樹木希林と若手演技派女優黒木華が共演した、茶道と人生をテーマにした淡々とした日々をつづる映画だった。  私たち日本人は日常、お茶を飲んでいる。そのお茶(茶の湯)を通じて、精神の修養と人との交際の礼儀作法を極めようとするのが茶道である。映画は大学生の時から樹木扮する茶道の武田先生に師事する黒木演じる典子、従姉の美智子(多部未華子)を軸に四季折々の自然を背景に織り交ぜ、武田先生と典子の25年の歳月を描いている。  茶道の決まりごとに戸惑いながら、次第にこの道になじんでいく典子の20歳から45歳までの姿を黒木は演じ切った。就職に失敗し出版社のアルバイトを経てフリーライターの道を歩む仕事のこと、失恋と新しい恋のこと、父の死という家族の出来事、商社をやめて郷里で医者と結婚する道を選んだ美智子のことなどが黒木のナレーションを交えながら描かれている。干支や季節によって変わる茶碗や掛け軸、添えられる和菓子も印象的だ。  樹木希林の武田先生は背筋を真っすぐに伸ばし、いつも穏やかな表情をしている。全身を末期のがんに侵されながら、それを感じさせない演技は心に残るもの…

続きを読む

1714 2つの蜘蛛の糸 秋田の「命のまもりびと」

 「私たちの活動は、(死に向かって)落ちそうになる人を受け止めるサーカスの網のようなものです。生きていれば楽しいことがあります。相談者には生きることに勇気と希望を持ってもらいたいのです」。中村智志著『命のまもりびと』(新潮文庫)を読んだ。秋田県で自営業者の自殺を踏みとどまらせようと相談を受け続ける「NPO蜘蛛の糸」の佐藤久男さんの活動の記録である。著者は「自殺は社会問題」という。佐藤さんの活動の記録は、まさに現代の日本社会の断面を映し出している。  日本の自殺者数が3万人を超えたのは1998年だった。以後東日本大震災があった2011年まで14年連続して3万人を超えていた。ようやく2012年に15年ぶりに3万人を下回った。こんな時代、自殺率全国一という不名誉な記録を続けたのは秋田県だった。その秋田県で、たった1人で自営業者の自殺防止に立ち上がったのが佐藤さんだった。  佐藤さんは秋田県庁職員、不動産鑑定会社を経て34歳で独立、経営した不動産会社は最盛期には年商10億円を超えた。だが、銀行の貸し渋りなどによる景気低迷の影響で会社は2000年に倒産、うつ病になって自殺を考えるほどに追い込まれる。そんな体験を持つ佐藤さんは、2002年、蜘蛛の糸という中小企業経営者の自殺防止を目的にしたNPOを創設、事業につまずいて自殺の瀬戸際に立っている人たちの相談に乗り始めた。この本は①佐藤さんのNPO設立に至る半生とNPOの活動②日本の自殺防止対策の実情③東日本大震災後の岩手県での佐藤さんの活動ぶり―から…

続きを読む

1711 オプジーボと先輩からのメール 本庶佑さんのノーベル賞に思う

 職場の先輩Yさんが肺がんで亡くなったのは2017年3月のことだった。闘病中のYさんから、当時としてはあまり聞きなれない「オプジーボ」という薬を使っているとメールをもらったことがある。がん患者には光明ともいえる薬である。この薬の開発につながる基礎研究をした京都大特別教授の本庶佑(ほんじょ・たすく)さん(76)が2018年のノーベル医学・生理学賞を受賞することが決まったというニュースを見て、Yさんからのメールを読み直した。  本庶さんを中心とする京大の研究グループは1991年、免疫を抑制するタンパク質「PD-1」を発見、このPD-1が免疫反応のブレーキ役に相当し、ブレーキを外せば免疫力が高まってがん治療に応用できるというメカニズムを確立した。これが2014年9月、小野薬品工業(大阪市)が発売したがんの免疫治療薬「オプジーボ」(一般名ニボルマブ)の開発へとつながった。本庶さんの研究は、「20世紀の偉大な発見」といわれる抗生物質「ペニシリン」(1928年、英国のA・フレミングが青カビから発見)に匹敵するという評価もある。  Yさんからのメールは2016年4月6日付で、それ以前に「オプジーボ」を使い始めたことは電話で聞いていた。当時、私はこの薬についてほとんど知識はなかった。Yさんからは肺がん治療に有効なこと、保険が適用されないため3000万単位の費用がかかること、ただYさんは大学病院で治療を受けていたため研究用として扱われ費用はそうかからない―などを知らされた。オプジーボによる治療は数クール…

続きを読む

1708 不思議なキンモクセイの香り 郷愁を呼ぶ季節

 ことしも庭のキンモクセイの花が咲き始めた。花よりも、独特の香りで開花を知った人は多いのではないか。実は私もそうだった。植物の花はさまざまな香り(におい)がある。その香りは虫を呼び、受粉を助けてもらう働きがあるのだが、キンモクセイの花には虫(蝶類)が寄らないという。なぜなのだろう。    キンモクセイの花は若い女性が発するのと似たγ―デカラクトンという甘い香りのほか、何種類かの香りの成分があるのだそうだ。広島大の研究者はこの「γ―デカラクトン」という物質を昆虫が嫌うのではないかと推測している。たしかに、私はキンモクセイの花に蝶や蜂が寄っているのを見たことがない。甘くても昆虫類にとって嫌なにおいなのだろうか。  以前のブログで『失われた時を求めて』のことを書いたことがある。フランスの作家マルセル・プルースト(1871~1922)の20世紀を代表するといわれるこの長編小説には、主人公がマドレーヌ(フランス発祥の焼き菓子)を紅茶に浸したとき、その香りをきっかけとして幼いころの記憶が鮮やかに蘇るという描写がある。この有名な場面から、心理学や精神医学の世界では「プルースト効果」という言葉があるそうだ。ブログにはこのことに触れ、私の場合は濃いお茶を飲みながら羊羹を食べているときのにおいから幼い時代を思い出すことがあると、プルーストファンから叱れるようなことを書いた。  私のことは別にして、キンモクセイの香りから、幼少期の秋の日の一コマを鮮やかに脳裏に浮かべる人も多いかもしれないと思ったりする。…

続きを読む

1707 感動の手紙の交換 骨髄移植シンポを聴く

 命が大事であることは言うまでもない。人間にとってそんな基本的なことをあらためて考える機会があった。骨髄移植に関するシンポジウムでのことである。骨髄移植。日常的にはこの言葉を聞くことは少なくない。だが、その実情は私を含め、多くの人は知らないのではないか。人生は生と死かない。この世に生を受けた以上、だれもが幸福で豊かな人生を送りたいと思う。だが、そうは行かない。それをこのシンポジウムで痛感した。  9月16日、横浜市の神奈川県民センターで開かれた「今、ドナーに希望を求めて~あなたの勇気が命を救う~」という骨髄移植に関するシンポだった。総合司会を担当した友人が会員である「神奈川骨髄移植を考える会」が主催した。骨髄移植は、提供を承諾した人(ドナー)の骨髄細胞を取り出し、白血病や再生不良性貧血など血液に関する難病の患者の静脈内に注入して移植する治療方法だ。友人もこの手術を受け、元気になった。  この日のプログラムは、東海大医学部の矢部普正教授(再生医療科学)による骨髄移植とはどんなものかという講演と、矢部教授も参加した骨髄移植の元患者・ドナーを交えたシンポだった。ドナー側は俳優の木下ほうかさん、移植体験者は池谷有紗さんという若い女性だった。コーディネーターを務めた大谷貴子さん(全国骨髄バンク推進連絡協議会顧問)も移植経験者だった。  池谷さんは大学在学中の2013年のある日、体調の異常を感じた。最初の病院では何でもないといわれたが、皮膚に湿疹ができたため診療を受けた次の病院で白血病ではな…

続きを読む

1704 大谷の二刀流復活記念日は? けがとの闘い1年を振り返る

 俵万智の歌集『サラダ記念日』(河出書房)が280万部というベストセラーになったのは、31年前の1987年のことだった。歌集には題名となった「『この味がいいね』と君が言ったから七月六日はサラダ記念日」の短歌が収められていて、「記念日」という言葉が強く印象に残った。さて、きょう13日は私にとってもある記念日なのである。  それはあまり思い出したくない記念日だ。昨年9月13日夕、右足の大腿四頭筋断裂というけがをしたことはこのブログでも触れている。あれから1年になった「記念日」なのである。手術・1カ月の入院、リハビリを経てほぼ完治に近い状態になった。得難い体験だったし、繰り返したくない体験でもあった。  人は加齢とともに体のさまざまな部分に勤続疲労ともいえる不調が出てくる。それは致し方がないことだが、私の場合は公園のぬかるんでいた斜面で写真を撮影している際、足を滑らせ転倒するという過失によってのけがだった。10月中旬まで入院し、平日は午前午後で3回、土日、祝日は2回のリハビリを続け、退院後も12月末までリハビリに通い理学療法士のお世話になった。並行して近所のスポーツジムでマシンを使って筋肉トレーニングを始めた。当初、痛めた右足は真っすぐ伸ばすことはできるが、膝を折ることはなかなかできなかった。  1月からはジムでのリハビリ(筋力トレーニングと水泳)のほか、朝夕の散歩を日課にした。朝の散歩の仕上げはラジオ体操だ。こうした毎日の繰り返しで次第に右足は回復、膝を折ることも可能になった。時々痛…

続きを読む

1698 戦争に翻弄された世界のフジタ 2枚の戦争画は何を語るのか

 太平洋戦争中、画家たちは軍部の依頼・指示によって国民の戦意高揚を意図する絵を描いた。エコール・ド・パリの画家として知られる藤田嗣治もその一人だった。東京都美術館で開催中の「藤田嗣治展」で、そのうちの2枚を見た。彼を有名にさせた「乳白色の画」とは異なる迫真性に富んだ作品だ。あの戦争が終わって73年。意外にも、この2枚の大作の前で足を止める人はあまりいなかった。     その絵は『アッツ島玉砕』(1943年作)と『サイパン島同胞臣節を全うす』(1945年作)である。北アメリカのアッツ島は1942年6月、日本軍がミッドウェー作戦の陽動作戦のためにキスカ島とともに占領し、熱田島と改称した島だ。翌43年5月12日から米軍との間で激しい戦闘があり、日本軍守備隊2600人が戦死し、大本営は初めて「玉砕」という言葉を使い、この島での日本軍の全滅を発表をした。  また、サイパン島は北マリアナ諸島にあり、第一次世界大戦で日本軍がドイツ軍を放逐。1920年から日本の委任統治領となり、軍の司令部が置かれ、沖縄出身者を中心に3万人近い民間人が暮らしていた。1944年6月、連合軍が上陸、日本軍との間で激しい戦闘が続き、日本軍は3万人が戦死して全滅した。戦いに巻き込まれた住民は自決したり、バンザイ・クリフという崖から海に投身したりするなどして8000~1万人が死亡した。サイパンを奪還した米軍は、日本本土を爆撃するB29爆撃機の発進基地とし、以降日本全国が空襲に見舞われるようになる。  2枚の絵はこうした戦争の…

続きを読む