1814 北海道に生きた農民画家 神田日勝作品集から

 絶筆の馬が嘶く(いななく)夏の空 農民画家といわれた神田日勝さんが32歳でこの世を去ったのは、1970年8月25日のことである。絶筆となった絵は、この句(妻の神田美砂呼=本名ミサ子さん作)にあるように馬をモチーフにした作品(未完成)だった。私がこの画家を知ったのは初めて北海道に暮らした時で、30年近く前だった。その後、この画家のことは忘れていたのだが、最近になって美術館の図書室でたまたま1冊の本に出会い、中央画壇では知られていない農民画家のことを思い出した。  その本は『神田日勝 作品集成』(神田日勝記念美術館=鹿追町教育委員会)という題が付いた神田さんの作品集で、今年3月に発行された。神田さんが亡くなって49年が過ぎたが、その力強い作品は生きる力を見る者に与えてくれるのである。作品集に寄せた手記で美砂呼さんは、夫との絵に関するやり取りを書いている。このやりとりから、神田さんにとって絵を描くことは、生きる上で欠かすことができないものであることが理解できる。 「絵を描きたいって、どんな気持ち?」 「他人のことは解らないが、僕にとっては生理現象かな」  神田さんは1937年12月に東京・練馬で4人きょうだい(2人の姉と兄が1人)の次男として生まれ、太平洋戦争で東京大空襲に遭った。終戦の前日である1945年8月14日、一家は十勝平野の鹿追町に移住する。中学時代から、のちに東京芸大に進んだ兄一明さん(元北海道教育大学名誉教授)の影響で油絵を描き始め、農業をしながら通信制の野幌高等酪農…

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1805 幻想の城蘇る 生き残ったノイシュバンシュタイン城

「私が死んだらこの城を破壊せよ」狂王といわれ、なぞの死を遂げた第4代バイエルン国王ルートヴィヒ2世(1845~1886)の遺言が守られていたなら、ドイツ・ロマンチック街道の名城、ノイシュバンシュタイン城は消えていた。この城を描いたラジオ体操仲間の絵を見ながら、激動の渦に巻き込まれた城の歴史を思った。  城が好きだったという作家の司馬遼太郎は日本やヨーロッパの多くの城について「戦闘よりも平和の象徴のような印象があった」と『街道をゆく』シリーズ「南蛮の道Ⅰ」(朝日文庫)で書いている。では、ノイシュバンシュタイン城はどうだったのだろう。この城はルートヴィヒ2世の命によって1869年から建設が始まり、1886年にほぼ完成した。外観は中世風であり、城内には中世の騎士伝説からの場面を描いた絢爛豪華な部屋があるなど、王の道楽のために造られたと見ることができる。どう見ても戦のための城ではない。同じころの日本は明治維新から明治前半に当たり、鎖国から近代化へと舵を切っていた。城を造ることなど到底考えられない時代、遠いドイツにはこんな王が存在したのだ。  城が完成したこの年、おかしな言動を取るルートヴィヒ2世に対し危機を抱いた家臣たちは、王を逮捕、廃帝としバイエルン州のベルク城に送った。王は翌日、近くのシュタルンベルク湖で医師とともに水死体で発見された。死因は不明とされている。全盛期には作曲家、ワーグナーを支援し、豪華な城の建設にのめり込んだ王の末路は哀れだった。  城を自分だけのものと考えていたため…

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1801 カザルスとピカソ 「鳥の歌」を聴く

 CDでチェロ奏者、パブロ・カザルス(1876~1973)の「鳥の歌」を聴いた。「言葉は戦争をもたらす。音楽のみが世界の人々の心を一つにし、平和をもたらす」と語ったカザルスは、1971年10月24日の国連の日に国連本部でこの曲を演奏した。カザルスは当時94歳という高齢で、演奏を前に短いあいさつをした。それは後世に残る言葉になった。 「私はもう40年近く、人前で演奏をしてきませんでした。でも、きょうは演奏する時が来ていることを感じています。これから演奏するのは、短い曲です。その曲は『鳥の歌』と呼ばれています。空を飛ぶ鳥たちはこう歌うのです。『ピース ピース ピース』 鳥たちはこう歌うのです『ピース ピース ピース』『ピース ピース ピース』『ピース ピース ピース』」  カザルスはスペイン北東部のカタルーニャ出身で、スペイン内戦が始まるとフランスに亡命、さらにプエルトリコに拠点を移して活動した。内戦後、誕生したフランコ独裁政権に対し抗議の姿勢を崩さず、音楽を通じて世界平和を訴え続けたことでも知られている。「鳥の歌」は生まれ故郷であるカタルーニャ地方の民謡を編曲したもので、静かでゆったりとした中に平和への祈りが込められているといわれる。  カザルスと同じパブロという名を持つピカソ(1881~1973)も同じスペイン出身(南部のアンダルシア)だ。フランコによる反乱軍のクーデターを契機に起きたスペイン内戦で、フランコに加担したナチス・ドイツが1937年4月26日、北部の小都市、ゲルニカを…

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1799 損傷したモネの大作《睡蓮、柳の反映》AI技術で浮かび上がる復元画

 原型をとどめないほど上半分が消えた1枚の絵。修復したとはいえ、その損傷が激しい大作を見て、画家の嘆きの声が聞こえてくるようだった。東京上野の国立西洋美術館で開催中の「松方コレクション展」。その最後に展示されているのが60年間にわたって行方がわからなかった初期印象派の画家、クロード・モネの大作《睡蓮、柳の反映》(縦199・3センチ、横424・4センチ)だ。修復作業を経て多くの美術ファンの前に姿を現した無惨な姿は、この大作が戦争に翻弄されたことを示している。  ル・コルビュジが設計し、世界遺産に指定されている国立西洋美術館は1959(昭和34)年6月10日の開館だから、今年で60周年になる。開館の根幹になったのは、川崎造船所(現・川崎重工業)初代社長・松方幸次郎(明治の元勲、松方正義の3男。隊長として日本人によるエベレスト初登頂を成功させた登山家で元共同通信社専務理事の松方三郎は幸次郎の弟)が1910年代半ばから1920年代半ばにかけて収集した美術品「松方コレクション」であることはよく知られている。同コレクションは1927年の川崎造船所の経営破綻後散逸、パリに残されていた約400点は第2次世界大戦中の1944年にフランス政府によって敵国資産として接収されてしまった。戦争は美術品を奪い合うものである一例だ。第2次大戦中、ナチス・ドイツやスターリンのソ連(現在のロシア)もヨーロッパから多くの美術品を収奪したことは歴史の汚点になっている。  接収された松方コレクションは59年、フランスの国立美術館のた…

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1790 マロニエ広場にて 一枚の絵にゴッホを想う

  近所にマロニエ(セイヨウトチノキ)に囲まれた広場がある。その数は約20本。広場の中心には円型の花壇があり、毎朝花壇を囲むように多くの人が集まってラジオ体操をやっている。私もその1人である。既にマロニエの花は終わり、緑の葉が私たちを包み込んでいるように見える。体操仲間の1人がこの風景を絵に描いた。色とりどりの花が咲く花壇の後ろに4本のマロニエが立っている。私は絵を見せてもらいながら、ゴッホもマロニエの花を描いたことを思い出した。  ゴッホは、「花咲く……」という題の絵を何枚か残している。「花咲くアーモンドの枝」「花咲く梨の木」「花咲く桃の木」「花咲くアンズの木々」「花咲く薔薇の茂み」そして「花咲くマロニエの枝」だ。マロニエの絵は、ゴッホが亡くなったフランス・パリ近郊の村、オーヴェル=シュル=オワーズで過ごした最晩年に描いたものだ。ほんのりと赤みを帯びた白い花と緑の葉、背景にゴッホの特徴であるうねりながら渦巻くような(のたうつような筆遣いと表現する研究者もいる)真っ青な空が描かれている。  アルルでゴーギャンとの共同生活が破綻し精神を病んだゴッホは、転地したサン=レミでも耳切り事件を起こす。この後さらに転地療養のため友人の紹介でサン=レミからオーヴェル=シュル=オワーズに移った。1890年5月17日のことである。マロニエの花が真っ盛りのころだ。「オーヴェルは美しい。とりわけ美しいのは、近頃次第に少なくなって来ている古い草屋根が沢山あることだ」と、弟のテオ宛の手紙でこの村の美しさを書…

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1731 暮れ行く初冬の公園にて ゴッホの「糸杉」を想う

 大阪市の長居公園(東住吉区)のすぐ近くに住む友人は、この公園の夜明けの風景を中心にした写真をフェイスブックに載せている。最近は夜明けではなく、夕暮れの光景をアップしていた。そのキャプションには「烏舞う夕暮れ。11月27日夕、長居公園。ゴッホの絵を想起」とあった。それはゴッホが好んで描いた「糸杉」の絵と印象が似ている。暮れ行く初冬の公園の姿は、たしかにゴッホの世界を彷彿とさせるのだ。  手元にあるゴッホ関係の書籍を見ると、ゴッホは風景画を描く際、糸杉、麦畑、オリーブの木、小麦、ヒマワリを重要なモチーフにした。このうち「糸杉」の題で知られるのは1889年6月、南フランスのサン・レミ・ド・プロヴァンス(サン=レミ)にあるカトリック精神療養院「サン・ポール」に入院した直後に描かれた作品で、糸杉がキャンバスのほぼ半分を占めている。この地方で糸杉はどこにでもあり、ゴッホはサン=レミ時代「糸杉のある麦畑」「星月夜」などの作品にも特徴ある姿を取り入れている。  ゴッホは、サン=レミに移る前の15カ月、アルルに住んで旺盛な制作意欲を見せた。画家のゴーギャンと共同生活をしたが、個性がぶつかり合って破局を迎え、左耳の斜め下半分を切り落とすという「耳切り事件」を起こす。この後サン・レミに転地療養するのだが、意識の混濁や幻聴、幻視、自殺志向などの発作を繰り返していたという。こうした環境下、「糸杉」は描かれた。  糸杉はヒノキ科の常緑針葉高木で、大きなものは45メートルにも達するという。セイヨウヒノキとも…

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1729 ああ!妻を愛す 永遠の美を求める中山忠彦展

 中山忠彦は、日本の現代洋画界を代表する一人といわれる。ほとんどが自分の妻を描いた作品というユニークさを持つ画家である。千葉県立美術館(JR京葉線千葉みなとから徒歩で約10分)で開催中の「中山忠彦――永遠の美を求めて――」をのぞいた。それは驚きの展覧会だった。  驚いた理由は、展示されていたのがほぼ中山の妻、良江さんの絵だったからだ。次から次へと同じ女性を描いた作品が並んでいる。油彩画、版画、デッサンだけでなく、モデルとなった良江さんが着用したさまざまなドレス、帽子、扇子なども展示されている。  1935年に福岡県北九州市小倉区で生まれた中山は、高校卒業後文化勲章受章者の洋画家で、一貫して女性美を追求した伊藤清永(1911~2001)に師事、19歳で新日展に初出品(《窓辺》)して初入選、画家としての道を歩み始める。当初描いたのはほとんどが裸婦像だった。中山の画家としての運命を左右したのは良江さんだった。1963年、たまたま福島・会津への旅の途中の電車内で良江さんに会い、その美しさにひかれる。2年後に2人は結婚、その後は着衣の良江さんの絵を描き続けることになる。その結晶が今回展示されたおびただしい女性像だった。  結婚当時30歳だった中山は、現在83歳になる。当然ながら良江さんも同じ年輪を重ねた。順を追って作品を見ていくと、良江さんが微妙に変化していることに気が付く。だが、最近の作品を見ても「老い」は感じさせない。良江さんのドレス姿は違和感がなく、しかも年を増すごとに気品が漂うので…

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1728 ルーベンス展でセネカに出会う 晩秋の西洋美術館で 

 好天に恵まれた過日、晩秋の上野公園を歩いた。3つの美術館で開催中の展覧会のどれかを見るべく早めに家を出た。10時過ぎにはJR上野駅の改札口を出て、美術館に向かった。しかし、2つの美術館は長い行列が続いていた。結局、入ることができたのは3番目と考えていた国立西洋美術館の「ルーベンス展」だった。美術の秋、興味がある展覧会を催している美術館に入るのも容易ではないという日本。名画ファンが多いということなのだろう。  上野駅を降りてまず目指したのは、東京都美術館だった。「ムンク展」で、かつて見た「叫び」を再度見ようと思った。だが既に長い列ができていて、チケットを買うだけで1時間待ちと言われて断念した。次に上野の森美術館に向かう。「フェルメール展」だから、たぶんこちらも無理かと思いつつ、到着すると、11時半からの分しか空いていないと言われた。1時間15分待ちである。短気な私は並ぶのは嫌いだから、ここも断念した。  その結果、最終的に入ったのが西洋美術館だった。正門には「フェルメール展」を意識してか、常設展にある「フェルメールに帰属」するという『聖プラクセディス』の案内表示も出ている。上野の森美術館に入れない方はこちらへどうぞ、という意味かと思ったりした。さて、ルーベンス(1577~1640)展である。西洋文化史家の中野京子は「色彩と光の豊穣、人物描写の的確さ、ドラマティックな瞬間の切り取りは、まさに天才の名に恥じない」(『名画の謎 旧約・新約聖書篇・文春文庫)と、旧フランドル(ベルギー西部とオラ…

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1654 坂の街首里にて(4)「全身詩人」吉増剛造展を見る

 吉増剛造は「全身詩人」と呼ばれている。変わった呼び方だが、沖縄県立博物館・美術館で開催中の「涯(ハ)テノ詩聲(ウタゴエ) 詩人吉増剛造展」を見て、合点がいった。言葉としての詩だけでなく、写真や映像、造形まで活動範囲は広く、沖縄にも接点があるという。 「毎年のように初夏、今年は盛夏に、沖縄を訪ねるようになって、ラジオからながれてくる沖縄の深い歌声を聞くことに、乾いた耳を、鼓膜を、すこし濡らすようにしている。それでも、その鼓膜の渇きにも微妙な変化があって、八重山の古謡に耳をすまそうとしているその耳の奥で次にくる歌声をさがしているらしい」(『螺旋歌』「キングランドリーの御主人渡久地さんが、……」より)  このように活字化された詩のほかに、活字化される前に様々な土地での体験や考えを書き入れた原文集も展示され、詩人の苦闘の跡がうかがえる。吉増はフィルムカメラでフィルムを1本撮影した後、それを巻き戻して再びカメラに入れて撮影を繰り返すという多重露光写真の手法で日本や世界を回った。その結果、異なる場所が一枚の写真となり、不思議な空間が生み出されたことでも知られる。那覇、普天間、コザなど沖縄各地で撮影したものに、他の地域の光景を重ね合わせた写真も展示されている。  新聞のコラムには「捉えがたい沖縄の姿に真摯(しんし)に向き合う姿勢が伝わる」(沖縄タイムス)という紹介があったが、凡人の私には写真の意味するところがよく分からない。あえていえば、米軍基地問題が混沌としたままの沖縄の過去、現在、未来…

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1622 東京一日散歩 横山大観と田原総一朗と……

 先日、久しぶりに東京を歩いた。昨年9月のけが以来、長時間東京を歩いたのは初めてだった。手術をした右足は、駅やビルの階段の上り下りで、ややもたついた。これもリハビリのうちと思い、なるべく階段を使った。帰宅後、万歩計を見ると、1万5000歩を超えていた。  午前中に向かったのは、恵比寿の山種美術館だった。現在、生誕150年を記念して日本画家、横山大観展を開いている。「金儲けも結構だが、この辺でひとつ世の中のためになるようなことをやっておいたらどうですか」という大観の忠告で、山種証券(現在は合併を経てSMBCフレンド証券)創業者の山崎種二が創設した美術館である。収蔵している大観の作品全40点を今回、初公開した。大観は輪郭線を使わずに色彩の濃淡で空気や光を表現する没線描法を試み、「朦朧体」と批判を浴びたのだが、インドや欧米を回って修行を積み、日本画壇の第一人者になる。  大観が尊敬したのは、美術家の岡倉天心だった。前々回のブログに出てくる茨城県北茨城市大津町五浦には、天心が創設した日本美術院の第一部が移転し、大観も一家で移住して一時期住んでいた。大観の絵はどれを見ても、心が鎮まる。好んで描いたという富士山の絵(《霊峰不二》はもちろんだが、作品を見て回って思い浮かんだのは「静謐」という言葉だった。  大観が初めて挑んだという水墨画巻《疎水の巻》《燕山の巻》も展示されていた。《燕山の巻》は、1910(明治43)年ごろ中国・北京周辺の風景を描いたもので、のどかな光景にしばし足を止めた。この美…

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1600 世界的画家の心情 ピカソとゴッホを描いた原田マハ

 世界的画家と言えば、だれを思い浮かべるだろう。ほとんどの人がパブロ・ピカソ、あるいはフィンセント・ファン・ゴッホの名をあげるはずだ。2人の天才画家をモチーフにした原田マハの『暗幕のゲルニカ』(新潮社)と『たゆたえども沈まず』(幻冬舎)を読んだ。原田は既にアンリ・ルソーをテーマにした『楽園のカンヴァス』(新潮文庫)を出しており、「アート小説」という分野で新しい境地を開いたといえるようだ。  以前のブログで書いたように、作家の沢木耕太郎は、ピカソのゲルニカについて「世界中の巨大な錯覚の集合体のような気がしてならない。壁一面に掲げられたその絵に向かい合って、心を動かされることがまったくない」と、否定的見解を示した。だが、原田の作品を読むと、沢木の見解は巨匠に対する反旗か、あるいはこの絵に対する無理解からの批評のように思えてならないのだ。  ピカソがゲルニカに込めたメッセージは「反戦」であり、巨大な錯覚の集合体ではないことは明らかなことである。版画家の西岡文彦は、ピカソの作品に一貫しているのは「なにを描いているかはわかる具象的作品でありながら、突拍子もなく形や色が実物とかけはなれていること」(『簡単すぎる名画鑑賞術』ちくま文庫)と指摘している。だが、実際にはピカソはデッサンの達人であり、伝統を破壊するために新しい手法の絵画を描いたことはよく知られている。  原田の小説は、ピカソの「ゲルニカ」の制作過程と9・11テロの後、米国・ニューヨーク近代美術館(MoMA)でこの絵の展覧会を計画する…

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1597「ゲルニカは巨大な錯覚の集合体」か シャガール作品と既視感

 遊歩道のけやきの葉が緑から黄色へ、さらに黄金色に変化した。その葉が落ち始め、遊歩道は黄金色の絨毯に覆われたようだ。《むさしのの空真青なる落葉かな》水原秋櫻子の句である。私が住むのは武蔵野ではないが、遊歩道から見上げる空はまさに蒼茫の世界が続いている。美術の秋だが、けがのために美術館に行けない。そんな時に一冊の本を読んで、ピカソの有名な絵、「ゲルニカ」について考えさせられた。  作家の沢木耕太郎は、戦場写真家として知られるロバート・キャパに関して何冊かの本を書いている。その一冊が『キャパへの追走』(文春文庫)である。キャパが撮影したスペインをはじめとする写真の現場を訪れ、その光景を沢木自身が写して追体験しようとする試みだ。キャパはスペインの内戦「スペイン戦争」で「崩れ落ちる兵士」という一枚をものにし、一躍世界的写真家になる。    共和国軍の民兵がフランコ率いる反乱軍側に撃たれ、倒れる瞬間をとらえたといわれる一枚だ。この写真について沢木は「戦場で撮られた写真ではない」という見解を『キャパの十字架』(文春文庫)という本にまとめている。キャパの調査を続けた沢木は、何度も取材でスペインを訪れている。そして、首都マドリードに行くと、決まってピカソの「ゲルニカ」を見るために、ソフィア王妃美術館に立ち寄るのだという。  そんな沢木は「ゲルニカ」について、「世界中の巨大な錯覚の集合体のような気がしてならない」「壁一面に掲げられたその絵に向かい合って、心を動かされることがまったくない」と突き放し…

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1592 夕焼け断章 暗くなるまで見ていたい

 先日、素晴らしい夕焼けを見た。夕焼けは、太陽が沈む前に西の空が燃えるような紅色になる自然現象である。四季折々に見られるのだが、俳句では夏の季語になるそうだ。夕焼けといえば、あの童謡を思い浮かべる人が多いかもしれない。あれは、やはり夏の歌なのだろうか。  中村雨紅作詞、草川信作曲の「夕焼小焼」である。大正時代(作詞、大正8年=1917、作曲大正12年=1923)の童謡だから、もう90年以上も歌い継がれてきたことになる。  1 夕焼け小焼けで 日が暮れて   山のお寺の 鐘が鳴る   お手手つないで みな帰ろう   烏(からす)といっしょに 帰りましょう  2 子供が帰った あとからは   円(まる)い大きな お月さま   小鳥が夢を 見るころは   空にはきらきら 金の星  夕焼けは、ノルウェーの画家、エドヴァルド・ムンクの代表作「叫び」にも描かれている。1893年(明治26)の作で、夕暮れの散歩の時の体験を基にしているといわれる。ムンクの体験は1年前のもので、1892年1月22日の日記には以下のように書かれている。 《夕暮れ時、私は2人の友人と共に歩いていた。すると、突然空が血のような赤に染まり、私は立ちすくみ、疲れ果ててフェンスに寄りかかった。それは血と炎の舌が青黒いフィヨルドと街に覆い被さるようだった。友は歩き続けたが、私はそこに立ち尽くしたまま不安に震え、戦っていた。そして、自然を貫く果てしなく、終わることのない叫びを聞いた》  童謡の方は、…

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1563 ナチに捕えられた画家の大作 ミュシャの『スラヴ叙事詩』

 チェコ出身でよく知られているのは、音楽家のアントニン・ドヴォルザーク(1841~1904)である。音楽評論家の吉田秀和は「ボヘミアの田舎の貧しい肉屋の息子は、両親からほかに何の財産も与えられなくても、音楽というものをいっぱい持って、世の中に生まれてきた」(新潮文庫『私の好きな曲』)と書いている。吉田が高く評価したドヴォルザークに比べれば、グラフィックデザイナーで画家のアルフォンス・ミュシャ(1860~1939)の知名度はそれほどではない。だが、吉田風にいえば、ミュシャは美術という才能を持ってこの世に誕生した天才の一人だった。  国立新美術館で開催中の「ミュシャ展」を見た。同じ美術館で、前回書いた草間彌生展が開かれているが、どちらも甲乙つけがたいほど大勢の入場者でにぎわっていた。私はこれまでミュシャの大作『スラヴ叙事詩』の存在を知らなかった。たまたまNHKの特集番組を見てこの画家に興味を抱いた。  ミュシャはポスター制作者として一世を風靡した。ハプスブルク家が支配する旧オーストリア帝国モラヴィア・イヴァンチツェ(現在はチェコ)で生まれ、子どものころから絵がうまかった。中学校を中退、働きながら、あるいはパトロンを得てチェコのデザイン学校やミュンヘン、パリの美術学校で学んだ。世に出るきっかけになったのは、1895年に制作した舞台女優のサラ・ベルナールの芝居用ポスター「ジスモンダ」だった。たまたま年末だったため著名な画家は休暇でパリを留守にしていて、ミュシャが頼まれた。華やかなポスターは評判…

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1562 「生と死」にどう向き合う 草間彌生展にて

 彫刻家、画家である草間彌生は、自伝『無限の網』(新潮文庫)の中で、「芸術の創造的思念は、最終的には孤独の沈思の中から生まれ、鎮魂のしじまの中から五色の彩光にきらめきはばたくものである、と私は信じている。そして今、私の制作のイメージは、『死』が主なるテーマである」と書いている。国立新美術館で開催中の「草間彌生 わが永遠の魂」展は、まさに死をテーマにした、原色に彩られた独特の作品が並んでいる。  草間は2009年から大型の絵画シリーズ「わが永遠の魂」に取り組んでいるという。それは「生と死」に対する草間の向き合い方が示されているようだ。草間は、自伝の中で現代の死について以下のように示している。 《科学や機械万能の進歩による人間の思い上がりは、生命の輝きを失わせ、イメージの貧困をもたらしている。暴力化した情報化社会、画一化した文化、自然の汚染、この地獄絵図の中で、生の神秘はすでに息づくことをやめている。私たちを迎い入れる死は、その荘厳である静かさを放棄し、私たちは静謐な死を見失いつつある》  このように考える草間は、「わが永遠の魂」シリーズで、死への道について多くの作品を描いた。それには「私の死の瞬間」「天国へのぼる時」「天国へのぼる会談」「死の足跡」「天国へ昇る入口」「死の瞬間」「永劫の死」等々、死を考える数多くの題名が付いている。  私が初めて草間の作品を見たのは、7年前の2010年、青森県十和田市にある市立十和田市現代美術館でのことだった。美術館の外にも、現代芸術家たちの作品が…

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1561 ブリューゲル『バベルの塔』を見て 傲慢への戒めを思う

 ピーテル・ブリューゲル(1526/1530年ごろ~1569)は、2点の「バベルの塔」の作品を残している(もう1点描いたといわれるが、現存していない)。多くの画家がこのテーマで描いているものの、傑作の呼び声が高いのはブリューゲル作である。その1点を東京都美術館で見て、スペイン・バルセロナで建築中の巨大教会、サグラダ・ファミリア(聖家族教会)を連想した。  ブリューゲルは1563年に1点目(油彩画、114×155センチ、ウィーン美術史美術館所蔵)を描き、さらにこの5年後の1568年ごろに2点目(油彩画、59.9×74.6センチ、オランダ・ボイマンス美術館所蔵 )を完成させた。ブリューゲルはネーデルラント(現在のベルギーとオランダにまたがる地域)のアントウェルペン(アントワープ)で長く暮らした。当時この町は古代都市バビロンに似ていたといわれ、建築現場も多かった。そうした現場を詳細に観察した結果が、この絵に反映したのではないかと、中野京子は『名画の謎』(文春文庫)で書いている。  バベルの塔は、旧約聖書の中の「創世記」に出てくるれんが造りの高い塔のことである。人類はノアの大洪水後、ノアの子孫たちがシナル(バビロニア)に住みつき、れんがによって町を作り、塔を建てて天にまで届かせようとした。これを見た神が、人類が一つの言語を持つからこのような行いをするのだと怒り、その言語を乱し人間が互いに意志疎通できないようにと、人々を各地に散らして塔の完成を妨げたというのである。旧約聖書のこの物語は、人間の傲…

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1560 「怖い絵」について 人の心に由来する恐怖

 西洋絵画には、見る者に戦慄を感じさせるものが少なくない。そうした絵画を中野京子はシリーズで取り上げた。その第1作はラ・トゥールの『いかさま師』からグリューネヴァルトの『イーゼンハイムの祭壇画』まで22の作品を恐怖という視点で紹介した『怖い絵』(角川文庫)である。恐怖は人の心に由来するものであり、登場する絵も1点を除き、人間(ジェンティレスキ『ホロフェルネスの首を斬るユーディト』のような人を殺す恐ろしい場面の絵も含まれる)中心に描かれている。  その1点とは、ベルギーのフェルナン・クノップフ(1858~1921)作、『見捨てられた街』である。この絵について中野は「一瞬、色褪せて黄ばんだ古い写真と見まごう。上半分までが空。その湿った空の下には、鋭い切妻屋根の家と、広場と、海――。」と書いている。パステル画であり、ベルギー北西部のブリュージュ(日本で発行された世界地図にはブルッヘという表記が多い)を題材にした無人の街の姿を描いている。この町が廃墟になった歴史はなく、ベルギーの代表的観光都市である。  クノップフは、ジョルジョ・ローデンバックの『死都ブリュージュ』という小説に惹かれて、少年時代の一時期を過ごしたこの町をテーマに絵を描いたのだそうだ。心が壊れていく人間の姿を描いた小説の内容は割愛するが、「この絵の何が怖いかといえば、思い出に囚われたまま滅びゆこうとする人の心が伝わってくるからだ」と中野が分析している通り、人影のないブリュージュの街は静寂そのものであり、不気味で怖い。  私…

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1558 苦闘する学芸員たち 政治家の発言にひるむことなかれ

 これまで全国のさまざまな博物館や美術館を回り、学芸員から話を聞いた。彼ら、彼女らはいかにして、自分や同僚たちが企画した展覧会に多くの入場者を呼ぶか奮闘していた。そんな人たちに対し、山本幸三地方創生相が外国人観光客らへの文化財などの説明、案内が不十分として「一番のがんは文化学芸員。この連中を一掃しないとだめ」と発言し、問題視されると撤回した。学芸員の仕事を理解していない妄言としか言いようがない。  海関係の展示を専門とする博物館のある学芸員は、東日本大震災の際、被災地で多くの漁船が流されてしまったことを知って、自分が住む地域の漁師たちに呼び掛け、使っていない多くの漁船を集めた。地域に根付いた博物館の学芸員としての顔の広さを利用し、集めた漁船が被災地の漁業復活に一役買ったことは言うまでもない。震災から1年後、岩手県陸前高田市の「奇跡の一本松」など震災をテーマにした障害者の作品を集め、感動を呼んだ企画展を立案した公立美術館の学芸員もいる。  一方で施設は立派だが、予算が足りないため、思い切った企画展を開催できないことに悩む学芸員も少なくない。それでも入場者数を伸ばそうと、全国の学芸員たちはさまざまなアイデアを考えているのである。  先日、今村雅弘復興相の暴言のことを書いたばかりで、再び、現職閣僚の話をこのブログに取り上げるのは、正直気が進まない。しかし、今度の山本発言は学芸員の仕事を冒涜するもので看過できないと思うのだ。  米国の第16代大統領、リンカーンは、次のような言葉を残…

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1494 雄々しい高橋英吉の《海の三部作》 被災地作品展を見る

 私が高橋英吉という彫刻家の名前を知ったのは、もう36年前のことになる。だが、その作品を見る機会がないまま長い歳月が過ぎてしまった。先日、東京藝大美術館に足を運び、そこで高橋の作品に初めて接した。海に生きる雄々しい漁夫をテーマにした代表作の木彫作品《海の三部作》の《潮音》《黒潮閑日》《漁夫像》が目の前にある。その作品の前で立ち止まり、私は初めて高橋の家族と出会った当時のことを思い出した。  1911年に石巻市で生まれた高橋は、東京美術学校(現在の東京藝大)で木彫を学び、彫刻家として将来を期待される作品の制作を続けた。だが、太平洋戦争に応召し1942年11月、多くの餓死者を出したガダルカナルの戦いにより31歳で戦死、彫刻家としての才能は南の島で断ち切られてしまった。  私は36年前の1980年10月、取材でソロモン諸島国の首都ホニアラがあるガダルカナル島を訪れた。財団法人南太平洋戦没者慰霊協会(当時)が島を見渡す丘の上に「ソロモン平和慰霊公苑」をつくり、戦没者の慰霊碑と高橋の作品のうち《潮音》のブロンズ像を建立した。式典には高橋の未亡人の澄江さんと一人娘の幸子さん(版画家)や高橋を知る石巻の人たちも混じっていて、私は若くして戦火に散った彫刻家がいたことを知った。  高橋は石巻の網元の家の末っ子(五男三女)に生まれ、東京美術学校を出た後、家業が傾いたため南氷洋の捕鯨船で半年働いた。この体験を基に桂の木を使った《海の三部作》が生まれた。平和慰霊公苑の一角に建立された《潮音》のブロンズ像…

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1492 コルビュジエの思想 世界遺産になる西洋美術館

建築家、安藤忠雄氏の愛犬の名前は「ル・コルビュジエ」というそうだ。どこかで聞いた名前だ。そう、フランスの20世紀を代表する同名の建築家(1887年10月6日―1965年8月27日)である。上野の国立西洋美術館を含め、彼が設計した建物が世界文化遺産への登録が確実になったというニュースが流れて間もなく1カ月になる。コンクリートの建物は現代では珍しくはない。それを広めたのはル・コルビュジエだった。 手元に近代建築史の本がある。第二次大戦後、世界の建築界は2人の建築家によって花が開いたという。その一人はル・コルビュジエであり、もう一人はミース・ファン・デル・ローエ(1886年3月27日―1969年8月17日)である。ミースはドイツ出身でナチスから逃れてアメリカに亡命し、モダニズムの建築を手がけ建築界に大きな影響を与えた。一方、スイス出身でフランスを中心に活動したル・コルビュジエは、打ちっ放しのコンクリートが特徴のさまざまな建築物を残した。その一つが国立西洋美術館だった。 同館はコルビュジエが設計した国内唯一の建物であり、実業家で美術収集家、松方幸次郎(弟の松方三郎は、登山家で元共同通信社専務理事)が収集した絵画を中心とした美術品(松方コレクション)が第2次世界大戦後、フランスから返還されたことを契機として建てられ、1959年(コルビュジエは1955年に来日して、西洋美術館を設計した)に完成した。 西洋美術館には、何度か足を運び、あるいはその前を通ったことは数知れない。典型的なコンクリート…

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1483 静かな秋田の市立美術館 若冲展とは別の世界

先日、秋田市立千秋美術館の「最後の印象派」展を見た。20世紀初頭のパリで活躍した画家たちの絵80点を集めたものだ。入場者はそう多くはなく、ゆったりと時間が流れる中でじっくり絵を見ることができた。一方、上野の東京都美術館で開催中の伊藤若冲展は、多くの人が詰めかけ、入場待ちの長い列ができているという。それは異常な光景としか思えない。 千秋美術館は、1989年にオープンし、戦後ニューヨークを中心に「幽玄主義」という抽象画で活躍した岡田謙三の作品を常設展示していることで知られる。すぐ近くには藤田嗣治の秋田の四季を描いた「秋田の行事」が展示された秋田県立美術館がある。印象派は19世紀後半のフランスを中心に活動したグループで、セザンヌやモネ、ルノワールといった著名な画家がいる。そうしたグループのスタイルを継承し、自然の中の光の表現を探求したのがエドモン・アマン=ジャン、アンリ・ル・シダネル、オーギュスト・ロダンら「最後の印象派」といわれる画家たちだ。この画家たちは前衛的活動に参加しなかったため、美術史の中で埋もれてしまったが、近年になって再評価されつつあるという。私はアンリ・マルタンの《野原を行く少女》の前で、多くの時間を割いた。野原を歩く少女。手には赤いバラ。花びらが少女の下半身から後方に流れている。少女は何を夢見ているのか―。 東京都美術館に長い行列ができている伊藤若冲も、最近急に人気になった画家である。若冲は米国で評価され、その後に日本で再評価されたという経緯がある。日本を含め東洋の美術品を…

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1475 若冲作品の原画を見る 静嘉堂文庫美術館を訪ねて

伊藤若冲(1716~1800)が「「巧妙無比」と言った絵が私の目の前にあった。それは仏画「釈迦三尊像」のうちの2幅「文殊・普賢像」であり、先日見たばかりの若冲の絵と重ね合わせた。東京・世田谷の静嘉堂文庫美術館に出掛けた。東急田園都市線の二子玉川駅からバスで8分~10分の住宅街。大通りから小径に入り、坂道を200メートルほど上ると緑に包まれた静かな環境の静嘉堂文庫に併設された美術館があった。 この美術館ではいま、運慶作ではないかと話題になった(結局未確認)仏像の修理完成披露の特別展が開かれていた。私の目的はこれらの仏像ではなく14世紀作といわれる2幅の仏画「文殊・普賢像」だった。この絵を模写した伊藤若冲の作品は、現在上野の東京都美術館で開催中の「伊藤若冲展」で見たばかりだった。 「文殊・普賢像」は米国・クリーブランド美術館が所蔵している釈迦像と合わせ「釈迦三尊像」と呼ばれ、作者は張思恭という伝説の画家だ。元あるいは高麗仏画の絵師だった可能性が指摘されているが、よく分かっていない。いずれにしてもこの絵は中国あるいは朝鮮半島から京都の東福寺に伝わり、歳月を経て日本と米国に分かれて保存されている。江戸時代の絵師である若冲は、何らかのつて東福寺にそろっていた「釈迦三尊像」を模写する機会を得たのだろう。 若冲が模写した作品は若冲の支援者でもあった大典顕常の相国寺(京都)に寄進され、現在に至っている。模写であるから、構成に大きな変化はない。ただ、若冲作品の方が輪郭がくっきりとし、仏の衣服など青…

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1472 奇想の画家の系譜 伊藤若冲から村上隆へ

伊藤若沖(1716~1800)は江戸時代の絵師で高い写実性に加え、想像力を働かせた作品が特徴であることから、「奇想の画家」と呼ばれている。東京都美術館で22日から始まった生誕300年記念の「伊藤若冲展」はまさかと思えるほどの人が詰めかけ、ゆっくり絵を鑑賞する余裕がないほどのにぎわいだった。若冲は最近注目の画家だというが、それにしてもどうしてこんなに人気があるのだろう。 なかなか列が進まなかったのが、米国の収集家ジョー・プライスが集めた「鳥獣花木図屏風」である。ようやくこの絵の前にたどり着き、眺めていたら最近まで六本木の森美術館で展示されていた村上隆の「五百羅漢図」のことが頭に浮かんだ。水木しげるの漫画に登場するようなユーモラスな顔をした羅漢たちが描かれた大作だが、想像力を働かせた作品であり、村上も「奇想の現代画家」といってもおかしくはない。そうか、奇想の画家の系譜は300年の時を経て、受け継がれていたのだと思う。85歳で亡くなった若冲は、京都・伏見の石峰寺に墓がある。この寺には若冲が下絵を描き、石工に彫らせた五百羅漢像がある。それぞれが個性的な表情を持っていて、村上隆の作品と共通性があると私は感じる。 「鳥獣花木図屏風」は升目描き(約1センチ間隔で引かれた細い線でつくられる升目に地色を塗って方眼の升目を埋めていき、同系色の濃さの違う絵具で色調を変えて立体感をつくり出す技法)といわれる作品で、8万6千個の升目を埋めたもので原色をふんだんに使い、さまざまな動物と花が描かれ、中央に正面を向い…

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1468 続カラヴァッジョ 新たな「ユーディット」との出会い 

東京・上野の国立西洋美術館で開催中の「カラヴァッジョ展」には、世界公開が初めてという《法悦のマグダラのマリア》(注1)が展示されている。2014年に発見され、真筆と鑑定された作品だ。カラヴァッジョは鮮烈な光と濃い闇のコントラストを効果的に用いる劇的な明暗法によってバロック絵画の先駆者と言われる一方、殺人事件を起こして逃亡生活を続けるなど波乱の生涯を送った。逃亡中に描いたというこの作品に続いて、新たにフランスで発見された絵がカラヴァッジョ作の可能性が高いと鑑定されたというから、カラヴァッジョファンには楽しみが増えたことになる。 《法悦のマグダラのマリア》は、カラヴァッジョがチンピラグループとのいざこざから殺人を犯してローマを逃亡、近郊の町で身を隠していた1606年の夏に描いたとみられ、同じころの作品に《エマオの晩餐》(注2)がある。《法悦のマグダラのマリア》は、1610年にイタリアのポルト・エルコレという小さな港町で熱病によって死んだ際、荷物の中にこの絵があったとされるが、紛失。その後2014年になって個人のコレクションの中にあったのが今回展示された作品で、鑑定の結果カラヴァッジョ作とされた。 ロイター通信(注3)によれば、2年前フランス南西部のトゥールーズ近郊の民家で天井の雨漏りを点検していたこの家の人がこれまで開けたことがなかった屋根裏のドアを壊したところその裏に一枚の絵が見つかった。旧約聖書の外典にあるユーディットがアッシリアの司令官、ホロフェルネスの首を切断する有名な場面(≪ホロ…

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1467 ユネスコ憲章の精神とかけ離れた世界の実態 ガルシンの嘆きはいまも

オバマ米国大統領が5月のG7伊勢志摩サミット参加時に、広島を訪問することを検討しているというニュースが流れた。訪問が実現すれば、現職の米国大統領としてはもちろん初めてである。オバマ大統領は2009年チェコ・プラハで「核兵器なき世界」を訴える演説をしてその年ノーベル平和賞を受賞したが、核安全保障サミットを提唱したくらいでその理想は実現に程遠い。広島、長崎への原爆投下は空前絶後の人類に対する核兵器の使用だった。それに対し、米国からの公式謝罪はない。広島訪問が実現した場合、オバマ大統領は何を語るのだろう。 原爆投下をめぐっては、偉大な大統領といわれたルーズベルトの急死によって、副大統領から昇格して大統領になったトルーマンが一部の反対の声を押えて投下命令を出したのだが、米国内では「戦争終結を早め兵士の犠牲を最小限にとどめようとした」とする考えが主流を占め、人類に対し初めての核兵器使用に対する反省度は薄いように見える。 サミットに先立ち、G7外相会議が広島市で開催されている。きょう11日には、核保有国の外相(米国はケリー国務長官)たちが初めて平和公園を訪れ、原爆慰霊碑に献花した。ことしで原爆投下から71年になる。長い歳月が過ぎたが、オバマ大統領の広島訪問は本当に実現するのだろうか。 「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない。相互の風習と生活を知らないことは、人類の歴史を通じて世界の諸人民の間に疑惑と不信を起こした共通の原因であり、この疑惑と…

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1456 カラヴァッジョの心の闇 逃亡犯の絵画芸術

殺人犯として追われるほど破天荒な生活をする一方、バロック絵画の創始者として名を残したのは、イタリアのミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(1571-1610)である。国立西洋美術館で開催中の「カラヴァッジョ展」(カラヴァッジョ作品10点と同時代の他の画家の作品の計51点を展示)をのぞいてみると、混雑度はそうひどくなかった。カラヴァッジョの作品には、彼が殺人事件を起こした直後に描いた《エマオの晩餐》(1606)も含まれ、闇の中に浮かび上がる5人の人物像が印象に残った。 ミラノで生まれたカラヴァッジョは、絵を学んだあとローマに出て、次第に名前が知られる存在となり、平明なリアリズムと劇的な明暗法によって人物を浮かび出させる画法でバロック絵画を開花させた画家と位置づけられている。ルーベンスやレンブラント、フェルメールら多くの画家に影響を与えたことはよく知られており、その様式を模倣、継承した画家たちはカラヴァジェスキ(カラヴァッジョ派)と呼ばれている。 画家として偉大な存在だったカラヴァッジョは、殺人者としての暗い側面を持っていた。ローマの夜の街を仲間とともに遊び歩き、暴行や武器の不法所持などを繰り返し、あげくの果てにチンピラの一人を剣で刺殺し、指名手配になる。郊外の山中に身をひそめた彼が、逃走資金を稼ぐために描いたのが《エマオの晩餐》だといわれる。 この絵は、復活したイエスがエマオに向かう2人の弟子の前に現れたというエピソードを基にしている。弟子は当初イエスが復活したことに気付か…

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1450 悲劇の画家の肖像画 憂い漂うファブリティウス

森アーツセンターギャラリー(東京・六本木)で開催中の「フェルメールとレンブラント:17世紀オランダ黄金時代の巨匠たち展」を見た。オランダのこの世紀の代表的画家といわれるフェルメール(1632~75)とレンブラント(1606~69)の作品(各1点)のほか、同時代のオランダの画家たちの作品計60点を集めたものだ。「水差しを持つ女」(フェルメール)、「ベローナ」(レンブラント)とは別に、私はカレル・ファブリティウス(1622~54)の2点の肖像画を前にやや長く足をとどめた。 ファブリティウスはフェルメールと同じ、オランダの地方都市、デルフトを拠点に活動した画家である。レンブラントの一番弟子といわれるが、これからという時に悲劇的最期を遂げる。1654年10月12日午前10時半ごろ、デルフト中心部に近いところにあった弾薬庫の火薬が爆発し、町の4分の1に当たる北東部分の建物が吹き飛ばされ数百人の死傷者を出す大事故が発生した。弾薬庫は旧修道院の建物で、イギリスとスペインからの攻撃に備え、弾薬と爆弾9万ポンド(4万823キロ)が備蓄されていた。この日はハーグから出張してきた国会の事務官らが弾薬2ポンド(907キロ)を見本として請け出すため中に入ったところ、爆発が起きたといわれるが、爆発の誘因は不明だ。 この事故でファブリティウスは工房の中で被災し、手当てを受けたが亡くなった。32歳だった。ファブリティウスは、アムステルダムのレンブラントの工房で修業してからデルフトで風俗画家として独立、将来を嘱望される…

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1442 「聖母子像画」に見る美の追求 ダ・ヴィンチとボッティチェリ展

美術とは何だろうと、約500年前の2つの名画を見てあらためて考えた。それはレオナルド・ダ・ヴィンチ(1452~1519)の「糸巻きの聖母」とサンドロ・ボッティチェリ(1444/45~1510)の「書物の聖母」である。活動時期が重なり、ルネサンスを代表する芸術家である2人の聖母子像作品は、宗教画とは無縁な私でも引き寄せられるアラウ(ラテン語で独特の雰囲気の意味)が感じられた。 ダ・ヴィンチの作品は、江戸東京博物館(両国国技館の隣)の「レオナルド・ダ・ヴィンチ―天才の挑戦展」で、ボッティチェリの作品は東京都美術館(上野の森)で開催中の「ボッティチェリ展」に展示されている。双方とも日本とイタリアが国交を樹立(1866年8月25日、日伊修好通商条約を締結)してことしで150年周年になるのを記念した特別展であり、3月からは同様の企画展として上野の国立西洋美術館で「カラヴァッジョ展」が開催される予定だ。 「糸巻きの聖母」は、屋外の岩に座る聖母が糸巻き棒を見つめる幼いイエスを抱いて作品で、聖母の首の一部にスフマートというぼかし技法が用いられているのが特徴。ダ・ヴィンチらが始めたと伝えられるこの技法は、後の「モナ・リザ」にも採用されている。糸巻き棒は、亜麻や羊毛などの繊維を巻き付けて糸にする道具で、聖母マリアの生活の象徴であると同時にのちに十字架で磔になるイエスの将来を暗示したものと解釈されている。この絵の岩の描写の正確性も科学者としてのダ・ヴィンチの一面をのぞかせているという。 英国貴族のバク…

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1422 芸術は歴史そのもの 絵画と映画と

12月になった。季節は冬。人生でいえば長い歴史を歩んできた高齢者の季節である。最近、歴史を考える機会が増えた。それは絵画であり、映画だった。まず、絵画展。「村上隆の五百羅漢図展」(六本木ヒルズ、森美術館)、DIC川村美術館(千葉県佐倉市)の「絵の住処―作品が暮らす11の部屋」の2つ。そして映画は「黄金のアデーレ 名画の帰還」と「ミケランジェロプロジェクト」の2本。いずれも人間の歴史と深いかかわりを持っていた。 手元にある『仏像の世界』(田中義恭著、日本文芸社)という本によると、「羅漢は『阿羅漢』の略で、仏教の修行を達成し、悟りの境地に達した者のことを指す。十代弟子を含め、釈迦如来の高位の弟子たちは、みな羅漢なのである」という。 十六羅漢、十八羅漢だけでなく五百羅漢もあるのだから、釈迦の弟子は少なくなかったといえようか。そんな羅漢の姿を村上は、巨大な壁画として全国の200人を超える美大生を動員して完成させた。11月30日に亡くなった漫画家・水木しげるの漫画に登場するようなユーモラスな顔をした羅漢たちはどれも見ていてあきない。村上は東京藝大で日本画研究で初めて博士号を取得した。それがこの作品に凝縮されたのかもしれない。 川村美術館は、かつての川村インキ(現在のDIC)の創業者川村喜十郎らが3代にわたって収集した美術品(主に絵画)を公開している。現在公開中の「絵の住処」は、「ヨーロッパ近代絵画の部屋」や「レンブラント・ファン・レインの部屋」、「日本画の部屋」「前衛美術の部屋」など美術館…

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1408 ヨンキントとユトリロと 感受性強く知的な芸術家たち

詩人の大岡信は、『瑞穂の国うた』(新潮文庫)というエッセーの中で、秋のしみじみとした感じを象徴するのは酒であり、騒がしいビールの季節が終わり、10月は静かな日本酒の季節だという趣旨のことを書いている。酒がおいしい季節がやってきて、私の部屋のカレンダーは酒と縁が深いオランダの風景画家ヨハン・バルトルト・ヨンキント(1819年~1891年)の『オーフェルスヒーの月光の下で』(オーフェルスヒーはロッテルダムの空港近くにある地区)という1871年作の絵になった。ヨンキントは日本ではあまり知られていないが、その緻密な絵は見直されてもいいのかもしれない。 ヨンキントは、オランダ・ロッテルダム近郊のラトロプ村で生まれ、早くからフランスで活動しバルビゾン派の画家たちと交流を持った。パリやルアーブル(北西部の港湾都市)の海岸風景を好んで描き、その明るく清新な色彩と自由なタッチでフランスのウジェーヌ・ブーダン(1824-1898)とともに印象主義の先駆者の一人に数えられる。油絵のほか水彩画も多数制作、代表作として『ロズモン城の廃墟』(1861年)『トゥルネル河岸から見たノートル・ダム大聖堂(1852年)などがある(百科事典・マイペディア)。印象派の代表的画家、フランスのクロード・モネ(1840~1926)はヨンキントの影響を受けたといわれる。 ヨンキントの絵はたしかに、明るい色彩の作品が多い。その一方で、『オーフェルスヒーの月光の下で』のように、黒や暗褐色系で使った陰影のイメージを強調する作品も残し、夜の…

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