1894 涙の沖縄への地図の旅 ひめゆり部隊の逃避行

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 私の地図を見ながらの想像の旅は、今回で4回目になります。前回の九州から海を隔て、沖縄へと旅は続いています。6月。それは沖縄の人々にとって、忘れることができない鎮魂の月といえます。太平洋戦争末期の1945(昭和20)年3月26日、座間味島など慶良間諸島に上陸した米軍は4月1日に沖縄本島に侵攻、6月23日に日本軍の組織的抵抗が終わったのです。住民十数万人が犠牲になった沖縄戦。ひめゆり学徒隊の悲劇を読む度に、平和を希求する思いを深くするのは私だけではないでしょう。

 私の机の上には2冊の本があります。石野径一郎『ひめゆりの塔』(講談社文庫)、小林照幸『ひめゆり 沖縄からのメッセージ』(角川文庫)です。2冊の本を読み返しながら、私の沖縄行は「涙の旅」になりました。

 沖縄県糸満市にあるひめゆりの塔には何度も足を運びました。いつも厳粛な気持ちになるのですが、首都圏から沖縄に移り住んだ私の知り合いは、初めてここを訪れた際、語り部の説明を聞いて号泣したというのです。ひめゆりの塔に関しては、多くの本があります。たまたま私の手元にあった本を見ただけでも、沖縄の人々が戦争によって過酷な運命をたどったか知ることができると思うのです。

 ひめゆりの塔は、糸満市伊原(いばる)に建立された慰霊の塔です。この塔について、ここで書くまでもないほど、多くの人が現地を訪れ、映画を見て、本を読んで由来を知っているはずです。太平洋戦争末期、那覇にあった沖縄県立女子師範学校と第一高等女学校の生徒によって編成された「ひめゆり部隊」(あるいは「ひめゆり学徒隊」)は従軍看護婦として那覇に隣接する南風原(はえばる、首里城から南に約10キロ)の沖縄陸軍病院(通称・南風原陸軍病院)壕に動員になりました。しかし、沖縄に押し寄せた米軍によって南風原に危険が迫り、分散配置の名目で患者とともに沖縄本島南へと移動(逃避行あるいは避難行)を始めます。

 しかし、圧倒的物量を誇る米軍に対抗する術はなく、軍人、民間人とも次々に命を落としてしまうのです。『ひめゆりの塔』はこの地獄ともいえる逃避行を、伊差川カナという女子師範学校の生徒を主人公として描いています。地図を見ると、ひめゆり部隊の避難行は、南風原から東風平→志多伯→与座→大里→真壁を通り、米須へと苦難の道を歩くのです。この90日の間、米軍の艦砲射撃、戦闘機の機銃掃射によって、次々に若い命が奪われていきます。最も犠牲が多かったのは、第三外科を担当したグループで、ひめゆりの塔は、そうした悲劇の地につくられたのです。

「第三外科壕には、ひめゆり学徒隊の他、陸軍病院関係、通信兵、住民などおよそ百人がいた。米軍の毒ガス弾攻撃を受け、80人余が死亡、ひめゆり学徒隊も51人(うち教師5人)が死亡。生き残ったのはわずか8人(うち教師1人)だったが、無念にも壕を出た後、3人が死亡した」(小林照幸『)ひめゆり』から)。

『ひめゆりの塔』の伊差川カナは、親友も可愛い妹も含めて大事な人を失うのですが、彼女は生き残りました。石野はラストシーンを「カナの耳には、どこからともなく、明るい美しい音楽がきこえ、そのほおはさえ、表情は明るく晴れていた」と書いています。この最後の一節は、「絶望の淵に立っても希望を失わないでほしい」という石野の願いが込められているといっていいでしょう。私は2冊の本を読み終えて、あらためて沖縄の地図を見直しました。すると、この南の島の悲しみの歴史が浮かんできたのです。太平洋戦争の沖縄。本土への米軍上陸を阻止しようという名目で、民衆を巻き込んで抵抗しようという軍部の愚かな作戦の犠牲になりました。そして米軍基地の島となって長い月日が過ぎたのに、今も沖縄は日本政府が顧みない島のままなのです。地下に眠るひめゆりの少女たちの涙は、容易に消えないでしょう。

 
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 写真 いずれも摩文仁(糸満市)の平和記念公園の風景

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