1903「星月夜」に一人歩いた少年時代 想像の旅フランス・長野・茨城・富山へ

 ゴッホが、代表作といわれる『星月夜』(外国語表記=英語・The starry night、フランス語・ La nuit étoilée、オランダ語:・De sterrennacht=いずれも邦訳は星の夜)を描いたのは1889年6月、南フランスサン・レミ・ド地方プロヴァンスにある修道院の精神病棟だった。日本では星月夜は「月は出ておらず、星の光で月夜のように明るく見える夜」のことを言い、秋の季語になっている。しかし、ゴッホの絵は夏に描いたもので、右上方に大きな三日月が描かれている。月が出ているのだから、日本でいえば星月夜ではない。だれがこのような日本語に訳したのだろうか。だが、この絵の題はセンスがよく、ロマンもあって違和感はない。  この絵は、部屋の東向きの窓から見える日の出前の村の風景を描いたものだという。ゴッホは弟テオへの手紙の中で絵について「今朝、太陽が昇る前に私は長い間、窓から非常に大きなモーニングスター(明けの明星・金星)以外は何もない村里を見た」と書いている。左下から延びる糸杉、右手には教会の尖塔や村の建物があり、背景には青黒い山並みがあり、上空には星々が輝く。中でも明けの明星がひときわ輝いている。星々の軌跡は渦を撒くように白く長く伸び、右上方には三日月が大きく描かれている。  日本各地には星空が美しい地域が点在している。例えば、長野県阿智村(中国残留孤児の救済に生涯をささげた山本慈昭さんが住職を務めた長岳寺はこの村にある)のもみじ平や茨城県と福島県境の茨城県常陸太田市里川町…

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1887 蘇るか普通の日常 絵と詩に託す希望の光

  私の自宅前の遊歩道を散歩する人が少なくなったように感じる。昨25日、政府が新型コロナウイルスに関して北海道、埼玉、千葉、東京、神奈川の5都道県の緊急事態宣言を解除することを決め、長い間自宅勤務をしていた人たちが出勤したためだろうか。公園の人影もまばらになった。こんなとき体操仲間のNさんが体操広場の風景を描いた水彩画を見せてくれた。見慣れた風景である。コロナ禍が早く収まり、平凡な日常風景が戻ってほしいという祈りが込められているような1枚の絵に、心が和むのである。  アート小説という、絵画をテーマにした多くの作品を手掛けている作家の原田マハさんの「いちまいの絵』(集英社新書)という本に、以下のようなことが書かれている。 《1枚の絵はあるときは祈りの対象であった。またあるときには欲望の権化であった。そしてまたあるときには、革命であり、マニュフェストであり、魂の叫びであった》  確かに、人は1枚の絵を見て、様々な感懐を抱く。その人の境遇や取り巻く環境、感受性によって違いがあるのは当然だ。突然思いもよらぬ形でやってきた新しいウイルスに遭遇し何かに祈りたいという思いがあったとき、この絵に接した私は、つい祈りを感じたのだ。この絵の作者のNさんは以前、反対方向からの絵を描いた。今回は花壇をメーンとして、後方にマロニエの木が左右対称にあり、さらに一番後方真ん中にもマロニエの木を描く遠近技法によって絵を仕上げている。完成までに約3週間要したが、日々花が成長し変化する花壇の様子をどう描くかに苦労し…

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1869 釈迦の生誕とミロのヴィーナス 4月8日は何の日か

  灌仏(くわんぶつ)の日に生れ逢う鹿(か)の子(こ)かな 松尾芭蕉  旧暦4月8日に仏教の開祖・釈迦(ゴータマ・ブッタ、ゴータマ・シッダッタ)が生誕したという伝承に基づき、日本では毎年4月8日に釈迦誕生を祝う仏教行事・灌仏会(かんぶつえ。仏生会、浴仏会、龍華会、花会式の別名も)が行われている。一方、世界でも人気がある「ミロのヴィーナス」は、ちょうど200年前のきょう、ひとりの農民によって発見されたことをラジオ放送で知った。7都県に新型コロナウイルスによる非常事態宣言が出た直後の日本。こんな日だからこそ歴史を振り返り、希望の光を感じてみたいと思う。  芭蕉の句について山本健吉編著『句歌歳時記 春』(新潮文庫)には、「芳野紀行の旅を終えて、奈良に帰って来たときの句。ちょうど4月8日で、古い寺々の多い古都では、花御堂をつくって仏生会を営み、誕生仏に甘茶を灌いでいる。たまたまその日に鹿の子が生れ合したという微笑ましい事実に、感を発したもの。旧暦4月だから、実は初夏の句」とある。私はこの句から、芭蕉と同じように生命誕生の喜びを感じるのである。  69歳のときにクリスチャンなった、友人の田口武男さんの著作『蘊蓄 お釈迦さま  お坊さんより詳しくなる仏教の開祖 ゴータマ・ブッダの80年』(アマゾン・キンドル)には、釈迦誕生から入滅までを38章にわたって詳しく描かれている。釈迦は紀元前5世紀、インド領だったカピラヴァットゥ(現在はネパール領)という王国のスッドーダナという王の妻マーヤーから生ま…

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1868 コロッセウムは何を語るのか 人影なき世界遺産

 新型コロナウイルスによって、観光立国イタリアは大きな打撃を受けている。著名観光地は軒並み閉鎖され、年間400万人が訪れるといわれるローマのコロッセウム(ラテン語、コロセウムとも。イタリア語ではコロッセオ)も例外ではない。古代遺跡の閉鎖を説明する掲示板の写真をニュースで見たのは1カ月前のことだった。体操仲間が描いた水彩画を見せてもらいながら、人影がなく閑古鳥が鳴く遺跡のわびしい風景を想像した。  この水彩画は写真の通りコロッセウムの外観を描いたもので、青空のもと、静かな佇まいの茶色の遺跡が美しい。これまでこのブログには2回この知人の絵を紹介しており、今回で3枚目になる。コロッセウムの絵が完成したのはことし1月20日のことで、この後新型コロナウイルスがイタリアで猛威を振るうとは、作者も想像しなかったに違いない。  コロッセウムは古代ローマ時代の西暦70~72年、ウェスパシアヌス帝の命令で建築が始まり、その子どものティトウス帝時代の80年に完成したとされる円形闘技場(長径188メートル、短径156メートル、周囲527メートルの楕円形)で、収容人数は5万人前後。剣闘士の闘技、人間とライオンなど猛獣との闘いというゲームの観戦を目的とした残酷な施設である。その廃墟が世界遺産となり、観光名所になったのだ。アカデミー作品賞と主役のラッセル・クロウが主演男優賞を受賞した2000年のアメリカ映画「グラディエーター」は、主な舞台がコロッセウムだが、映画では実物より小さいセットを使ったそうだ。  本田…

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1867 ライラックがもう開花 地球温暖化ここにも

 つつましき春めぐり来てリラ咲けり 水原秋櫻子      近所を散歩していたら、ライラック(リラ)の花が咲いているのを見つけた。まだ4月に入ったばかりだから、例年よりもかなり早い開花だ。空は青く澄み渡り、紫色の花からは微かな香りが漂ってくる。世界を覆う新型コロナウイルス感染症の猛威という現実を忘れ、つかの間美しい花に見入った。  札幌で暮らしたことがある。街の中心にある大通公園には約400本のライラックが植えられており、毎年5月の下旬にライラック祭が開かれている。ことしも5月20日~31日の開催が予定されている。この花を見ると長い冬の終わりを実感したが、ことしは予定通り祭りが開かれるだろうかと危惧する。(このブログをアップしたあと、中止が決定した。6月のよさこいソーラン祭りも同様に中止が決まったという)  ライラックといえば、花の絵を好んで描いたゴッホの《ライラックの茂み》という作品を思い浮かべ、インターネットで検索して絵を見てみた。自然のエネルギーを感じさせるゴッホ特有の劇的な表現が目に付き、絵から花の香りが漂ってくるような錯覚さえ抱いた。フランスのアルルに住んだゴッホは、同居したゴーギャンとの芸術感の違いから自分の左耳の下部を切り取るという事件を起こし、1889年5月サン=レミの精神療養院に収容された。療養院の室内から庭を見ながら、《アイリス》などとともにこの絵を描いたという。(現在はロシア・サンクトペテルブルクにある国立エルミタージュー美術館が所蔵)  療養院でゴッホは…

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1839 冬の朝のアーチ状芸術 虹の彼方に何が……

 今朝は天気雨が降った。そのあと調整池の上には見事なアーチ状の虹が出た。虹は、雨上がりの時などに太陽と反対方向に現れる色のついた光の輪であり、太陽の光が雨滴の中で屈折して反射して発生するものだ。虹については世界で様々な言い伝えがあり、虹を指差すと悪いことが起きると信じている地域もあるそうだが、一方で虹に夢や希望を託す人も多いかもしれない。  虹=希望、夢というイメージを植え付けたのは、『虹の彼方に』(オーバー・ザ・レインボー)という歌の影響が大きいと思われる。この歌は、アメリカの児童文学作品『オズの魔法使い』(ライマン・ フランク・ボーム著)が原作の、同名のミュージカル映画(1939年)の劇中歌で、映画の大ヒットとともに世界的に有名になった。「どこかに虹の彼方に 空高くに 夢の国があると いつか子守歌で聞いたわ この虹の向こうの 空は青く そこで信じた夢は すべて叶えられるの(英語版の意訳。以下略)」という詞のあの歌である。虹の彼方に何かがあると夢見た子どものころが、妙に懐かしい。  虹は夏に多く発生するため、俳句では夏の季語である。「虹立つも消ゆるも音を立てずして」(山口波津女)の句の通り、今朝の虹もいつの間にか出て、しばらくして消えてしまった。だが、その美しさに登校中の子どもたちが歓声を上げ、遅刻するよと母親らしき人から叱られている姿もあった。こんな日は少し遅れてもいいんじゃないかと、私は勝手に思ったりした。  虹を描いた西洋美術の作品としては、ピーテル・パウル・ルーベンス(…

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1837 ゴッホは何を見て、何を描きたかったのか 映画『永遠の門』を見る

 絵画の世界でレオナルド・ダ・ヴィンチ、ピカソと並びだれでもが知っているのが「炎の人」といわれるフィンセント・ファン・ゴッホだろう。では、ゴッホはどんなふうに描こうとする風景を見ていたのだろう。それを映画化したのが『永遠の門 ゴッホの見た未来』(監督は画家でもあるジュリアン・シュナーベル、ゴッホの自画像によく似た俳優ウィレム・デフォーが主役)である。ゴッホの精神世界を映像化したといえる映画は、美しい自然の風景を映し出している。それを手ぶれや上下でずれさせるなど揺れるゴッホの視点を思わせる映像にしたのが特徴で、万人受けする作品ではない。  映画はゴッホの画家としての出発点であるパリ時代から芸術活動の頂点となったアルル時代、そして精神を病み精神病院に収容されるサン・レミ~37年の短い生涯を閉じるオーヴェル時代までの10年間を追い、ゴッホの目から見た世界を描いている。精神病院で療養中、神父とのやり取りの場面でのゴッホの言葉が印象に残る。「生まれた時代を間違えたのかもしれない。いまは収穫期ではなく種をまく時。未来の人が評価してくれる」。この言葉からは、不遇でも絵に対する情熱を失わなかったゴッホの姿勢が伝わるのだ。  生前ゴッホの絵は1度批評されただけで、売れたのもたった1枚だった。それでも弟のテオは兄の才能を最後まで信じていたし、アルル時代を共にしたゴーギャンとも絵に対する価値観の対立(ゴーギャンは幻想や空想の世界をカンバスに描いたのに対し、ゴッホは基本的に自分の目の前にあるものを主題とした)…

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1836 北海道に魅せられた画家 後藤純男展にて

「美瑛の町役場の屋上から、私は秋晴れの東南の空に十勝連峰を眺めた。主峰十勝岳を中央にして、その右にホロカメットク山、三峰山、富良野岳、その左に美瑛岳、美瑛富士、オプタクシケ山。眺め飽きることがなかった」。深田久弥は名著『日本百名山』の中で、北海道の十勝岳についてこのように記した。  日本画家の後藤純男もこの雄大な風景に惹かれ、北海道に移り住んだ一人である。千葉県立美術館で開催中の「後藤純男の全貌」展にも北海道の自然のスケールの大きさを描いた一枚が展示され、私は長く足を止めながら初めて十勝岳の麓を訪れた当時を思い出した。  後藤は1930(昭和5)年、千葉県木間ケ瀬村(現在の野田市)の真言宗の寺で生まれ、僧侶の修業をしながら絵を描き22歳の時に院展に初入選した。これを機に絵の道一筋に進み、日本画家として大成する。日本だけでなく中国にも題材を求め、四季折々の自然の姿や農村風景、季節の移ろいの中で変化する法隆寺などの大和古寺といった重厚な作品が多い。純金やプラチナをはじめ自然の鉱石を使う天然岩絵具を使ったのが後藤の作品の特徴といわれる。  後藤は野田に近い松伏(埼玉県松伏町)にアトリエを持ち、さらに流山にも住んだ後、富良野にアトリエを移した。今回の美術展には、雪を抱いた十勝の山々が描かれた「十勝岳連峰」という大作(縦182センチ×横636・4センチ)も展示されている。この絵には105歳まで現役を続けた医師の日野原重明(1911~2017)による「厳冬の魁」という書も同時に展示されている…

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1828 ただ過ぎに過ぐるもの 優勢なセイタカアワダチソウ

 散歩コースの遊歩道から調整池を見ると、池の周辺の野原は黄色い花で埋め尽くされている。言わずと知れた外来植物のセイタカアワダチソウである。例年、この花とススキは生存競争を繰り返しているのだが、今年は外来植物の方が圧倒的に優勢だ。この道を歩き続けてかなり長い。そして、2つの植物の生態の変化に飽きることはない。  手元の百科事典によると、セイタカアワダチソウは北米原産の帰化植物で、キク科の多年草。茎は直立し、高さ2~3メートルになり、土手や荒地に群落を作る。10~11月、多数の黄色の頭花を大きな円錐花序につける。切り花用として持ち込まれたが、繁殖力が強いのが特徴で、今では全国どこでもこの花を見ることができる。  これまでもこのブログで何回かこの花について取り上げているので、詳しい生態については省略するが、天敵ともいえるススキとの戦いで今年は、この花が勝ったようだ。本来ならススキは中秋の名月の後も天を衝く勢いで残っている。しかし、相次いで上陸した台風(15号と19号)によって細長い茎は吹き飛ばされてしまい、見る影もなくなった。それに対しセイタカアワダチソウはしぶとく耐え、弱ったススキを相手にせず、わが世の春ならぬわが世の秋を謳歌しているのである。 「ただ過ぎに過ぐるもの 帆かけたる舟。人の齢。春、夏、秋、冬。」(ブログ筆者の現代訳・何もしなくとも一方的に過ぎて行くもの。それは帆掛け舟=帆を上げて風に乗って進む船=であり、人の年齢、そして春、夏、秋、冬という四季である)    清少納…

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1814 北海道に生きた農民画家 神田日勝作品集から

 絶筆の馬が嘶く(いななく)夏の空 農民画家といわれた神田日勝さんが32歳でこの世を去ったのは、1970年8月25日のことである。絶筆となった絵は、この句(妻の神田美砂呼=本名ミサ子さん作)にあるように馬をモチーフにした作品(未完成)だった。私がこの画家を知ったのは初めて北海道に暮らした時で、30年近く前だった。その後、この画家のことは忘れていたのだが、最近になって美術館の図書室でたまたま1冊の本に出会い、中央画壇では知られていない農民画家のことを思い出した。  その本は『神田日勝 作品集成』(神田日勝記念美術館=鹿追町教育委員会)という題が付いた神田さんの作品集で、今年3月に発行された。神田さんが亡くなって49年が過ぎたが、その力強い作品は見る者に生きる力を与えてくれるのである。作品集に寄せた手記でミサ子さんは、夫との絵に関するやり取りを書いている。このやりとりから、神田さんにとって絵を描くことは、生きる上で欠かすことができないものであることが理解できる。 「絵を描きたいって、どんな気持ち?」 「他人のことは解らないが、僕にとっては生理現象かな」(ミサ子さんは、テレビのインタビューで排泄のようなものと話していた)  神田さんは1937年12月に東京・練馬で4人きょうだい(2人の姉と兄が1人)の次男として生まれ、太平洋戦争で東京大空襲に遭った。終戦の前日である1945年8月14日、一家は十勝平野の鹿追町に移住する。中学時代から、のちに東京芸大に進んだ兄一明さん(元北海道教育大学…

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1805 幻想の城蘇る 生き残ったノイシュバンシュタイン城

「私が死んだらこの城を破壊せよ」狂王といわれ、なぞの死を遂げた第4代バイエルン国王ルートヴィヒ2世(1845~1886)の遺言が守られていたなら、ドイツ・ロマンチック街道の名城、ノイシュバンシュタイン城は消えていた。この城を描いたラジオ体操仲間の絵を見ながら、激動の渦に巻き込まれた城の歴史を思った。  城が好きだったという作家の司馬遼太郎は日本やヨーロッパの多くの城について「戦闘よりも平和の象徴のような印象があった」と『街道をゆく』シリーズ「南蛮の道Ⅰ」(朝日文庫)で書いている。では、ノイシュバンシュタイン城はどうだったのだろう。この城はルートヴィヒ2世の命によって1869年から建設が始まり、1886年にほぼ完成した。外観は中世風であり、城内には中世の騎士伝説からの場面を描いた絢爛豪華な部屋があるなど、王の道楽のために造られたと見ることができる。どう見ても戦のための城ではない。同じころの日本は明治維新から明治前半に当たり、鎖国から近代化へと舵を切っていた。城を造ることなど到底考えられない時代、遠いドイツにはこんな王が存在したのだ。  城が完成したこの年、おかしな言動を取るルートヴィヒ2世に対し危機を抱いた家臣たちは、王を逮捕、廃帝としバイエルン州のベルク城に送った。王は翌日、近くのシュタルンベルク湖で医師とともに水死体で発見された。死因は不明とされている。全盛期には作曲家、ワーグナーを支援し、豪華な城の建設にのめり込んだ王の末路は哀れだった。  城を自分だけのものと考えていたため…

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1801 カザルスとピカソ 「鳥の歌」を聴く

 CDでチェロ奏者、パブロ・カザルス(1876~1973)の「鳥の歌」を聴いた。「言葉は戦争をもたらす。音楽のみが世界の人々の心を一つにし、平和をもたらす」と語ったカザルスは、1971年10月24日の国連の日に国連本部でこの曲を演奏した。カザルスは当時94歳という高齢で、演奏を前に短いあいさつをした。それは後世に残る言葉になった。 「私はもう40年近く、人前で演奏をしてきませんでした。でも、きょうは演奏する時が来ていることを感じています。これから演奏するのは、短い曲です。その曲は『鳥の歌』と呼ばれています。空を飛ぶ鳥たちはこう歌うのです。『ピース ピース ピース』 鳥たちはこう歌うのです『ピース ピース ピース』『ピース ピース ピース』『ピース ピース ピース』」  カザルスはスペイン北東部のカタルーニャ出身で、スペイン内戦が始まるとフランスに亡命、さらにプエルトリコに拠点を移して活動した。内戦後、誕生したフランコ独裁政権に対し抗議の姿勢を崩さず、音楽を通じて世界平和を訴え続けたことでも知られている。「鳥の歌」は生まれ故郷であるカタルーニャ地方の民謡を編曲したもので、静かでゆったりとした中に平和への祈りが込められているといわれる。  カザルスと同じパブロという名を持つピカソ(1881~1973)も同じスペイン出身(南部のアンダルシア)だ。フランコによる反乱軍のクーデターを契機に起きたスペイン内戦で、フランコに加担したナチス・ドイツが1937年4月26日、北部の小都市、ゲルニカを…

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1799 損傷したモネの大作《睡蓮、柳の反映》AI技術で浮かび上がる復元画

 原型をとどめないほど上半分が消えた1枚の絵。修復したとはいえ、その損傷が激しい大作を見て、画家の嘆きの声が聞こえてくるようだった。東京上野の国立西洋美術館で開催中の「松方コレクション展」。その最後に展示されているのが60年間にわたって行方がわからなかった初期印象派の画家、クロード・モネの大作《睡蓮、柳の反映》(縦199・3センチ、横424・4センチ)だ。修復作業を経て多くの美術ファンの前に姿を現した無惨な姿は、この大作が戦争に翻弄されたことを示している。  ル・コルビュジが設計し、世界遺産に指定されている国立西洋美術館は1959(昭和34)年6月10日の開館だから、今年で60周年になる。開館の根幹になったのは、川崎造船所(現・川崎重工業)初代社長・松方幸次郎(明治の元勲、松方正義の3男。隊長として日本人によるエベレスト初登頂を成功させた登山家で元共同通信社専務理事の松方三郎は幸次郎の弟)が1910年代半ばから1920年代半ばにかけて収集した美術品「松方コレクション」であることはよく知られている。同コレクションは1927年の川崎造船所の経営破綻後散逸、パリに残されていた約400点は第2次世界大戦中の1944年にフランス政府によって敵国資産として接収されてしまった。戦争は美術品を奪い合うものである一例だ。第2次大戦中、ナチス・ドイツやスターリンのソ連(現在のロシア)もヨーロッパから多くの美術品を収奪したことは歴史の汚点になっている。  接収された松方コレクションは59年、フランスの国立美術館のた…

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1790 マロニエ広場にて 一枚の絵にゴッホを想う

  近所にマロニエ(セイヨウトチノキ)に囲まれた広場がある。その数は約20本。広場の中心には円型の花壇があり、毎朝花壇を囲むように多くの人が集まってラジオ体操をやっている。私もその1人である。既にマロニエの花は終わり、緑の葉が私たちを包み込んでいるように見える。体操仲間の1人がこの風景を絵に描いた。色とりどりの花が咲く花壇の後ろに4本のマロニエが立っている。私は絵を見せてもらいながら、ゴッホもマロニエの花を描いたことを思い出した。  ゴッホは、「花咲く……」という題の絵を何枚か残している。「花咲くアーモンドの枝」「花咲く梨の木」「花咲く桃の木」「花咲くアンズの木々」「花咲く薔薇の茂み」そして「花咲くマロニエの枝」だ。マロニエの絵は、ゴッホが亡くなったフランス・パリ近郊の村、オーヴェル=シュル=オワーズで過ごした最晩年に描いたものだ。ほんのりと赤みを帯びた白い花と緑の葉、背景にゴッホの特徴であるうねりながら渦巻くような(のたうつような筆遣いと表現する研究者もいる)真っ青な空が描かれている。  アルルでゴーギャンとの共同生活が破綻し精神を病んだゴッホは、転地したサン=レミでも耳切り事件を起こす。この後さらに転地療養のため友人の紹介でサン=レミからオーヴェル=シュル=オワーズに移った。1890年5月17日のことである。マロニエの花が真っ盛りのころだ。「オーヴェルは美しい。とりわけ美しいのは、近頃次第に少なくなって来ている古い草屋根が沢山あることだ」と、弟のテオ宛の手紙でこの村の美しさを書…

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1731 暮れ行く初冬の公園にて ゴッホの「糸杉」を想う

 大阪市の長居公園(東住吉区)のすぐ近くに住む友人は、この公園の夜明けの風景を中心にした写真をフェイスブックに載せている。最近は夜明けではなく、夕暮れの光景をアップしていた。そのキャプションには「烏舞う夕暮れ。11月27日夕、長居公園。ゴッホの絵を想起」とあった。それはゴッホが好んで描いた「糸杉」の絵と印象が似ている。暮れ行く初冬の公園の姿は、たしかにゴッホの世界を彷彿とさせるのだ。  手元にあるゴッホ関係の書籍を見ると、ゴッホは風景画を描く際、糸杉、麦畑、オリーブの木、小麦、ヒマワリを重要なモチーフにした。このうち「糸杉」の題で知られるのは1889年6月、南フランスのサン・レミ・ド・プロヴァンス(サン=レミ)にあるカトリック精神療養院「サン・ポール」に入院した直後に描かれた作品で、糸杉がキャンバスのほぼ半分を占めている。この地方で糸杉はどこにでもあり、ゴッホはサン=レミ時代「糸杉のある麦畑」「星月夜」などの作品にも特徴ある姿を取り入れている。  ゴッホは、サン=レミに移る前の15カ月、アルルに住んで旺盛な制作意欲を見せた。画家のゴーギャンと共同生活をしたが、個性がぶつかり合って破局を迎え、左耳の斜め下半分を切り落とすという「耳切り事件」を起こす。この後サン・レミに転地療養するのだが、意識の混濁や幻聴、幻視、自殺志向などの発作を繰り返していたという。こうした環境下、「糸杉」は描かれた。  糸杉はヒノキ科の常緑針葉高木で、大きなものは45メートルにも達するという。セイヨウヒノキとも…

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1729 ああ!妻を愛す 永遠の美を求める中山忠彦展

 中山忠彦は、日本の現代洋画界を代表する一人といわれる。ほとんどが自分の妻を描いた作品というユニークさを持つ画家である。千葉県立美術館(JR京葉線千葉みなとから徒歩で約10分)で開催中の「中山忠彦――永遠の美を求めて――」をのぞいた。それは驚きの展覧会だった。  驚いた理由は、展示されていたのがほぼ中山の妻、良江さんの絵だったからだ。次から次へと同じ女性を描いた作品が並んでいる。油彩画、版画、デッサンだけでなく、モデルとなった良江さんが着用したさまざまなドレス、帽子、扇子なども展示されている。  1935年に福岡県北九州市小倉区で生まれた中山は、高校卒業後文化勲章受章者の洋画家で、一貫して女性美を追求した伊藤清永(1911~2001)に師事、19歳で新日展に初出品(《窓辺》)して初入選、画家としての道を歩み始める。当初描いたのはほとんどが裸婦像だった。中山の画家としての運命を左右したのは良江さんだった。1963年、たまたま福島・会津への旅の途中の電車内で良江さんに会い、その美しさにひかれる。2年後に2人は結婚、その後は着衣の良江さんの絵を描き続けることになる。その結晶が今回展示されたおびただしい女性像だった。  結婚当時30歳だった中山は、現在83歳になる。当然ながら良江さんも同じ年輪を重ねた。順を追って作品を見ていくと、良江さんが微妙に変化していることに気が付く。だが、最近の作品を見ても「老い」は感じさせない。良江さんのドレス姿は違和感がなく、しかも年を増すごとに気品が漂うので…

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1728 ルーベンス展でセネカに出会う 晩秋の西洋美術館で 

 好天に恵まれた過日、晩秋の上野公園を歩いた。3つの美術館で開催中の展覧会のどれかを見るべく早めに家を出た。10時過ぎにはJR上野駅の改札口を出て、美術館に向かった。しかし、2つの美術館は長い行列が続いていた。結局、入ることができたのは3番目と考えていた国立西洋美術館の「ルーベンス展」だった。美術の秋、興味がある展覧会を催している美術館に入るのも容易ではないという日本。名画ファンが多いということなのだろう。  上野駅を降りてまず目指したのは、東京都美術館だった。「ムンク展」で、かつて見た「叫び」を再度見ようと思った。だが既に長い列ができていて、チケットを買うだけで1時間待ちと言われて断念した。次に上野の森美術館に向かう。「フェルメール展」だから、たぶんこちらも無理かと思いつつ、到着すると、11時半からの分しか空いていないと言われた。1時間15分待ちである。短気な私は並ぶのは嫌いだから、ここも断念した。  その結果、最終的に入ったのが西洋美術館だった。正門には「フェルメール展」を意識してか、常設展にある「フェルメールに帰属」するという『聖プラクセディス』の案内表示も出ている。上野の森美術館に入れない方はこちらへどうぞ、という意味かと思ったりした。さて、ルーベンス(1577~1640)展である。西洋文化史家の中野京子は「色彩と光の豊穣、人物描写の的確さ、ドラマティックな瞬間の切り取りは、まさに天才の名に恥じない」(『名画の謎 旧約・新約聖書篇・文春文庫)と、旧フランドル(ベルギー西部とオラ…

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1654 坂の街首里にて(4)「全身詩人」吉増剛造展を見る

 吉増剛造は「全身詩人」と呼ばれている。変わった呼び方だが、沖縄県立博物館・美術館で開催中の「涯(ハ)テノ詩聲(ウタゴエ) 詩人吉増剛造展」を見て、合点がいった。言葉としての詩だけでなく、写真や映像、造形まで活動範囲は広く、沖縄にも接点があるという。 「毎年のように初夏、今年は盛夏に、沖縄を訪ねるようになって、ラジオからながれてくる沖縄の深い歌声を聞くことに、乾いた耳を、鼓膜を、すこし濡らすようにしている。それでも、その鼓膜の渇きにも微妙な変化があって、八重山の古謡に耳をすまそうとしているその耳の奥で次にくる歌声をさがしているらしい」(『螺旋歌』「キングランドリーの御主人渡久地さんが、……」より)  このように活字化された詩のほかに、活字化される前に様々な土地での体験や考えを書き入れた原文集も展示され、詩人の苦闘の跡がうかがえる。吉増はフィルムカメラでフィルムを1本撮影した後、それを巻き戻して再びカメラに入れて撮影を繰り返すという多重露光写真の手法で日本や世界を回った。その結果、異なる場所が一枚の写真となり、不思議な空間が生み出されたことでも知られる。那覇、普天間、コザなど沖縄各地で撮影したものに、他の地域の光景を重ね合わせた写真も展示されている。  新聞のコラムには「捉えがたい沖縄の姿に真摯(しんし)に向き合う姿勢が伝わる」(沖縄タイムス)という紹介があったが、凡人の私には写真の意味するところがよく分からない。あえていえば、米軍基地問題が混沌としたままの沖縄の過去、現在、未来…

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1622 東京一日散歩 横山大観と田原総一朗と……

 先日、久しぶりに東京を歩いた。昨年9月のけが以来、長時間東京を歩いたのは初めてだった。手術をした右足は、駅やビルの階段の上り下りで、ややもたついた。これもリハビリのうちと思い、なるべく階段を使った。帰宅後、万歩計を見ると、1万5000歩を超えていた。  午前中に向かったのは、恵比寿の山種美術館だった。現在、生誕150年を記念して日本画家、横山大観展を開いている。「金儲けも結構だが、この辺でひとつ世の中のためになるようなことをやっておいたらどうですか」という大観の忠告で、山種証券(現在は合併を経てSMBCフレンド証券)創業者の山崎種二が創設した美術館である。収蔵している大観の作品全40点を今回、初公開した。大観は輪郭線を使わずに色彩の濃淡で空気や光を表現する没線描法を試み、「朦朧体」と批判を浴びたのだが、インドや欧米を回って修行を積み、日本画壇の第一人者になる。  大観が尊敬したのは、美術家の岡倉天心だった。前々回のブログに出てくる茨城県北茨城市大津町五浦には、天心が創設した日本美術院の第一部が移転し、大観も一家で移住して一時期住んでいた。大観の絵はどれを見ても、心が鎮まる。好んで描いたという富士山の絵(《霊峰不二》はもちろんだが、作品を見て回って思い浮かんだのは「静謐」という言葉だった。  大観が初めて挑んだという水墨画巻《疎水の巻》《燕山の巻》も展示されていた。《燕山の巻》は、1910(明治43)年ごろ中国・北京周辺の風景を描いたもので、のどかな光景にしばし足を止めた。この美…

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1600 世界的画家の心情 ピカソとゴッホを描いた原田マハ

 世界的画家と言えば、だれを思い浮かべるだろう。ほとんどの人がパブロ・ピカソ、あるいはフィンセント・ファン・ゴッホの名をあげるはずだ。2人の天才画家をモチーフにした原田マハの『暗幕のゲルニカ』(新潮社)と『たゆたえども沈まず』(幻冬舎)を読んだ。原田は既にアンリ・ルソーをテーマにした『楽園のカンヴァス』(新潮文庫)を出しており、「アート小説」という分野で新しい境地を開いたといえるようだ。  以前のブログで書いたように、作家の沢木耕太郎は、ピカソのゲルニカについて「世界中の巨大な錯覚の集合体のような気がしてならない。壁一面に掲げられたその絵に向かい合って、心を動かされることがまったくない」と、否定的見解を示した。だが、原田の作品を読むと、沢木の見解は巨匠に対する反旗か、あるいはこの絵に対する無理解からの批評のように思えてならないのだ。  ピカソがゲルニカに込めたメッセージは「反戦」であり、巨大な錯覚の集合体ではないことは明らかなことである。版画家の西岡文彦は、ピカソの作品に一貫しているのは「なにを描いているかはわかる具象的作品でありながら、突拍子もなく形や色が実物とかけはなれていること」(『簡単すぎる名画鑑賞術』ちくま文庫)と指摘している。だが、実際にはピカソはデッサンの達人であり、伝統を破壊するために新しい手法の絵画を描いたことはよく知られている。  原田の小説は、ピカソの「ゲルニカ」の制作過程と9・11テロの後、米国・ニューヨーク近代美術館(MoMA)でこの絵の展覧会を計画する…

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1597「ゲルニカは巨大な錯覚の集合体」か シャガール作品と既視感

 遊歩道のけやきの葉が緑から黄色へ、さらに黄金色に変化した。その葉が落ち始め、遊歩道は黄金色の絨毯に覆われたようだ。《むさしのの空真青なる落葉かな》水原秋櫻子の句である。私が住むのは武蔵野ではないが、遊歩道から見上げる空はまさに蒼茫の世界が続いている。美術の秋だが、けがのために美術館に行けない。そんな時に一冊の本を読んで、ピカソの有名な絵、「ゲルニカ」について考えさせられた。  作家の沢木耕太郎は、戦場写真家として知られるロバート・キャパに関して何冊かの本を書いている。その一冊が『キャパへの追走』(文春文庫)である。キャパが撮影したスペインをはじめとする写真の現場を訪れ、その光景を沢木自身が写して追体験しようとする試みだ。キャパはスペインの内戦「スペイン戦争」で「崩れ落ちる兵士」という一枚をものにし、一躍世界的写真家になる。    共和国軍の民兵がフランコ率いる反乱軍側に撃たれ、倒れる瞬間をとらえたといわれる一枚だ。この写真について沢木は「戦場で撮られた写真ではない」という見解を『キャパの十字架』(文春文庫)という本にまとめている。キャパの調査を続けた沢木は、何度も取材でスペインを訪れている。そして、首都マドリードに行くと、決まってピカソの「ゲルニカ」を見るために、ソフィア王妃美術館に立ち寄るのだという。  そんな沢木は「ゲルニカ」について、「世界中の巨大な錯覚の集合体のような気がしてならない」「壁一面に掲げられたその絵に向かい合って、心を動かされることがまったくない」と突き放し…

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1592 夕焼け断章 暗くなるまで見ていたい

 先日、素晴らしい夕焼けを見た。夕焼けは、太陽が沈む前に西の空が燃えるような紅色になる自然現象である。四季折々に見られるのだが、俳句では夏の季語になるそうだ。夕焼けといえば、あの童謡を思い浮かべる人が多いかもしれない。あれは、やはり夏の歌なのだろうか。  中村雨紅作詞、草川信作曲の「夕焼小焼」である。大正時代(作詞、大正8年=1917、作曲大正12年=1923)の童謡だから、もう90年以上も歌い継がれてきたことになる。  1 夕焼け小焼けで 日が暮れて   山のお寺の 鐘が鳴る   お手手つないで みな帰ろう   烏(からす)といっしょに 帰りましょう  2 子供が帰った あとからは   円(まる)い大きな お月さま   小鳥が夢を 見るころは   空にはきらきら 金の星  夕焼けは、ノルウェーの画家、エドヴァルド・ムンクの代表作「叫び」にも描かれている。1893年(明治26)の作で、夕暮れの散歩の時の体験を基にしているといわれる。ムンクの体験は1年前のもので、1892年1月22日の日記には以下のように書かれている。 《夕暮れ時、私は2人の友人と共に歩いていた。すると、突然空が血のような赤に染まり、私は立ちすくみ、疲れ果ててフェンスに寄りかかった。それは血と炎の舌が青黒いフィヨルドと街に覆い被さるようだった。友は歩き続けたが、私はそこに立ち尽くしたまま不安に震え、戦っていた。そして、自然を貫く果てしなく、終わることのない叫びを聞いた》  童謡の方は、…

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1563 ナチに捕えられた画家の大作 ミュシャの『スラヴ叙事詩』

 チェコ出身でよく知られているのは、音楽家のアントニン・ドヴォルザーク(1841~1904)である。音楽評論家の吉田秀和は「ボヘミアの田舎の貧しい肉屋の息子は、両親からほかに何の財産も与えられなくても、音楽というものをいっぱい持って、世の中に生まれてきた」(新潮文庫『私の好きな曲』)と書いている。吉田が高く評価したドヴォルザークに比べれば、グラフィックデザイナーで画家のアルフォンス・ミュシャ(1860~1939)の知名度はそれほどではない。だが、吉田風にいえば、ミュシャは美術という才能を持ってこの世に誕生した天才の一人だった。  国立新美術館で開催中の「ミュシャ展」を見た。同じ美術館で、前回書いた草間彌生展が開かれているが、どちらも甲乙つけがたいほど大勢の入場者でにぎわっていた。私はこれまでミュシャの大作『スラヴ叙事詩』の存在を知らなかった。たまたまNHKの特集番組を見てこの画家に興味を抱いた。  ミュシャはポスター制作者として一世を風靡した。ハプスブルク家が支配する旧オーストリア帝国モラヴィア・イヴァンチツェ(現在はチェコ)で生まれ、子どものころから絵がうまかった。中学校を中退、働きながら、あるいはパトロンを得てチェコのデザイン学校やミュンヘン、パリの美術学校で学んだ。世に出るきっかけになったのは、1895年に制作した舞台女優のサラ・ベルナールの芝居用ポスター「ジスモンダ」だった。たまたま年末だったため著名な画家は休暇でパリを留守にしていて、ミュシャが頼まれた。華やかなポスターは評判…

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1562 「生と死」にどう向き合う 草間彌生展にて

 彫刻家、画家である草間彌生は、自伝『無限の網』(新潮文庫)の中で、「芸術の創造的思念は、最終的には孤独の沈思の中から生まれ、鎮魂のしじまの中から五色の彩光にきらめきはばたくものである、と私は信じている。そして今、私の制作のイメージは、『死』が主なるテーマである」と書いている。国立新美術館で開催中の「草間彌生 わが永遠の魂」展は、まさに死をテーマにした、原色に彩られた独特の作品が並んでいる。  草間は2009年から大型の絵画シリーズ「わが永遠の魂」に取り組んでいるという。それは「生と死」に対する草間の向き合い方が示されているようだ。草間は、自伝の中で現代の死について以下のように示している。 《科学や機械万能の進歩による人間の思い上がりは、生命の輝きを失わせ、イメージの貧困をもたらしている。暴力化した情報化社会、画一化した文化、自然の汚染、この地獄絵図の中で、生の神秘はすでに息づくことをやめている。私たちを迎い入れる死は、その荘厳である静かさを放棄し、私たちは静謐な死を見失いつつある》  このように考える草間は、「わが永遠の魂」シリーズで、死への道について多くの作品を描いた。それには「私の死の瞬間」「天国へのぼる時」「天国へのぼる会談」「死の足跡」「天国へ昇る入口」「死の瞬間」「永劫の死」等々、死を考える数多くの題名が付いている。  私が初めて草間の作品を見たのは、7年前の2010年、青森県十和田市にある市立十和田市現代美術館でのことだった。美術館の外にも、現代芸術家たちの作品が…

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1561 ブリューゲル『バベルの塔』を見て 傲慢への戒めを思う

 ピーテル・ブリューゲル(1526/1530年ごろ~1569)は、2点の「バベルの塔」の作品を残している(もう1点描いたといわれるが、現存していない)。多くの画家がこのテーマで描いているものの、傑作の呼び声が高いのはブリューゲル作である。その1点を東京都美術館で見て、スペイン・バルセロナで建築中の巨大教会、サグラダ・ファミリア(聖家族教会)を連想した。  ブリューゲルは1563年に1点目(油彩画、114×155センチ、ウィーン美術史美術館所蔵)を描き、さらにこの5年後の1568年ごろに2点目(油彩画、59.9×74.6センチ、オランダ・ボイマンス美術館所蔵 )を完成させた。ブリューゲルはネーデルラント(現在のベルギーとオランダにまたがる地域)のアントウェルペン(アントワープ)で長く暮らした。当時この町は古代都市バビロンに似ていたといわれ、建築現場も多かった。そうした現場を詳細に観察した結果が、この絵に反映したのではないかと、中野京子は『名画の謎』(文春文庫)で書いている。  バベルの塔は、旧約聖書の中の「創世記」に出てくるれんが造りの高い塔のことである。人類はノアの大洪水後、ノアの子孫たちがシナル(バビロニア)に住みつき、れんがによって町を作り、塔を建てて天にまで届かせようとした。これを見た神が、人類が一つの言語を持つからこのような行いをするのだと怒り、その言語を乱し人間が互いに意志疎通できないようにと、人々を各地に散らして塔の完成を妨げたというのである。旧約聖書のこの物語は、人間の傲…

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1560 「怖い絵」について 人の心に由来する恐怖

 西洋絵画には、見る者に戦慄を感じさせるものが少なくない。そうした絵画を中野京子はシリーズで取り上げた。その第1作はラ・トゥールの『いかさま師』からグリューネヴァルトの『イーゼンハイムの祭壇画』まで22の作品を恐怖という視点で紹介した『怖い絵』(角川文庫)である。恐怖は人の心に由来するものであり、登場する絵も1点を除き、人間(ジェンティレスキ『ホロフェルネスの首を斬るユーディト』のような人を殺す恐ろしい場面の絵も含まれる)中心に描かれている。  その1点とは、ベルギーのフェルナン・クノップフ(1858~1921)作、『見捨てられた街』である。この絵について中野は「一瞬、色褪せて黄ばんだ古い写真と見まごう。上半分までが空。その湿った空の下には、鋭い切妻屋根の家と、広場と、海――。」と書いている。パステル画であり、ベルギー北西部のブリュージュ(日本で発行された世界地図にはブルッヘという表記が多い)を題材にした無人の街の姿を描いている。この町が廃墟になった歴史はなく、ベルギーの代表的観光都市である。  クノップフは、ジョルジョ・ローデンバックの『死都ブリュージュ』という小説に惹かれて、少年時代の一時期を過ごしたこの町をテーマに絵を描いたのだそうだ。心が壊れていく人間の姿を描いた小説の内容は割愛するが、「この絵の何が怖いかといえば、思い出に囚われたまま滅びゆこうとする人の心が伝わってくるからだ」と中野が分析している通り、人影のないブリュージュの街は静寂そのものであり、不気味で怖い。  私…

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1558 苦闘する学芸員たち 政治家の発言にひるむことなかれ

 これまで全国のさまざまな博物館や美術館を回り、学芸員から話を聞いた。彼ら、彼女らはいかにして、自分や同僚たちが企画した展覧会に多くの入場者を呼ぶか奮闘していた。そんな人たちに対し、山本幸三地方創生相が外国人観光客らへの文化財などの説明、案内が不十分として「一番のがんは文化学芸員。この連中を一掃しないとだめ」と発言し、問題視されると撤回した。学芸員の仕事を理解していない妄言としか言いようがない。  海関係の展示を専門とする博物館のある学芸員は、東日本大震災の際、被災地で多くの漁船が流されてしまったことを知って、自分が住む地域の漁師たちに呼び掛け、使っていない多くの漁船を集めた。地域に根付いた博物館の学芸員としての顔の広さを利用し、集めた漁船が被災地の漁業復活に一役買ったことは言うまでもない。震災から1年後、岩手県陸前高田市の「奇跡の一本松」など震災をテーマにした障害者の作品を集め、感動を呼んだ企画展を立案した公立美術館の学芸員もいる。  一方で施設は立派だが、予算が足りないため、思い切った企画展を開催できないことに悩む学芸員も少なくない。それでも入場者数を伸ばそうと、全国の学芸員たちはさまざまなアイデアを考えているのである。  先日、今村雅弘復興相の暴言のことを書いたばかりで、再び、現職閣僚の話をこのブログに取り上げるのは、正直気が進まない。しかし、今度の山本発言は学芸員の仕事を冒涜するもので看過できないと思うのだ。  米国の第16代大統領、リンカーンは、次のような言葉を残…

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1494 雄々しい高橋英吉の《海の三部作》 被災地作品展を見る

 私が高橋英吉という彫刻家の名前を知ったのは、もう36年前のことになる。だが、その作品を見る機会がないまま長い歳月が過ぎてしまった。先日、東京藝大美術館に足を運び、そこで高橋の作品に初めて接した。海に生きる雄々しい漁夫をテーマにした代表作の木彫作品《海の三部作》の《潮音》《黒潮閑日》《漁夫像》が目の前にある。その作品の前で立ち止まり、私は初めて高橋の家族と出会った当時のことを思い出した。  1911年に石巻市で生まれた高橋は、東京美術学校(現在の東京藝大)で木彫を学び、彫刻家として将来を期待される作品の制作を続けた。だが、太平洋戦争に応召し1942年11月、多くの餓死者を出したガダルカナルの戦いにより31歳で戦死、彫刻家としての才能は南の島で断ち切られてしまった。  私は36年前の1980年10月、取材でソロモン諸島国の首都ホニアラがあるガダルカナル島を訪れた。財団法人南太平洋戦没者慰霊協会(当時)が島を見渡す丘の上に「ソロモン平和慰霊公苑」をつくり、戦没者の慰霊碑と高橋の作品のうち《潮音》のブロンズ像を建立した。式典には高橋の未亡人の澄江さんと一人娘の幸子さん(版画家)や高橋を知る石巻の人たちも混じっていて、私は若くして戦火に散った彫刻家がいたことを知った。  高橋は石巻の網元の家の末っ子(五男三女)に生まれ、東京美術学校を出た後、家業が傾いたため南氷洋の捕鯨船で半年働いた。この体験を基に桂の木を使った《海の三部作》が生まれた。平和慰霊公苑の一角に建立された《潮音》のブロンズ像…

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1492 コルビュジエの思想 世界遺産になる西洋美術館

建築家、安藤忠雄氏の愛犬の名前は「ル・コルビュジエ」というそうだ。どこかで聞いた名前だ。そう、フランスの20世紀を代表する同名の建築家(1887年10月6日―1965年8月27日)である。上野の国立西洋美術館を含め、彼が設計した建物が世界文化遺産への登録が確実になったというニュースが流れて間もなく1カ月になる。コンクリートの建物は現代では珍しくはない。それを広めたのはル・コルビュジエだった。 手元に近代建築史の本がある。第二次大戦後、世界の建築界は2人の建築家によって花が開いたという。その一人はル・コルビュジエであり、もう一人はミース・ファン・デル・ローエ(1886年3月27日―1969年8月17日)である。ミースはドイツ出身でナチスから逃れてアメリカに亡命し、モダニズムの建築を手がけ建築界に大きな影響を与えた。一方、スイス出身でフランスを中心に活動したル・コルビュジエは、打ちっ放しのコンクリートが特徴のさまざまな建築物を残した。その一つが国立西洋美術館だった。 同館はコルビュジエが設計した国内唯一の建物であり、実業家で美術収集家、松方幸次郎(弟の松方三郎は、登山家で元共同通信社専務理事)が収集した絵画を中心とした美術品(松方コレクション)が第2次世界大戦後、フランスから返還されたことを契機として建てられ、1959年(コルビュジエは1955年に来日して、西洋美術館を設計した)に完成した。 西洋美術館には、何度か足を運び、あるいはその前を通ったことは数知れない。典型的なコンクリート…

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1483 静かな秋田の市立美術館 若冲展とは別の世界

先日、秋田市立千秋美術館の「最後の印象派」展を見た。20世紀初頭のパリで活躍した画家たちの絵80点を集めたものだ。入場者はそう多くはなく、ゆったりと時間が流れる中でじっくり絵を見ることができた。一方、上野の東京都美術館で開催中の伊藤若冲展は、多くの人が詰めかけ、入場待ちの長い列ができているという。それは異常な光景としか思えない。 千秋美術館は、1989年にオープンし、戦後ニューヨークを中心に「幽玄主義」という抽象画で活躍した岡田謙三の作品を常設展示していることで知られる。すぐ近くには藤田嗣治の秋田の四季を描いた「秋田の行事」が展示された秋田県立美術館がある。印象派は19世紀後半のフランスを中心に活動したグループで、セザンヌやモネ、ルノワールといった著名な画家がいる。そうしたグループのスタイルを継承し、自然の中の光の表現を探求したのがエドモン・アマン=ジャン、アンリ・ル・シダネル、オーギュスト・ロダンら「最後の印象派」といわれる画家たちだ。この画家たちは前衛的活動に参加しなかったため、美術史の中で埋もれてしまったが、近年になって再評価されつつあるという。私はアンリ・マルタンの《野原を行く少女》の前で、多くの時間を割いた。野原を歩く少女。手には赤いバラ。花びらが少女の下半身から後方に流れている。少女は何を夢見ているのか―。 東京都美術館に長い行列ができている伊藤若冲も、最近急に人気になった画家である。若冲は米国で評価され、その後に日本で再評価されたという経緯がある。日本を含め東洋の美術品を…

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