1866 科学には国境がない かみしめたいパスツールの言葉

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 第一次世界大戦が終結したのは1918(大正7)年11月のことだった。この年の3月初めに米国カンザス州の陸軍基地から発生したとみられるインフルエンザA型(H1N1型)は、欧州戦線に従軍した米軍兵士を通じてヨーロッパに伝わり、さらに世界的流行(パンデミック)となり、3波にわたって猛威を振るった。「スペイン風邪」である。罹患者は推定で5億人、死者は4000万人~1億人(日本の死者は40万人前後といわれる)に上るという空前絶後の犠牲者が出た。

 戦争により兵士だけでなく市民もおびただしい命(計推定約1700万人。行方不明も1000万人近くとみられる)を失っており、人類にとってまさに「受難」の年だった。新型コロナウイルス感染症についてトランプ米大統領は、このままでは米国内の死者が10万~24万人、感染防止策を取らなかった場合は150万~220万人(スペイン風邪の米国の死者は約55万人=ブリタニカ国際大百科事典)に達するとの分析結果を公表した。恐るべき数字である。こんな時代だからこそ、フランスの細菌学者で狂犬病ワクチンの開発で知られるルイ・パスツール(1822~1895)のある言葉を思い浮かべるのだ。

 劇作家の岸田國士(女優・岸田今日子さんの父親)は、風邪をテーマにした随筆を書いている。『風邪一束』(岩波書店『岸田國士全集21』)である。 「久しくその名を聞き、常に身辺にそれらしいものゝ影を見ながら、未だ嘗てその正体をしかと捉へることが出来ないものに、風邪がある」という書き出しの随筆の中で、岸田はスペイン風邪にも触れている。「尤も、この流行性感冒という曲者は、近時、「スペインかぜ」という怪しくも美しい名を翳(かざ)して文明国の都市を襲い、あつと云う間に幾多の母や、夫や、愛人や子供や女中の命を奪つて行つた。同じ死神でも虎列刺(これら)や黒死病(ぺすと)と違い、インフルエンザといえば、なんとなく、その手は細く、白く、薄紗を透して幽かな宝石の光をさへ感じしめるではないか」

 この随筆は流行から10年経た1929(昭和4)年1月3、4日の時事新報(福沢諭吉が創設した日刊紙)に掲載された。冒頭の「未だ嘗てその正体をしかと捉へることが出来ないもの」は、インフルエンザや未知のウイルスへの恐れを言い表した言葉といえよう。スペイン風邪は著名人も例外なく罹患し、社会学者のマックス・ウェーバー(ドイツ)、東京駅を設計した辰野金吾、劇作家の島村抱月、日露戦争の日本軍勝利の立役者の一人の元帥陸軍大将、大山巌の夫人で女子教育者の大山捨松、皇族の竹田宮恒久王らが死亡し、島村の愛人で女優の松井須磨子が後追い自殺したこともよく知られている。岸田はこうしたおびただしい命が奪われた災厄を、風邪にまつわる随筆の中に短く織り込んだのだ。

 歌人で医師の斎藤茂吉は、長崎医学専門学校(現在の長崎大学医学部)の教授時代の1920(大正9)年、スペイン風邪に感染し医専病院に入院、「はやりかぜ一年おそれ過ぎ来し吾は臥(こや)せりて現(うつつ)ともなし」という歌をつくった。さらに代表作の「ゆふぐれの泰山木(たいさんぼく)の白花(しらはな)はわれのなげきをおほふがごとし」(自註 病院の庭に安泰山木があって白い豊かな花が咲いて居る。それを見ておると病気の悲哀を忘れることが出来る。『おほふが如し』であった)は、病室から泰山木を見て慰められた心情を描いたものだ。

 スペイン風邪は人類史上最大のパンデミックといわれている。それから100年以上が過ぎ、当時に比べると科学(医学)は格段に発達している。だが、それに対抗するように未知のウイルスの脅威が人類を襲い、現在は新型コロナウイルスとの闘いに人類は苦戦を強いられている。

 さてパスツールのことである。「科学には国境がない。科学者には祖国がある」という言葉を残したことでも知られる。ものの本によると、大人には厳しく対応する半面、子どもには優しかったというパスツール。自身による予防接種の子どもの身を心配し、眠れない日が続き、病の子どもには手紙を書き励まし、回復が絶望的な少女に対し、息を引き取るまで手を握り続けたという。グローバル化の時代に世界を襲った新型コロナウイルスとの闘う現代だからこそ、私はパスツールの言葉をかみしめたいと思う。

 写真 間もなく新学期のスタート。子どもたちの登校を待つ近所の小学校校舎。桜が満開だ。子どもたちの元気な声が聞こえるだろうか。

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