1816 正義の実践とは 東電旧幹部の無罪判決に思う

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 机の後ろの本棚に『ことばの贈物』(岩波文庫)という薄い本がある。新聞記事やテレビのニュースを見ながら、時々この本を取り出して頁をめくる。そのニュースに当てはまる言葉ないかどうかを考えるからだ。福島第一原発事故をめぐる東電旧経営陣3人に無罪を言い渡した東京地裁の判決を読んで、米国の政治家でベンジャミン・フランクリン(1705~1790)の言葉に注目した。強制起訴を門前払いにした形の判決は、理屈だけを前面に出したものと言えるからだ。

 フランクリンは、自伝の中で「理性ある動物、人間とは、まことに都合のいいものである。したいと思うことなら、何にだって理由を見つけることも、理屈をつけることもできるのだから」と、述べている。これは最悪の関係になっている日韓両国の政治リーダーにもいえることだが、ここでは判決について考えたい。

 この判決の骨子は、①最大15・7メートルの津波予測のもとになった国の長期評価は、具体的根拠を示していないので、信頼性に疑いがある②事故当時の知見(考察して知り得た内容)では、被告3人に高さ10メートルを上回る津波を予見し、安全対策が終わるまで原発を停止させる義務があったとはいえない③事故前の法規制は、絶対的安全確保を前提としておらず、3人に刑事責任を負わせることはできない、の3点だ。

 無罪ありきの前提に立てば、この3点に集約されるだろう。本来なら厳格に安全対策を練るべき責任があるのに、様々な理屈をつけて対策を講じなかった。そして「想定外の津波」という言葉で責任を放棄したのが旧経営陣だった。それを裁判所は追認した形である。

 判決文の中に、次のようなくだりがある。「現代社会における電力は、社会生活や経済か活動を支えるライフラインの一つで、福島第一原発はその一部を構成し、その運転には小さくない社会的な有用性が認められる。その運転を停止することは、ライフライン、ひいては地域社会にも一定の影響を与えることも考慮すべきだ。運転停止がどのような負担を伴うものかも考慮されるべきだ。結果の重大性を強調するあまり、その発生メカニズムの全容解明が今なお困難で、正確な予知や予測に限界がある津波という自然現象について、想定しうるあらゆる可能性を考慮して必要な措置を講じることが義務づけられるとすれば、法令上は原発の設置、運転が認められているのに、運転はおよそ不可能ということになる」

 何を言っているのかと思う。前段は今更言うまでもないことだ。ただ、原発ゼロでも電気が不足することはなかったし、原発が事故を起こせば破局が待っていることはチェルノブイリと福島の事故で明らかだ。「想定し得るあらゆる可能性を考慮して必要な措置を講じる」ことが、原発事故防止の基本だと私は思う。検察の不起訴処分に対し、民意を代表する検察審査会が2度にわたって「起訴相当」と議決し、強制起訴になった裁判だった。しかし、有罪は困難との見方が初めからあった。それにしても、あまりに突き放した印象が強い判決は、原発事故がよその国で起きたような錯覚さえ抱いてしまうのだ。

 フランクリンは、自身の理想を実行することを目的に、13の信念をつくって実践した。その中の1つに「8、正義 他人の利益を傷つけ、あるいは与うべきを与えずして人に損害を及ぼすべからず」がある。東電の旧3幹部と、この判決を出した3人の裁判官に正義についてどのように思っていたか聞いてみたい。

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