1830 思い出の首里城への坂道 沖縄のシンボルの焼失に衝撃

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 那覇市の首里城が火災になり、中心的存在の正殿、南殿、北殿など計7棟(4800平米)が焼失した。「首里の城は私たちの心の支え」と沖縄の人々が語るほど、この城は沖縄の象徴でもある。私は昨年末から今年の正月を首里で過ごし、毎日、城の周辺を散歩していた。正月には伝統の儀式を見る機会があった。それだけに火災を伝えるテレビの映像を見て、受けた衝撃は大きかった。同じような思いの人は少なくないだろう。

 さー 首里天加那志(しゅりてんがなし・王様の意味)の よいしーよいしー
 さー 御材木だやびる さーはい ゆえーはーらーら
 さー はりがよいしー さーい そそそそーそ
 いーいひひひひ あーあははははー

 太平洋戦争の沖縄戦で首里城は焼失した。一角の防空壕の中に旧日本軍の司令部(32軍)が置かれたことから米軍の攻撃は激しく、国宝は灰塵に帰した。その後、首里城跡には琉球大学キャンパスが置かれたが、沖縄の本土復帰後、沖縄県によって首里城の復元が計画され、大学のキャンパスも移転し、1988年には正殿の設計が完了、翌89年11月に「小曵式」(こびきしき)が行われた。これは琉球王朝時代、首里城の工事の際に各地から集めた木材を城内に入れるときの「チャイ」といわれる木遣りの儀式である。木材の出発地の国頭で歌われたのが上掲の「国頭(くにじゃん)サバクイ」という木遣り唄だった。

 首里城の復元工事が竣工したのは1992年のことで、2000年(平成12年)12月には「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として「首里城跡」(正殿地下にある17世紀以前に建てられた遺構。正殿の床は一部がガラス張りになり、遺構を見ることができた)が「今帰仁城跡」(国頭郡今帰仁村)や「座喜味城跡(中頭郡読谷村)、「勝連城跡」(うるま市)らとともに世界遺産に登録された。復元された首里城の建物や城壁は世界遺産ではないが、文化的価値は高かった。今年2月からは「御内原」(おうちばら=国王と家族、国王に仕える女性たちが暮らした場所)といわれる正殿の東側一帯が整備公開され、多くの観光客でにぎわいを見せていた。

 私の手元には、「年間パスポート」という首里城入城のための今年12月末まで有効のカードがある。このカードには、朱色の正殿の写真が入っている。首里城の全体像を見ると、有名な守礼門など幾つかの門があり、中央部正面に正殿、向かって左側に北殿、右側に南殿がある。その奥に御内原が存在するのだが、これらの建物は軍事的意味合いが濃い本土の城とは異なり、琉球王国伝統の文化的香りが漂うのだ。

 首里城は13~14世紀に建築され、沖縄戦を含めてこれまで4回焼失している。残念だが、今回で5回目の焼失となってしまった。家族とともにこの夏まで城近くに住み、城の内外を熟知している小学生の孫娘は、テレビで炎上する城の映像を見て「これは夢なの」と話したが、誰もが夢であってほしいと思う火災だといえる。このブログを書くに当たって参照した『首里城への坂道』(中公文庫)で、著者の与那原恵は「沖縄は戦争であまりに多くのものをうしなったけれど、思いがあれば、ふたたび築くこともできる。復元工事そのものがそのことを教えてくれた」と書いている。私はこれまで首里城への坂道を何度も歩いた。正殿、北殿、南殿は無残に焼け落ちてしまったが、陽光に輝く朱色の建物を決して忘れないだろう。そして、いつの日にか首里城復元のための木遣り唄が歌われることを願うばかりである。

 
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 1、首里城正殿 2、首里城遠景 3、首里城から見た那覇市内 4、首里城全体像=沖縄美ら島財団発行の「御城だより」2019・4月号より

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