1768 東京も千葉も福島も桜の季節 「人はいかに生きるべきか」

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 かつては「桜前線が北上」という言葉が一般的だった。だが昨今、この言葉はあまり使われなくなった。異常気象といわれた世界の気象がいまや恒常化してしまい、東京と福岡の桜の開花日が同じになっている。自然界も異常を普通にしてしまう「トランプ現象」と足並みをそろえてしまっているようだ。私の住む千葉がまだ満開の一方で、原発事故から8年が経た福島でも美しい桜の季節を迎えている。福島の人たちはどのような思いでこの季節を送るのだろう。

 共同通信社の現在の福島支局長は、ロシア問題専門の私の信頼する佐藤親賢という後輩記者だ。佐藤記者が最近、書いた社内文書を読む機会があった。福島の現状を紹介した後、彼の思いを書いていた。私はその文章に惹かれた。

「人はいかに生きるべきかという問いに、全ての人が向き合っているわけではあるまい。しかし震災・原発事故を経験したことで、自分はこれからどう生きたらいいのかを考えさせられた人がたくさんいた。福島の記者たちが日々取材しているのは、そういう人々の思いである。原子力災害にどう向き合うか。急速な過疎化と高齢化にどう対応するか。どんなやり方でエネルギーを、そして安全な食料を確保するのか。福島は、こうした課題についての『学びの場』になったらいい。県外や国外から視察を受け入れ、自分たちの苦しい経験を分かち合い、今後予想される災害や課題への解決策を共に考える。いまだに続く『風評被害』もその中で克服されていくに違いない」

「人はいかに生きるべきか」という後輩のこの問いに、私はどう答えたらいいのだろう。人は極限状況にならなければ、こうした哲学的なことは考えないだろう。だが、東日本大震災のような、命の瀬戸際を感じることがあると、そのことを考える人も少なくない。私もそうだった。だが、日本人の特徴である「喉元過ぎれば熱さを忘れる」で、ついそうした辛い日のことを忘れようとする。佐藤記者の文章を読んで、それを痛感した。

 原発事故の福島・富岡でバスの中から桜並木を見たというニュースをやっていた。原発事故さえなければ、満開の桜の下を歩く人々でにぎわっていたはずなのに、富岡の街に人はいない。開花した桜並木が美しいだけに、虚しさが伝わってくる。現代文明は、原子力という恐るべき存在を誕生させてしまった。いま、もてはやされているAIや遺伝子組み換えは、近未来災いをもたらすことはないのだろうかと憂慮してしまう。杞憂ならいいのだが……。

 私は自転車で周辺の桜の名所をめぐった。どこに行っても春を迎えた屈託のない顔であふれていた。だが、と思う。この日本も、世界も相変わらず問題が山積みなのだ。そのことを思うと、自転車をこぐ足が重くなった。

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