815 ひょうたん島はどこへ行く 大震災の悲しみを乗せて

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一時代の子どもならだれでも知っていた人形劇「ひょっこりひょうたん島」(NHKで1964年―69年に放映)の主題歌「波を ちゃぷちゃぷ ちゃぷ ちゃぷ かきわけて・・・」を作曲した宇野誠一郎さんが、4月26日に亡くなった。人形劇の原作者の一人で、この歌を作詞した作家の井上ひさしさんは昨年4月9日に亡くなっている。2人は歌にあるように、ひょうたん島に乗り、東日本大震災の被災者の悲しみを背負いながら、青い鳥を求めてどこかに向かって進んでいるのかもしれない。

ひょうたん島のモデルはどこであるかはっきりしないという。瀬戸内海の無人島・瓢箪島や、東京都の八丈島、岩手県釜石市の三貫島・大槌町の蓬莱島、宮城県石巻市の田代島、青森県八戸市の蕪島など、自薦他薦を含めていくつかの島がそうではないかといわれている。このうち東北の島々はいずれもが東日本大震災で被災した三陸沿岸にある。

この中の一つである蓬莱島は、島の象徴でもあった灯台が土台だけを残して津波でさらわれ、弁天様のお堂も床が抜け落ちた。しかし弁天様は流されず無事で、島の中央にあった高さ10メートルほどのアカマツも倒れずに残った。それは、島が必ず再生するという証のようである。もう一つの田代島は、人よりもネコが多く住んでいるため、「ネコの島」とも言われているが、幸い大きな被害は免れ、島にあるNPOが東日本大震災の被災者支援の活動をしている。

考えてみると、私たちが住むこの日本はひょっこりひょうたん島のようなものだ。その島国を4千万歩も歩き続け、わが国で初めて正確な国土地図を作製したのが伊能忠敬だ。商人として成功したあと49歳で隠居し、50歳から天文学や測量学を学び、56歳から73歳まで17年をかけて約3万9000キロを踏破、「大日本沿海輿地全図」を完成させる。

当時の人たちは今のように長生きではなかった。ところが、忠敬は常識をはるかに超え78歳まで生きる。しかも、17年の歳月を地図作りにささげたのだから、忍耐強さは尋常ではない。そうした目的意識が体と精神の若さを支えたのではないかと想像する。

忠敬は千葉県の出身で、懸命に働き続けて商家を立て直した。それを息子に譲って測量と天文学を目指し、後世に名を残す人物になる。しかし「天文暦学の勉強や国々を測量することで後世に名誉を残すつもりは一切ありません。いずれも自然天命であります」という言葉を残している。悲壮感はなく、好きなことをやって余生を過ごすという「自然体で生きる」ことの大事さが伝わる。

忠敬の地図作りの情熱を「四千万歩の男」という作品に書いたのが、ひょっこりひょうたん島の原作者の井上ひさしさんだ。忠敬が隠居した50歳は、現代人にたとえると、60歳以上に相当するのではないか。隠居、すなわち定年を過ぎてから自分の目標を立て、それをやりぬくという忠敬の生き方に井上さんも感銘をうけ、小説の題材として採用したのだろう。忠敬が現代に生きていたらどんな行動をとるのかと想像する。「いずれも自然天命」というのが信条の彼はあわてず騒がず、周囲の人たちにどう生きたらいいのか、その道筋を控え目に教えてくれるに違いない。

津波と原発事故によって、住む家を奪われ、避難所生活をする人たちがいまも10万人以上いる。このような被災者に対し、かける言葉を見つけるのは容易ではない。そんなときに思い浮かべるのがひょっこりひょうたん島の歌詞の後半部分だ。「苦しいこともあるだろさ 悲しいこともあるだろさ だけどぼくらはくじけない 泣くのはいやだ 笑っちゃおう 進め・・・」。歌を思い出し、この詞に慰められている被災者もいるだろう。

大震災後、岩手、宮城、福島の被災地を歩いた。町や村が消えた各地を見て自然は非情であり、理不尽でもあると思った。日常が失われた街並みは、この世の終わりを思わせる残酷なものだった。町の機能を失った大槌の中心部に立って、日本列島が地震を避けることができない宿命にある以上、日本人は自然の脅威の中で生きる選択肢しかないことを痛感した。

同時に、このような大災害を防ぐ強い智恵を持たなければならないことを再確認しなければならないとも思った。自然災害を防ぐことができないのは、多くの面で自然を甘く見た「人災的要素」が強いということであり、東電福島第一原発事故はその典型なのだ。死者・不明約2万5000人という犠牲者の数は戦後65年の歴史での中でも、飛び抜けている。しかも、原発事故は現在進行中で終わりが見えない。このような災厄から立ち直り、どのような姿で被災地を復興していくのか、日本人の智恵の水準が世界に問われているといっていい。

(写真は大槌町吉里吉里地区)

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